弓張り月の住む街へ

七月七日~弓張り月~

彼女は、露姫つゆひめと名乗った。そして、『弓張り月の街から来た』とも。僕は、その言葉の意味が解らなかった。露姫……。一体、何時代の名前だろう? 『弓張り月の街』とは、一体何処で、どんな場所なのだろう?





――……それは、七月七日だった。夏真っただ中……、僕は電車から降りて、心地いい夜風に吹かれ、会社からの帰路を辿っていた。すぐそこの角を曲がれば、僕のアパートだ。僕は、いつもの様に、角を曲がろうとした。すると、何かに足を引っかけて、すっ転んだ。


「イッテ!!!」


僕は、縺れた足を立て直し、何に躓いたのか、足元を見た。そこにあった……いや、そこにしゃがみこんでいたのは、二十代くらいの女の子だった。時刻は、もう夜の九時を回っていた。


「な……、何してるの? 君。こんな時間にこんな所にいたら、危ないよ? ってか、君のせいで転んだんだけど……、なんでそんな所に座り込んでるの?」


僕は、結構軽々しく誰にでも声をかけてしまうタイプだ。打ち解けやすいと言えば、聴こえは良いが、誰にでもオープンなので、時々ウザがられる。


「……」


「ねぇ、君、聴いてる?」


「……」


「う~ん……、どうやら連れもいないみたいだし、僕が交番まで送るよ。……、あ、言って置くけど、僕、怪しくないからね?」


そう言うと、不思議と、僕が、どんどん怪しい奴になってゆく気がするのは、気のせいだろうか? しかし、その子は、顔を膝に突っ伏して、僕の言葉に応えるどころか、顔すら上げようとしない。


「あの……」


僕が、まだ、続けようとすると、その子は、やっと顔を上げた。その顔を見て、僕は、驚嘆した。もの凄い美人だったのだ。肌は白くて、瞳は栗色で、くちびるはポッとピンク帯びていて、どれほど驚いた事だろう。こんな奇麗な子、見たことがない。美少女コンテストに出れば、間違いなくグランプリだろう。満場一致だ。


「私は露姫。貴方を迎えに来たわ」


「つ……、露姫? そ、それ、名前? か……変わってるね。珍しいって友達からも言われるでしょ?」


「そうね。この地球ほしでは、きっと、珍しい名前でしょうね。でも、貴和鷹きわたか、貴方も、ずーっと、その名前を忌み嫌って来たでしょう?」


「え……な、なんで、僕の名前……」


「弓張り月の街に戻る時が来たの」


「……弓張り月の街……?」


僕には何のことだか、一体何を言っているのか、さっぱり解らなかった。でも、貴和鷹……、それは、本当に、正真正銘、僕が幼い頃から、『変だ』と言われ続け、忌み嫌って来た、名前だった。


でも、なんで、それをこの子が知っているのだろう?そして、『弓張り月の街』とは……?


「私を……、憶えてない? 貴方の、記憶に、私はもういない?」


「え……?」


僕は、必死で、こんな初めて会ったばかりの、どこの誰とも解らない、それも、『露姫』とか、『弓張り月の街』とか、訳の分からない事ばかり言う女の子の質問に、頭を悩ませているのだろう?


「私を……恨んでいるのでしょう?」


「え……? 恨むも何も、今日初めて会ったのに、なんで……」


「本当に? 本当に、初めて? 本当に貴方と私が逢うのは初めて?」


「え……違うの?」


そんなはずない。こんな美人、一度でも会ったら、忘れるはずがない。


――……!


頭が、急に傷みだした。


「う……っ」


「私を……、思い出して……。お願いよ。貴和鷹……」


「え……で、でも、しょ……初対面じゃ……?」


「今日、貴方を、街へ連れてゆくわ……」


「は?……うっ!! イテッ!!!」


頭痛は、激しくなってゆくばかり……。その頭痛の中、何かが僕の頭を過る。それは、懐かしいような、悲劇のような、何とも言い難い感情だった。


「私たちは、ベガとアルタイルを、逢わせなければならない。弓張り月の、あかりを、灯さなければならない」


「は?」


「私と貴方は、たった二人の、ベガとアルタイルを照らす、弓張り月の街の住人……、貴和鷹。私は、露姫。でも、貴方は、弓張り月の街を飛び出して、人間界に舞い降りて行ってしまった。それが、二十五年前。それ以来、彦星も、織姫も、月の灯が無くて、天の川を渡れず、逢えずにいるの。貴方は、二十五年後、必ず、『弓張り月の街』に戻る。そう言ったわ」


僕は、もう何が何だか訳が分からなかった。でも、どんどん、夜空が輝き出す。星々が、煌き出す。ただ……、月だけが、出ていない。


「貴方は……、私を愛する事を拒んだの。弓張り月の街の住人は、百年の寿命を終えるまで、交代する事も、早々に現れる事も、違うものに譲る事も出来ない。貴和鷹……、もう、充分でしょう? 戻って来て……」


