穢れた者、南へ落ち延びよ

 ジャイはラージプートの貴公子で、その一族はてのひらを上に向けるひとびとを軽蔑し、てのひらを下に向けて暮らしてきた。仕えるものには惜しみなく与え、女神に供物を捧げた。銃、弓、剣の扱いに長け、勇士たちを指揮し、カーブルからの兵も、デリーやアラーハーバードからの兵も下し、ムガルとは同盟を結んで、先祖の勇名をムスリム楽師マーンガニヤールたちに謳わせた。かれの鷲のようなするどく遠くを見通す目はうっすらと青いろがかっていて、遠い祖先が西から来た女を娶っていたのだと思っていた。

 隣国がムスリムの手に落ちたが、自国は守りきった。隣国とて、王の息子であった青年が立ち、救援を募っているので、やがてはヒンドゥーのものに戻るだろう。

 われわれはラージプーターナーである。

 この場所はいくたびも攻撃にさらされたが、そのたびはねのけた。

 タール沙漠を、馬車が行く。乗っているのは黒いヴェールですっぽりと覆った幼女たち。前後ではムスリムの兵士がらくだに乗って監視している。

 馬上のジャイは、地平線のかなたにあるそれを見つめる。そばに立つ力士ジェティが言う。

 行かせてしまうのですか。

 あの一行を襲えば、ムスリムたちがむすめたちの首をはねるだろう。あの剣のひと太刀で。われわれが銃を構えでもすればすぐに。

 沙漠には、あまりにもなにもない。

 心根も優しさも、つけいる隙がないほどに。

 突然、砲音がひびいた。

 見渡すかぎりの沙漠に、砲弾が撃ち込まれる。

 ジャイは振り返る。かれらの後方に、武装した一団が現れる。先頭にいるのは、金の髪の男。

 英国東インド会社だ。

 ジャイのひとことに、ラージプート王国のひとびとは色めき立つ。

 強盗ども。

 力士は叫ぶ。

 砲弾はムスリム戦士を狙っている。

 ジャイたちは退いた。

 ベンガルの野を、ひとびとの骨で白くした会社。翅のようにうすいマーヤーの綿織物産業を壊滅させ、デカン高原のマラーターのひとびとを押しつぶし、ムガル帝国の権威をしゃぶり尽くした私企業。

 英国人の馬は駆け、銃弾がムスリム戦士の胸で真紅の薔薇になり、かれらはばたばたと地面に倒れる。

 黒いヴェールの群れに動揺が生まれる。

 幼女たちはほそく悲鳴を上げ、ある者は立ち尽くし、ある者はうずくまって頭を守り、ある者は走り出した。

 南へ。

 あれらは穢れている。

 ジャイは首を振る。ムスリムとともに過ごし、かれらから食事を与えられた幼女たちは、穢れが移ってしまった。

 三人の幼女たちが、手を取り合って走る。

 ジャイにはそれくらいの歳のむすめがいたが、かれは銃を構えて、そのうちのふたりを撃ち殺した。倒れた黒いヴェールに血溜まりができる。残りのひとりは立ち止まり、泣き叫ぶ。ジヤーンクが吹きすさび、彼女のヴェールをはぎ取る。その下から、真紅の薔薇の花弁が噴き出し、一面に舞い散る。ジャイも、力士も、英国人も、その花弁を浴びる。ジャイはうるさげにそれを振り払う。花弁はすぐに乾き、茶色に枯れる。風が吹くたび、それは粉々になり、砂粒となって、男たちを打ち据える。しかしかれらはそういった砂には慣れており、らくだの陰に入ってやり過ごす。英国人たちは幼女たちからヴェールをはぎ取って回る。そのたび、彼女たちは薔薇の花弁に変わる。英国人は布を奪うのをやめず、ジャイは愚かしいと思う。牛を食べる穢れた異国人。あんな布は、低位のジャーティがまとうもので、ラージプートのひとびとは金銀糸を織り込むか、手描き更紗の布しか着ない。献上のために急いで作らせたものだろう。幼女たちが高いジャーティであっても、その家族は布を惜しんだのだ。

 穢れた者よ、南へ行け。

 ジャイは南方を見はるかす。

 逃げようとした幼女のからだから風にはぎとられた黒い布は、遠くの空を飛んでゆく。ゆらゆらと揺れながら、手負いの鴉のように。

 


