第8話 かわいいひと



 モルゲンを地下牢に強制移動させた後、魔王様はルイーザとレイチェルを労って私室に帰した。

 廊下に詰めかけていた侍女や侍従達も持ち場に戻る。

 それを見届けると、おやすみ、と言いおいて魔王様の声もあっさり沈黙した。

 全てが元通りになった居間には、私とローエンだけが残されたのである。


「いきなり見知らぬ男達が乗り込んできて、さぞこわい思いをしたことだろう。モルゲンをあのような暴挙に駆り立てた一因は俺にもある──すまなかった」


 ソファに腰掛けた私の前に跪き、ローエンはまたもやつむじを晒していた。

 結婚したその日のうちに、こんなに何度も新郎に頭を下げられる新婦が他にいるだろうか。

 私は目の前のつむじを眺めつつ、さてどう口火を切ろうかと逡巡する。

 悩んだ末、まずは最も気になったことを尋ねることにした。


「ローエン、あの……モルゲンさんがおっしゃっていたことは、本当なのでしょうか?」

「モルゲンが言っていたこと? どれのことだろうか?」

「あなたが……私を迎えてウキウキしていた、と」

「なっ……」


 ローエンが弾かれたように顔を上げる。

 彼はしばらくの間うろうろと視線を彷徨わせていたが、やがて観念したみたいに頷いた。


「ウキウキは……していたな」

「本当に?」

「本当に。なんなら……今だってまだ、ウキウキしている」

「あら……」


 気がつけば、私は目の前の頭を撫でていた。

 まだ少し湿った黒髪を、指先でそっと梳る。

 ローエンはリンドウ色の瞳をまん丸にして見上げてきたが、私の手を拒もうとする気配はなかった。


「フェレンツ王国は……私は、あなたに望まぬ結婚を強いたわけではない、と思ってもいいのでしょうか」

「ああ。宴の席でランヴァルト公からも聞いただろう。俺はモルゲンから横取りしてでも、アメリアの夫になりたかった」


 二月前に行われた、フェレンツ王国とカシュカの会談。

 あいにく私には、この時のローエンの記憶はほとんどない。魔王様以外を全く意識していなかったからだ。

 一方、魔王様の右腕という立場にあるローエンは、同盟の締結により自国に迎え入れる可能性のある私という人間を見定める必要があった。


「あの時、フェレンツ国王の隣にいたアメリアは、美しいばかりの物言わぬ人形のようだった。今思えば、あの光景があなたと父御の関係性を表していたのだな」

「あの場において、私は意思を持たぬただの〝物〟でした。父の手駒という価値しかなく、また発言権もありませんでしたもの」

「当初はそこまで考えが及ばなかったため……こう言っては何だが、随分と気位の高そうな姫だという印象を抱いた。魔王様と対面した時など、一際無機質に感じたしな」

「緊張していたのです。魔王様に直接お目にかかるのは、父でさえもあの時が初めてでしたから……」


 しかし、魔王様が小柄で随分とお年を召した方だったのには、私や父王を含め、あの場に居合わせたフェレンツ王国の人間全員が驚かされた。

 魔物を牛耳る人智を超越した存在のようには、とても見えなかったのだ。

 当時に思いを馳せる私に頭を撫でられながら、ローエンが続ける。


「それでも、あなたは決して礼節を欠くことはなかった。魔王様が気さくな方なのをいいことに、他の人間達がなめてかかろうとする中でもな」

「……フェレンツの人間が、申し訳ありません」


 世故に長けて用心深い父はおくびにも出さなかったが、側近の多くが魔王様を侮るような態度を滲ませてしまったのは事実だ。

 私は逆に、魔王様の穏やかな雰囲気に安堵して緊張が解けたのを覚えている。

 その瞬間は、ローエンの目にも映っていたらしい。


「気位が高そうだと思っていたあなたの顔が、魔王様に声をかけられて綻ぶのを見た。それが──俺には、まるで人形に命が吹き込まれたかのように感じたんだ」


 ふいに、ローエンが私の膝の上に顔を伏せた。

 驚いたのは一瞬で、彼とより打ち解けられたような気がして嬉しくなる。

 なおも私に頭を撫でられながら、ローエンの独白は続いた。

 

「俺の目は、アメリアのその微笑みに釘付けになった。自分に向けられたわけでもないのにな。会談が終わって帰路に就くあなたが、父御の陰でまた人形に戻ってしまったのを見て……居ても立っても居られなくなった」


 二月前の会談の時点では、魔王様は同盟に後ろ向きだったそうだ。

 カシュカに断られれば、フェレンツ王国は諦めざるを得ない。

 友邦アキツ皇国への別の陸路を確保するため、あるいは宿敵ベライツ神聖国に対抗するために、私という手駒はさらなる別国との政略結婚に使われるだろう。

 そう思い至ったローエンは、気が付けば、私をカシュカに迎えたいと魔王様に訴え出ていたというのだ。


「あなたを救おうなどと、烏滸がましいことを考えたわけではない。ただ、アメリアに笑っていてほしい……できることなら、その微笑みを自分に向けてほしいと思ってしまったんだ」


 かねてよりローエンに家庭を持つよう勧めていたらしい魔王様は、この機を逃す手はないとばかりに、すぐさまフェレンツ王国との同盟締結を決断。

 もちろん、私の相手をローエンに変更する旨はランヴァルト公にも説明されたらしいが、彼は納得していなかったのだろう。


「俺の独りよがりで、あなたとモルゲンの縁談を邪魔してしまったのは……申し訳ないと思っている」

「ランヴァルト公は、私を歓迎していらっしゃらないご様子でしたでしょう? モルゲンさんに嫁いでも、きっと疎ましがられただけかと」

「だが、あちらはカシュカの名家だ。七公は世襲制だから、モルゲンはいずれはランヴァルト公となっただろう。あなたに相応しい地位を約束できる──どこの馬の骨とも知れない、俺とは違って」