『戻って来て……』


その言葉に僕の頬には、涙が一筋、流れていた。


僕は、何をしていたのだろう?僕には、彼女がいる。栞永かんなと言う、会社の部下の女の子だ。戻ったら、栞永はどうなるのだろう?栞永は、寂しがり屋だ。僕を失くしたら、きっと、寂しくて仕方ないだろう。


「わ、悪いけど、そんな冗談に付き合ってられないよ。僕には、彼女だっているし……」


「……貴方の居場所は『弓張り月の街』。そして、貴方のパートナーは、私よ。解って? 貴和鷹……もう……貴方を連れて逝かなきゃ……。天の川が、消えてしまう……。この夏、彦星と織姫が逢えなければ……、二つの星は……なくなってしまうの」


「でも……」


「……良いわ……。少し、強引だけど、貴方の記憶を無理矢理、引き出すわ」


「え……」


「宵の弓張り月……、我に聖なる星々の力を……『ルーチェ・グイダミ』」


「は……はぁぁぁぁああああああああ!!!!!!」


僕は、走馬灯のように、頭の中で様々な光景が見えた。露姫が、逃げ出した僕に、


『待ってるわ。ギリギリまで……。でも……、貴方を、愛しているのが私であることは忘れないで……!』


と、叫んだ事に。切なそうな露姫の表情かお。そして、ベガとアルタイルの悲痛な叫び。


『僕たちを……私たちを……、どうか、逢わせて……弓張り月の街に……戻って来て……』


「……はぁ……はぁ……はぁ……」


「貴和鷹……、想い出せた?」


露姫が、そっと僕の肩に手を乗せた。


「貴和鷹……、貴方の力が必要なの……。どうか、戻って」


「露姫……。なんで、僕は……『弓張り月の街』を抜け出したんだ?」


「『恋がしたい……』と言ったのよ……。貴方は、人間の女の子と、恋がしたい……と……」


露姫が、悲痛な表情かおで、僕を見つめる。僕を、愛してくれていたのだろう。……今も、愛してくれているのだろう。その彼女を置き去りに、『恋がしたい』と飛び出した僕のせいで、彦星も、織姫も、二十五年間、逢えていなかったのだ、と知った僕は、とてもいたたまれなくなった。


「露姫……」


僕は、完全に記憶を取り戻した。すると、どうだろう。いきなり、スーツ姿であったはずの僕の姿が、露姫のような白く淡い服に変わってゆく。それは、軽く、薄く、薄っすら肌に纏わりついてくるような感覚だった。


「栞永は……どうなる?」


「……貴方が街に戻れば、記憶がなくなる……、それだけよ……」


「栞永は……傷つかないんだな?」


「えぇ……。私たち程、傷つくものなど……いはしないわ……」


「!!」


僕は、心臓をえぐられた。……気持ちだった。二十五年間、ずーっと、好き勝手人間界で生きて来て、記憶まで自分で消して、露姫よりも、彦星よりも、織姫よりも、人間界で知り合った、縁もゆかりもない、栞永の事を気にした僕を、露姫は、怒るより、悲しげに、そう言ったのだ。






「済まない。露姫……。帰ろう。『弓張り月の街』へ……」


「貴方は……、私を愛せるの?」


「!」


「……私を愛せなかったから、人間界に逃げたのでしょう? でも、これからは、何があっても、『弓張り月の街』からは出られない。私以外、愛する……、という対象になる存在はいないわ。それで……、貴方は、大丈夫なの?」


「露姫……、僕は、君を愛せないから、人間界に来たのではないよ……」


「ならば、どうして?」


「見てみたかったのさ……。僕らの街……『弓張り月の街』を、地球から。それを見て、さっと帰ってこようと思ってたんだけど、うっかり、記憶を消してしまってね……。君の元へ帰れなくなってたらしい……。本当に、済まない……。恨んでいるか?と聞いたね。どうしてそんな事を?傷つけたのは、僕の方なのに……」


「こうして……また、貴方を縛り付けに来なければならないからよ……。拒否することは出来ないけれど、貴方には、それなりに納得して『弓張り月の街』に帰って来てもらいたい……」


「大丈夫さ……。長い間……待たせたね。露姫。そして、ベガとアルタイル……、今から、『弓張り月の街』に帰るよ……。今夜、僕が帰れば、やっと、二人が僕と露姫のように、また、逢えるね」


「えぇ……」


「不安がらなくていい。僕は、決して、露姫が嫌いで『弓張り月の街』を飛び出したんじゃない。只の……人間でいう、不良、って奴だよ!」


僕は思いっきり、微笑むと、露姫を抱き締めた。すると、空には、煌々と、弓張り月が照らしだされた。


「私たちを待ってるわ……。逝きましょう?貴和鷹」


「あぁ……。二人、力を合わせて、天の川を照らそう……」


「えぇ……。愛しているわ……貴和鷹……」


「僕もさ。長い間、一人にしてしまって済まなかった……。愛しているよ。露姫……」




二人は、『弓張り月の街』へ、戻って行った――……。

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