女神殺し 2

 ラタン・バーイーは富裕なラージプートの貴婦人で、ペルシア語やサンスクリット語の書物を読み、宮廷式の音楽を歌い、ヴィーナーを奏で、金銀糸ザリで刺繍をした。姑は亡くなっており、子どもはおおきくなっていて、特権は安泰、夫は旅行がちで、なんの不自由もない。それが退屈といえば退屈だった。だから、夕べに露台に出て、蜜蜂の群れが花籠を運ぶのを見たとき、彼女は喜んだ。

 まあ、ヴァーマナが来たわ。

 沙漠の冬はひとびとを縮こませる。毛織りのショールでからだをくるみ、女主人に温めたワインを用意していた侍女たちは、にわかに歓声を上げた。

 花を用意しなければ。

 薔薇を。

 冬に?

 庭師が間違えて咲いた薔薇を今朝摘んでいたわ。

 蓖麻子油ひましあぶらの素焼きの灯り、薔薇の花綱、真鍮の水壷、絹の絨毯がたくさん集められる。蜜蜂は陽気に、胸の底をくすぐるような羽音でゆっくりと露台に降りてくる。群れはそれぞれの口に、蜘蛛の糸のようにほそい糸をくわえ、それは花を積んだ籠を吊るし持っている。糸は夕日にきらきらと光る。籠が露台に下ろされ、そこからひと組のヴァーマナが出てくる。背丈は幼児ほどで、女のほうは白髪まじり、くっきりとした目化粧をして、足首と指の股にくくった鈴環を付けて、歩くたびそれが鳴る。彼女は男の手を引いていて、青年といってもいいかれは黒目をどこでもない場所に向けている。ヴァーマナにはよくあることだが、かれは盲目であるらしい。どちらも睡蓮の花弁のような切れ長のまなじりで、女は優美に垂れ、男はガンダーラのブッダのように上がっている。

 ふたりはまっすぐにバーイーのもとにやってくる。女の鈴環と、ふたりが首に幾重にも巻いた数珠玉が音をたてる。女主人はふたりにうやうやしく礼を取り、ふたりの足の甲に額を付ける。

 ヴァーマナの女ははりのある声で言う。

 わたしはアアフリーン・ヴァーマナ。

 男はやわらかな声で言う。

 わたしはラング・ハイ・リ・ヴァーマナ。

 ラタン・バーイーです。

 ひざまずき、女主人はふたりの目の高さに合わせる。ほほえみを交わし、侍女たちはヴァーマナたちの首に花環をかける。蜜蜂はそれに群がる。

 うれしいわ。うれしい。わたしに語ってくださるのですね?

 ええ。

 あなたが、アアフリーン?

 ええ。



 絹の絨毯の敷かれた寝台に、ラタンは横たわる。日はとっぷりと暮れ、灯りはわずか。ラングは寝台の下に座り、口を開けると、そののどの暗がりに蜜蜂の群れが吸い込まれるように入っていく。羽音は絶え、夜の静寂が満ちる。かわりに、ラングがタンプーラの弦に手指をこすりつけるたび、音の襞が揺らめく。ラタンの枕元に立て膝で座るアアフリーンが、かかとを持ち上げ、打ち下ろし、しゃんと鈴を鳴らす。唇をひらく。




 どこへでも、ただし南だけは




 カトリーの女がいた。染めを行うジャーティで、女たちは絞り染めのための括りの作業をする。隣村には木版染めであるアジュラックの染めを行うカトリーもいて、そこでは女たちは染色を行わない。その隣には手描きの更紗を業とするカトリーがいて、そこでは女たちも夜っぴいて布に向かう。

 カーブルからムスリムの兵士がやってきて、一帯を襲った。ラージプートの領主はヒンドゥーのひとびとをかくまっていたが、あえなく屈服し、城塞では殉死の炎が燃えて、女たちが飛び込んでいった。

 カトリーのひとびとはムスリムだったから、カーブルのひとびとの支配を受け入れた。自分たちを穢れとみなすヒンドゥーのひとびとが悄然としているのは、カトリーの女にとってはこころたのしいことだった。ブラフマンやラージプートのむすめたちが奴隷として宮殿に連れていかれる。むすめたちがまとうヴェールを取り急いで献上するように、と言われ、カトリーの女たちは村を越えて集まり、おしゃべりをしながら手早く準備をした。

 絞り染めは婚礼の衣装じゃない。そんなものを用意してやる義理はないわ。

 じゃあ木版更紗?

