蜜蜂よ、夜々を遊行せよ
鹿紙 路
第一章 女神殺し
女神殺し
語ろう、
ヴィーナーが宵闇の
聴け、物語りの不滅を、聴け。
聴け、いのちの悲惨を、聴け。
わたしたちはふたりでひとつ。伴侶の名は
わたしはめしいであるが、生まれたときはそうではなかった。ゆっくりと光が世界を覆い、やがてそれもすべて消える。そのただなかにあって、わたしはなにも怖くはなかった。彼女がいたからだ。彼女はわたしの手を取り、彼女の瞳に映るものをことばにし、わたしを導いた。
めあきのひとびとは不自由だ。見る必要のないものを見て苦しみ、日が沈めばうろたえ、仕事を止める。闇におびえ、光に打ちのめされる。めしいはこの世を鳥の目で見ている。自在に遠くへ飛ぶ鳥だ。鳥はことばによってはばたき、物語りによってたかく飛ぶ。雲を翼とする
ラングの手にのこる、アアフリーンの感触。彼女の首を斬り落としたときの音。あたたかい血のにおい。それは彼女の感触を呼び覚ます。麗しい腰つき、髪に編み込まれた
輪廻? それはたましいの救いではない。永続する牢獄。つぎの生に持ち越す諦め。
ラングは蜜蜂だから、籠の外へ出て行く。あのひとの導きはなくなったが、薫りと触りごこち、音階と物語りによって飛ぼう。
語ろう、ラング・ハイ・リが語ろう。
宵闇のなか、階段井戸の底に寝台を出し、その上でアアフリーンは語り、ラージプートの女は眠っている。水を渡る風は冷涼で、素焼きのランプの光をそっと揺らす。ラングはその下でタンブーラを奏でる。声の調子には左右されず、ずっと同じもの――音の重なりの襞を奏でるための楽器だ。芽のまっすぐ長く伸びたたまねぎのような形で、そのたまねぎの部分を抱きかかえるようにして弾く。大きくつやめき、象眼細工も華やかだが、聴く者の意識にのぼることはほとんどない。あって当たり前であって、すがたは容易に消える。このときも、女がタンプーラやラングの存在を聞き取っていたかはうたがわしい。もっとも、彼女は眠っているのだが。
アアフリーンの声は低く、かすかで、
燃えながら天界へ飛ぶ。いのちは消え、たましいは肉体を解き放たれて、夢想のように自由に、拡散する。
眠っている女の口もとに、笑みが浮かぶ。きゅっと引き上げられた唇が、次には弛緩して、わずかにひらき、そこから珠がこぼれ落ちる。黒い珠。すかさずアアフリーンがちいさな手を差しだし、それをかすめ取って懐に入れる。行者は自分の首にかけた数珠をたぐり、獅子の声で吠えたける。鴉はほとばしり続け、女は闇のなかで土瀝青のように夢幻を燃やし続ける。唇から珠がまたこぼれる。血赤珊瑚の珠、黒真珠のような珠、女はせき込む。黒雲母の珠。多面体にカットされたルビー。アアフリーンでは手が足りず、ラングはタンプーラの手を止めて音を頼りに拾い集める。闇のなか、かれのほうが見つけるのが早い。そうしているうちに、炎は弱まり、消える。女はふかく呼吸する。アアフリーンは座り直し、また語る。ことばのない歌いで、深更のラーガを歌う。地下の灯りもうすらぎ、夜空の星辰の炎も絶える。闇が濃くなり、アアフリーンは吽の音で歌いを終える。彼女のちいさな手を、ちいさなラングの手が覆う。ふたりはその場にうずくまり、ほかのいのちと同じように眠る。
わずかに眠ったあと、召使いたちが起き出す前に、ふたりは立ち上がる。めしいのラングの導きにより、ふたりはゆっくりと階段を上り、地上に出て、板根のひだが幾重にも幹を覆う樹に歩み寄り、その板根の奥――男たちが小用を足すのに使うため、饐えた臭いがする――に入っていき、日の光の世界から逃れる。日がのぼれば、ふたりのすがたは目に見えない。
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