第4話 僕の何が悪いんだ……

 僕は机の引き出しの中から、定規を取り出した。

 ピンク色のそれは大分年季が入っており、大事に使ってきたとはいえ、ところどころ傷んできている。

 そろそろ新しいものに変えた方が良いかもしれないが……今はこれしか手持ちがないため、叶乃よ、どうか許してくれ。


「えっ……光汰くん、それって……」


「ん?どうした?」


「その定規……小さい頃の私が誕生日にプレゼントした……」


「え?……ああ、そういえばそうだったね、だからかな、すごく大事にしててさ」


 言われて思い出した。男の僕が買うには不自然な、可愛いらしいデザインのこの定規は、彼女が昔くれたものだ。

 だとしたら、僕がずっと大事にしていたことにも頷ける。


 あの日の決意を、決して忘れないように。

 この定規を使っていたら不思議と元気が出るのも、あの誓いが勉強のモチベーションになっているからに他ならない。


 だけど、今の話の流れで叶乃の表情がぱあっと明るくなったのは何故だろう?

 やはり、よく解らないこともあるものだ。


「よいしょっと」


 僕は定規を手に持ったまま、叶乃の目の前に膝をつく。こうした方が、都合が良いからね。


「……えっ……!?光汰くん、顔が……顔が、近いよ……」


「ああ、ちょっとの間だけだ。我慢してくれ」


 僕が叶乃の目を間近でじっと見つめるような体勢になると、叶乃の顔はみるみる赤くなっていく。まるで、今にも沸騰しそうなくらいに。

 僕なんかの顔が近くにあって、怒りたくなるくらい不愉快なのは分かるけど、少しの間だけ、我慢していてほしい。


「……!?え?光汰くん?何して……」


「ごめんね、こそばゆいかもしれないけど、すぐ終わるから」


 こうして僕は、叶乃の頬に手を当てると……




 定規で顔の寸法の測定を始めた。


「……光汰くん、これはどういう」


 気づけば、叶乃は魂が抜けたような表情で僕のことを見つめていた。


 ……ああ、また僕の悪い癖が出てしまったな。

 何の説明もなしに行動してしまったため、彼女に疑問を抱かせてしまったようだ。

 一通りの測定が終わったことだし、僕は彼女に説明する。


「黄金比って、聞いたことある?」


 感性とは、人によって異なっているものである。

 にもかかわらず、美人と感じる顔はある程度決まっているのだ。

 ……人間って、不思議だよね。


「叶乃の髪の生え際から眉までと、眉から鼻の下。それに、そこから顎先までの長さを測定したんだけど、見事に1:1:1だね。だから叶乃はやっぱり、美人だよ」


 ―――我ながらかなり説得力のある、完璧な解答ではないだろうかと思う。

 だけど……




 しょぼーん




 叶乃は首を垂れて見るからに落ち込んでしまった。……え、なんで?

 僕の何がいけなかったのだろうか。

 叶乃の悲しい顔は見たくない。でも、なぜそう思うのかは自分でもよく分からなかった。


 しかし、こうなると手に負えないのもまた事実。

 情緒不安定な彼女が負の状態に陥っているときは何をしても逆効果なので、僕は潔く諦めて、机に向かった。

 このままでは、今日の勉強時間が無くなってしまうからね。


 椅子の後ろでぺたんと床に座り込んでいるはずの幼馴染はすっかり黙り込んでしまい、室内には僕がカリカリとシャーペンを走らせる音だけが響いていた。




♢♢♢




「……まだ、やるの?」


 あれからどれくらい時間が経っただろうか。集中していたのでよく分からないが、問題集の自己採点が一通り終わったタイミングで、背後から声が聞こえた。


「ああ……そうだね」


「本当に、光汰くんは……すごいね。頭が良くて、更にそんなに努力できて……」


「別にそんなんじゃないよ」


 口にしてから、もしかして謙遜と受け取られたかもしれないと思ったが、僕からしてみれば全くそんなつもりはない。


 夢を追いかけることができる人って、すごいと思う。

 目標のために頑張って、努力して。

 だけど僕の場合は、ただの罪滅ぼしだ。マイナスからゼロに戻そうと必死なだけで、そこには何の生産性もない。彼女が失ってしまった、本当の笑顔を取り戻さなければならないというのは、僕に課された最低限の義務だ。むしろ、彼女が傷跡のことを隠しながら、周囲に偽物の笑顔を振り撒いていることの方が、よっぽどすごいことだと思う。彼女の将来を台無しにしてしまった僕に、嫌味の一つも言わないで……


「ずっとそうしていても退屈だろ?先に風呂でも入ってきなよ。お湯はもうできてるから」


 僕は、今もこうして退屈である現状に文句の1つも言わない彼女に、先に時間を使うように勧めた。

 叶乃が僕の勉強に付き合う必要はない。むしろ先に入ってくれた方が、時間を効率的に使えるだろう。

 しかし彼女は、僕の提案にすぐには乗らず、女の子座りした脚の間に手を重ねて、少しもじもじと身体を動かしながら、上目遣いで尋ねてきた。


「……光汰くんはさ、その……そのね、私のはだk「ドサッ」……とか、気になったり……」


 そのとき、叶乃は僕に何かが気になるかを尋ねようとしたみたいだったけど、僕が解答冊子を戻そうとしたときに参考書を落としてしまい、その音で何を言おうとしたのかよく聞こえなかった。


「え?今何て言った?」


「……え?いや、その、……なんでもないよ」


 ……また、誤魔化されてしまった。

 本当に、どうしていつもこうなってしまうんだろう。


 このままではいけないってことくらい、僕にもなんとなくだけど分かる。

 こういった彼女の問いかけ1つ1つにも、情緒が不安定になる原因が隠されているのかもしれないから。


 僕は、勉強でフル回転状態だった頭を使い、彼女のことについて考える。


 ―――風呂。

 それはつまり、彼女が肌を露出させるということで、当然ながらあの傷跡を晒すことになる。


 そうか……やっぱり、そうだよな……

 入浴前後は、何かの拍子でうっかり傷跡が見えてしまうリスクが高まる。

 相手が僕だったとしても、やっぱり見られたくはないものだろう。

 彼女はそれを気にして……


「僕は気にならないから、大丈夫だよ」


 だから僕は、できるだけ優しい声で、笑顔を向けながら彼女にそう伝えた。

 しかし……




 それを聞いた彼女は、座ったまま俯いてしまった。


「はぁ……私ってやっぱり魅力ないのかな……」


 あまりに小さな声で聞こえなかったが、彼女は何かを小声で呟くと……


「……光汰くんのばかっ!」


 急に叫んだかと思えば、駆け足でぱたぱたと風呂場に消えて行ってしまった。




 その時の叶乃の声が、少し涙声に聞こえたのは―――僕の気のせいだろうか。

 1人取り残された僕は、再び机に向かってはみたものの、以降は勉強に全く集中することができなかった。

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