 両面染めアジュラックはムスリムの柄よ。

 手描きなんて手間のかかるものはもってのほかでしょうし。

 女たちはけらけら笑った。

 まずしい牧畜の女たちのような、ちいさな花の木版を押してやろうか。それなら見栄えはよいでしょう。男たちからくすねてくるわ。

 染料なら持ってきた。

 ミロバランに漬けた布はたくさんある。

 みなで材料を出して広げる。

 手織りのジャーティはカトリーよりもさらに低い地位にある。カトリーの女たちは、かれらが地を掘って作りつけた機に、日がな向き合って暮らしているのを知っているし、その妻たち、母たち、むすめたちが、糸の始末や掃除をして、それを支えているのを知っている。

 木版をつくる木工は、硬い紫檀を根気強く彫る。

 媒染剤として、この地に特有の鮮やかで堅牢な染色を実現するミロバランの実は、カトリーの女たちによって摘まれる。

 はだしのひとびと。

 棘をものともせず、洗濯漕で足踏みし、中腰で重い布を持ち上げて振り洗いをするカトリーの男たち。

 ラージプートに差し出すために、寸分の狂いもなく木版を捺し、何度も何度も防染や捺染をし、ちいさな筆で描き込み、水に晒し、陽に晒す。

 地を染めた花紋様に印金を置く。

 羊毛や金銀の糸で刺繍をする。

 いくつものジャーティを経由してつくり出される布。

 沙漠に咲くその美を、女たちはよく知っている。

 布に触れて、染料を見て、女たちは息を吐いた。その湿りけはすぐに乾き、でも、何度も息が吐かれた。

 この布はどこへでも行くけれど、わたしたちはずっとこの地にいるのね。

 この沙漠を、棘のある樹を、らくだや羊を見て暮らすのね。

 川が枯れて染め物ができなくなるのを恐れて。

 夫に殴られて。

 むすめの婚礼の心配をして。

 次に子を産めば死ぬんじゃないかと怯えて。

 メッカや聖者廟に行くこともなく。

 うつくしいものをつくって。

 それを喜ばれる場を見ることなく。

 いいえ、むすめの婚礼衣装をつくれば……

 わたしのヴェールは母さんが染めてくれた。

 婚礼なんて――

 一瞬のことよ。でも。生涯でいちばん。

 あのむすめたち。

 ヒンドゥーの。

 どんな目に遭うのかしらね。

 わたしのむすめと同じくらいの歳。ほんのちいさい……

 さいきん来た嫁と同じくらい……

 母おやから引き離されて――……

 湿った息が吐かれて、暮れようとする陽が、儚く靄を赤く染める。

 紫紺の闇のなか、月が雫を落とし、女たちの頬を伝う。月光チャコーラ鳥が、透けた羽根をはためかせて彼女たちに集まる。鳥たちは女たちの頬に口づけする。月の露を飲んで生きているから。

 女たちは寄り集まる。手を伸ばし、たがいの腰帯に手をかける。円になり、くるくるとまわる。ステップを踏みながら。鳥たちの羽ばたきが手拍子ターラになる。ちいさな粒の集合体である円は縮み、膨らみ、それを繰り返す。その軌跡は絞り染めになる。

 星辰が瞬く。その軌跡は両面染めになる。

 月光鳥が啼く。長く尾を引いて。その声を紡いだ銀糸は、布端ボーダーの刺繍になる。

 羽根が落ちた影は、微かな絣のあわいに。

 女たちのひとみの輝きは、こまかく砕いた鏡片刺繍に。

 行くな。むすめよ。

 行くのか。どこへでも。

 えらばずに。生きのびるため。

 でも、どうか、

 南にだけは行ってくれるな。

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