蜜蜂よ、夜々を遊行せよ 女神殺し

鹿紙 路

女神殺し

 語ろう、歓喜の色ラング・ハイ・リが語ろう。

 ヴィーナーが宵闇の旋型ラーガをひびかせ、タンプーラが蜜蜂のうなりドローンの襞を通奏し、タブラが低くも高くも鳴る。楽の音はわが声を荘厳しょうごんする。神は偉大なりアッラー・フ・アクバル! ヴィシュヌハリ、あるいはシヴァ・ルドラハラ女神たちの偉大さデーヴィー・マハートミャ化身アヴァターラたち、ラーマにクリシュナ、ブッダにマハーヴィーラ。ラングは蜜蜂だから、神々のことは恍惚の薫る花々であると思っている。女陰ヨーニーのように湿った花弁の奥ふかくへ入り、ヒンドゥー行者サードゥーの灰かぶりのように花粉の色粉でからだを覆い、真理の甘露アムリタでのどを潤す。蜜あつめマドゥコリにより、わがのどは謳う。

 聴け、物語りの不滅を、聴け。

 聴け、いのちの悲惨を、聴け。

 わたしたちはふたりでひとつ。伴侶の名は汝の創造主を讃えよアアフリーン。わが名と、彼女の名は不滅。しかしそのいのちは儚い。肉体は火神アグニのほむらに焼き尽くされ、しゃれこうべだけが残る。わたしの愛した、ただひとりの伴侶は死んでしまった。彼女の犯した罪によって。あの青睡蓮の瞳、くふくふと鳴くコーキラ鳥のような笑み、獅子の吠えたける勇壮な声、声、――……声よ。

 わたしはめしいであるが、生まれたときはそうではなかった。ゆっくりと光が世界を覆い、やがてそれもすべて消える。そのただなかにあって、わたしはなにも怖くはなかった。彼女がいたからだ。彼女はわたしの手を取り、彼女の瞳に映るものをことばにし、わたしを導いた。

 めあきのひとびとは不自由だ。見る必要のないものを見て苦しみ、日が沈めばうろたえ、仕事を止める。闇におびえ、光に打ちのめされる。めしいはこの世を鳥の目で見ている。自在に遠くへ飛ぶ鳥だ。鳥はことばによってはばたき、物語りによってたかく飛ぶ。雲を翼とするヒマラヤ山脈ヒマーラヤの巨躯の全体をとらえ、シヴァの三つ編みにしたたるガンジス河ガンガーの、指に触れるつめたさやなめらかさを、このインド女神バロティの大地のなかの位置でとらえて――観る。

 ラングの手にのこる、アアフリーンの感触。彼女の首を斬り落としたときの音。あたたかい血のにおい。それは彼女の感触を呼び覚ます。麗しい腰つき、髪に編み込まれた茉莉花マーリカーのくるおしい可憐さ。あのひとは歌い、語り、奏で、舞い、物語りを献ずる。残ったものではなく、その行為そのものが行なのだ。彼女は不自由だったが、うつくしい行者だった。彼女は生きていた。ただひとつのいのちを。

 輪廻? それはたましいの救いではない。永続する牢獄。つぎの生に持ち越す諦め。生まれジャーティの鳥籠に分けられてただ一度の生を生きるが、ふたたび別の籠に生まれいでる。

 ラングは蜜蜂だから、籠の外へ出て行く。あのひとの導きはなくなったが、薫りと触りごこち、音階と物語りによって飛ぼう。

 語ろう、ラング・ハイ・リが語ろう。



 宵闇のなか、階段井戸の底に寝台を出し、その上でアアフリーンは語り、ラージプートの女は眠っている。水を渡る風は冷涼で、素焼きのランプの光をそっと揺らす。ラングはその下でタンブーラを奏でる。声の調子には左右されず、ずっと同じもの――音の重なりの襞を奏でるための楽器だ。芽のまっすぐ長く伸びたたまねぎのような形で、そのたまねぎの部分を抱きかかえるようにして弾く。大きくつやめき、象眼細工も華やかだが、聴く者の意識にのぼることはほとんどない。あって当たり前であって、すがたは容易に消える。このときも、女がタンプーラやラングの存在を聞き取っていたかはうたがわしい。もっとも、彼女は眠っているのだが。

 アアフリーンの声は低く、かすかで、あてなる立場である女に仕える召使いたちには聞こえない。語りにあわせ、女行者の手はなめらかにうごく。ラングは、それを音や空気のうごきによって感じ取る。手は、すくいあげるように、――いとおしく撫でるように、かたちや重さのあるものを放り投げるように、妄念を振り払うように、たいせつな想いを差し出すように、自在にうごく。ラングはそれを、自分の肌に感じ取る。眠っている女と同じように、沙漠の熱射を、足の裏の熱さを、砂粒のぶつかる痛みを、乾きという絶望を感じる。燃える黒い炎。――いや、燃えている女の紗幕オダニが黒いのだ。絞り染めの、象やらくだの赤く点描された黒いヴェール。地の底からひびくうめきのように、彼女は絶叫する。声は、のどから何十という鴉としてほとばしり出て、鴉もわめき震え、はばたき、飛ぶ。天界へ。

 燃えながら天界へ飛ぶ。いのちは消え、たましいは肉体を解き放たれて、夢想のように自由に、拡散する。

 眠っている女の口もとに、笑みが浮かぶ。きゅっと引き上げられた唇が、次には弛緩して、わずかにひらき、そこから珠がこぼれ落ちる。黒い珠。すかさずアアフリーンがちいさな手を差しだし、それをかすめ取って懐に入れる。行者は自分の首にかけた数珠をたぐり、獅子の声で吠えたける。鴉はほとばしり続け、女は闇のなかで土瀝青のように夢幻を燃やし続ける。唇から珠がまたこぼれる。血赤珊瑚の珠、黒真珠のような珠、女はせき込む。黒雲母の珠。多面体にカットされたルビー。アアフリーンでは手が足りず、ラングはタンプーラの手を止めて音を頼りに拾い集める。闇のなか、かれのほうが見つけるのが早い。そうしているうちに、炎は弱まり、消える。女はふかく呼吸する。アアフリーンは座り直し、また語る。ことばのない歌いで、深更のラーガを歌う。地下の灯りもうすらぎ、夜空の星辰の炎も絶える。闇が濃くなり、アアフリーンは吽の音で歌いを終える。彼女のちいさな手を、ちいさなラングの手が覆う。ふたりはその場にうずくまり、ほかのいのちと同じように眠る。

 わずかに眠ったあと、召使いたちが起き出す前に、ふたりは立ち上がる。めしいのラングの導きにより、ふたりはゆっくりと階段を上り、地上に出て、板根のひだが幾重にも幹を覆う樹に歩み寄り、その板根の奥――男たちが小用を足すのに使うため、饐えた臭いがする――に入っていき、日の光の世界から逃れる。日がのぼれば、ふたりのすがたは目に見えない。

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