女神と英雄

 勇気ある者、勇敢なる者。ひとびとが石を投げ、罵り、足蹴にしても、自分の行を貫いた者。

 ジャイナ教徒にとってそれはマハーヴィーラのことだが、ヒンドゥーの者にとってはラージプートの英雄のことである。ムスリムにとっては聖者ニザームッディーン・アウリヤーだろうか。

 牧畜民ラバーリーのひとびとは、ラージプートの英雄をけして忘れない。ムスリムが都市を攻め滅ぼしたとき、身を挺して自分たちを守ってくれたラージャー。その英雄は神霊になり、村の祠に宿る。絵語りをするボーパーとボーピーたちは、宵闇のなか、素焼きのランプに火を灯して布絵を照らし、そこに宿り、自分自身にも宿る英雄バープージーの悲劇を謳う。婚姻のため、ランカー島、雫の島に住む魔王から、雌らくだを奪ってきた勲。かれが花嫁のもとに戻るために陥った艱難辛苦。姻戚とのはげしい戦のなか、かれのもとに天上から輿がやってくる――……

 物語りはいつも、死では終わらない。悲劇の英雄の魂は、敵対者の首と血、復讐によってなぐさめられる。聖者にとっては後世の顕彰と涙、痛切な歌声と旋回する踊り、灯明と喝采が復讐となる。あるいは椰子の葉の書物に書き込まれた経典にもとどめられ、朗唱され、解釈され、きびしい実践のなかでもういちど生きられる。

 ロッキはおさない息子を天然痘で喪った女である。白茶けた山麓の村で、貧しい暮らしをしていた。みな罹患して、ロッキは解熱したが、おさない子どもや老人、痩せほそったひとびとは死んでしまった。あばたが残り、ロッキは姑や夫に息子が死んだことを責められる。山羊を追うための杖で打たれ、全身にあざができる。

 夜中に目覚めて、突然、もうここにはいられないと思う。女神のもとに行かなければならない。 バガワティー・マーイー、疱瘡と慈愛の女神である。自分が息子を喪ったのは、彼女への祈りが足りなかったからだと、ロッキは思っている。彼女は走り出した。星あかりを頼りに、野犬に怯えながら、尾根を越え、街道をまたぎ、城塞の芥場で足を踏み外し、腕にざっくりと傷を負い、走っていく。川を渡り、棘だらけの林を抜け、祠にたどり着く。そこには女たちが群れつどい、ある者は讃歌を謳い、ある者は泣き叫び、ある者は倒れ伏し、ある者は目を剥いて踊っている。

 わたしの赤ちゃんを返して。

 夫を。

 わたしは寡婦になってしまった。もう家では生きていけない。

 銀の板でできた目を見開き、鏡片刺繍でぎらぎらした真っ赤なヴェールをまとい、女神は祠にたたずむ。赤い麦粉をバター油ギーで練ったものを塗られ、彼女はてらてらと輝いている。

 呪詛が横溢している。女神はそれをじっと受け止めている。

 神像を害そうとする者はだれもいない。しゃんしゃんしゃん、と足首の鈴の音が響き、男が駆け込んで来る。孔雀の羽根を束ねたものを振りかざし、もう一方の手で鉄鎖を自分の背に打ち付ける。語り部ではないほうのボーパー、憑依のボーパーだ。

 話を聴こう、女たちよ。

 孔雀の羽根で魔をよける仕草をしながら、神がかった男は言う。

 女たちは涙を流しながら、女神に訴える。

 息子は疱瘡で力が出なくなって絶望し、自殺しました。

 父は頭がおかしくなり、下のジャーティの者の家でダルとプーリーを食べ、穢れてしまいました。浄めのために聖地へ行く金がありません。

 ロッキは女神の前に身を投げ出した。

 息子を死なせてしまいました。浄めを受ける資格のないおさない息子を。ただひとりの息子を。

 口からことばがほとばしり出る。

 夫や姑は、自分たちが死んだあとに魂を救う祀りができる男の子がいなくなって心底悲しんでいます。夫は年寄りで、もう子種がないのです。次の世で虫けらや皮なめしに転生することを身も世もなく畏れています。村の男たちで徒党を組み、かれらを打って、かれらのむすめを回し犯して殺し、木に逆さに吊るして辱めたことがあるからです。かれは罪が浄化されていないことを畏れています。姑はそれを知っていて、息子が生まれたときの喜びようははげしいものでした。わたしの家は穢れています。皮なめしの女に触れた罪で穢れているのです。夫に触れられたわたしも穢れています。

 わたしの魂を救ってください。女神よ。

 ボーパーに乗り移った女神は哄笑した。

 愚かしい女たちよ、泣き叫べ! わたしはたくさんのいのちを滅ぼした。そなたたちももうすぐ死ぬ。死は慈悲である。であるから案ずるな。わたしに犠牲を捧げたそなたたち、わたしの前で涙を流し、謳い、踊り、痙攣し、痛みをさらに打ちのめし、転げ回って呪詛を叫んだ者たち、みな浄められた。

 女神は孔雀の羽根で女たちの頭に順々に触れていった。

 穢れは取り去られた。

 羽根は外へ向けられ、風が神像から吹き付けて、女たちは外へ押しやられた。外ではボーパーたちが火を焚いていて、女たちはそこへ自分の持ち物、ヴェールやスカート、バングルを投げ入れて燃やしてしまった。自分の一部だったものが、自分の罪を負い、自分の代わりに燃えたのだった。

 ロッキは火の前で立ちすくんだ。なにを燃やせばよいのだろう。走り続けるあいだにヴェールはなくなってしまい、腕からは血が流れるのでスカートの切れ端でくくっている。装身具のたぐいは実家からたいせつに持ってきたもので、捨てられない。

 なにもかも捨てて走り出したはずなのに、燃やしたいものがない。救いのためには、あまたの行者のように、所有することから離れなければならないのに。

 しゃん、と鈴を鳴らし、ボーパーがちかくにやってきた。

 燃やしたいものはないのか? それもまたよし。歩け、祈れ。歩け、祈れ。

 そう言うと、かれは孔雀の羽根でもういちどロッキに触れた。

 けわしい女神をおろしているはずのかれの頬には笑みが浮かんでいて、ロッキは腰が抜けて座り込んだ。

 炎が燃え、星々が燃え、ひとびとのからだは疱瘡によって燃え、ロッキは家を喪い、沙漠と山がつづくこの地では、苦しみを燃やすには自分の一部が必要だった。

 なにであれば燃やせるだろう?

 生まれてこのかた、内省するには貧しすぎたので、ロッキはこのように考えたことがなかったが、ボーパーの言う通り、歩いて祈ることをしなければならないように思えた。

 それはなけなしの勇気だ。

 この世に対して勇敢であること。

 死を畏れず、生に執着しないこと。

 ロッキは立ち上がった。

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