 ジャイは王となると、都を建てた。自分の名を冠した都市――ジャイプル。

 栄えあれジャエ栄えあれジャエ、ジャイプル。

 マーンガニヤールたちは謳う。

 わずかに離れた山城であるアンベールから、狭隘さを逃れるためにつくった平地の都市だ。堅固な城壁で囲まれている。沙漠が赤く染まる朝や夕べには、ヒンドゥーの讃歌やムスリムのアザーンがひびき、昼間には金細工師の立てる甲高い音や、商人の呼び込み、規則正しい機音、牛の鳴き声、犬の吠え声、鳥たちのさざめきが聞こえる。街路は直線で、秩序立っているが、砂埃がひどく、熱射もあいまって暑さの盛りにはだれも出歩かない。

 塔の上の小亭チヤトリから、日が沈む、ものがなしいラーガがひびく。いくつもの幾何学図形を立体にしたような、天体観測所を建てて、急な階段が斜線になる、横から見れば直角三角形の観測台に上り、ひとひとりしか立てない場所から月を見上げる。黒月。満月がゆっくりと欠けていく。

 戦が続いている。勝利したが、敵はあらゆる方角にいて、ジャイの隙を狙っている。

 プネーのマラーター。

 デリーのムガル。

 英国東インド会社。

 カーブルのアフガン人。

 ペルシア。

 失政を行えば、家臣たちがそのいずれかに与し、城塞に敵を引き入れるだろう。事実、ほかの諸国では国を追われたラージプートはスィンドやパンジャーブに逃れていった。

 観測台のたもとで、宮廷楽師たちが、タンプーラの弦を撫で押し、シタールを奏で、横笛バーンスリーを吹く。夜のラーガは、涼しい風の予感に満ちて華やかだ。空に満ちる星辰ほどの数を持つその音は、焦りと、畏れと、昂ぶりに乗っ取られていたジャイのこころをなぐさめる。王侯はダールー阿片アフィームに溺れることが多かったが、聴くこころさえあれば、そのふたつは必要ないはずだった。

 そばにはだれもいないが、力士は夜通し守り、楽師は眠りをもたらす。うるさく讒言する家臣もおらず、愛欲をかきたてようとしなをつくる妃もいない。孤独と安堵こそが、ジャイがもっとも求めたことだった。

 戦士であるのに。

 戦にも、活発な世事にも、かれは飽いていた。それが、あるいは隙であるのかもしれなかった。世を捨てて行者として生き、肉を断ち、根菜を断ち、穀物を断ち、菜や乳を断ち、聖なる牛の糞尿をすすり、果ては水を断ち、枯れ葉すら口にせず、川面に立つ一瞬の霞を飲んで――……死に至り、解脱する。その誘惑が、かれの夢に現れる。シヴァはかれに指示するようなことはなにも言わず、ただヒマーラヤの清冽な森で沈黙の行をしている。炎暑のなか、ムスリム乞食ファキルがふくらはぎの鈴を鳴らし、涸れ川を歩いて、地平線の向こうへ行ってしまう。聖者廟で踊り狂うスーフィー女行者ファキラニ。ハタ・ヨーガの姿勢でガンガーのほとりにたたずむ裸形のサードゥー。行く手にあるちいさないきものを殺さぬよう、やわらかな箒で払い、聖地を巡るジャイナの尼ふたり組。

 かれらのようには、わたしは自由ではない。

 胸の底がずきずきと痛むように、王は思う。マハーラージャ・サワーイー・ジャイ・スィング二世。ムガルからの地位を得て、計画都市ジャイプルを建て、富を得て音楽と細密画、工芸のわざを育て、火薬の燃える戦を戦い抜き、世継ぎを育てた。

 そのようなものは、再生族ドヴィジヤにとっては、人生の四段階のうちの最初の二つでしかない。苦行し、俗世を離れ、解脱を目指さなければ――……

 観測台の上で眠りこけていた王は、はっと目を覚ます。星ぼし。黒月。ふかい、ふかい闇。ひろくひろく広がる地。この世はこんなにも広いというのに、どうして人間は、つくられた物語のなかで生きていくのだろうか? 老母の語る寝物語で、祭司パンディツト床屋ナーイーの話す枠物語の登場人物として生きなければならないのか? 実際にそう語る人間がいるかどうかは問題ではない。なぜ王は、王として生きなければならず、なぜ乞食は乞食として生きなければならないのか? 自分で物語を物語り、自分に語り聞かせ、それを自分の物語として生きていかなければならないのか?

 王として生まれた自分は、おとなたちに王となるよう語り聞かせられ、それを自分の物語りにしてしまった。それ以外の生き方はありえなかった。勇猛なラージプートとして戦をし、世継ぎを生み、政を執る以外の生き方は。しかし、――しかし。

 なぜわたしはあのむすめたちを撃ち殺さなければならなかったのか?

 そうしない物語りもありえたはずなのに。

 夜空を見つめる。その黒いとばりは、容易に、あの黒い鴉を思い出させる。

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