「まあ……」


 つまりローエンは、自分が横入りしたことで、私からランヴァルト公夫人となる可能性を奪ってしまった、と気に病んでいるらしい。

 シーシャの背中に乗っている最中、謝らないといけないのは自分の方などと呟いたのも、同じ理由からだったのかもしれない。

 私はたまらない心地になった。


「ローエン、あなたって……」


 魔王様の右腕として多くの仕事を任され、侍女達に〝ほぼ魔王様〟などと揶揄されている──それほど、ローエンはすでにこの世界において確固たる地位を築いているのだ。

 それなのに、王族でも貴族でもないというだけで、こんなにも卑屈になってしまうなんて……


「かわいいひと」

「ア、アメリア……?」


 私は、自分の膝に顔を伏せていたローエンに覆い被さるようにして、その頭を抱き締めた。

 乾き切っていない髪はひんやりとしていて、少し火照った頬には心地よい。

 ローエンが盛大に狼狽える気配は感じたが、無視をした。

 魔族で、魔王様の右腕──そんなひとが、生贄同然に祖国から手放された私の腕の中でおろおろするのが、何やらおかしく、そして愛おしく思えてくる。

 ついには、つむじさえも可愛らしく見えてしまい、私はそっとそれにキスを落とした。


「……っ」


 びくり、とローエンの体が震える。

 やがて、おそるおそるといった様子で彼の両腕が私の背中に回された。

 シーシャに跨って密着した時に覚えたような緊張は、もうない。

 私の心は、ローエンを人生の伴侶としてすっかり受け入れてしまっていた。


「アメリア、すまない……」

「どうか、もう謝らないでください。先ほど、モルゲンさんにもはっきり申し上げたのですよ。選べる立場にあったとしても、私はローエンを選びます、と」


 私の言葉に、ローエンがはっと息を呑む気配がする。

 それでも、大人しく腕の中に収まっているものだから、大きくて従順な犬を愛でているような気分になった。

 幼い頃、狩猟が得意な長兄が犬を飼っていて羨ましかったのを思い出す。

 獰猛で、頭が三つあったような気がするが……今思うと、あれは魔物だったのだろうか。

 私が噛まれてはいけないから──いつか国のために差し出される体が傷物であってはならないから、と触れることさえ許されず、すぐに諦めてしまったが。


 思い返せば、諦めることの多い人生だった。


 母に愛されることを諦め、父に認められることを諦め、兄や姉達の隣に並ぶことを諦め、一人の人間として尊重されることを諦め──諦めて、諦めて、諦めて、その末に辿り着いたのがローエンの隣だ。

 ところが、人生の終着点となるはずの彼は、私が諦めることを望まなかった。


「自分の前では取り繕うな、と衣装部屋で私におっしゃいましたね。あれは、本心ですか?」

「ああ、もちろん……」

「私のありのままの気持ちを聞きたい、それを尊重してくださる、とおっしゃったのも?」

「紛いもない本心だ。ただし──」


 ふいに言葉を切ったローエンが、私を頭にへばり付かせたまま立ち上がった。

 ソファに腰を下ろし直した彼は、向かい合わせの形で私を膝の上に乗せ、両腕ですっぽりと包み込んでしまう。

 固い胸に顔を押し付けられて目の前が真っ暗な中、低い声が私の耳元に囁いた。


「俺から離れたいという望みだけは、断じて聞き入れられない。それだけは、覚えておいてくれ」


 ローエンから離れたところで、もはや私に行く場所などあろうものか。

 けれども、そんな卑屈なことを口に出すつもりはなかった。

 私自身もうすでに、彼と離れがたいと感じてしまっているのだから。


「ふふ……ローエンは、かわいいですね」

「……かわいいのは、あなたの方だ」


 ローエンの胸に顔を埋めてくすくすと笑いながら、今度は私が彼の背中に両腕を回す。

 父や兄達と気安く触れ合うような間柄ではなかったこともあり、男性と抱擁を交わすのは記憶にある限りこれが初めてのことだ。

 誰かの心音を、こんなに間近で聞いたのだって初めてに違いない。

 ローエンのおかげで経験できた初めてなことは、他にもある。

 飛竜に跨って空を飛んだり、好みのドレスを選んだり、とどれも心躍るものばかりだ。

 これからきっと、もっとずっと素敵な日々が訪れるだろう──いや、訪れるのを待つのではなく、自ら掴みに行こうではないか。

 私はローエンの胸元から顔を上げ、さっそくですが、と口を開いた。


「あなたの妻となったからには、してみたいことがあるのです。ローエン、聞いてくださいますか?」

「ぜひとも聞かせてくれ。俺にできることなら、何なりと協力する」

「何なりと? 本当に?」

「ああ、それなりに甲斐性はあるつもりだ……生まれや育ちは、自慢できるものではないが」


 出自に起因するローエンの劣等感は、実に根深いもののようだ。

 それも全部ひっくるめて彼を受け入れようと、私はこの時心に決めた。


「そうです──私は決めたのですよ」


 私は両手を伸ばし、ローエンの頬を手のひらで包み込む。

 リンドウ色の瞳に映った私は、彼が自分を欲したきっかけになったという微笑みを浮かべていた。



「私は、ローエン──あなたを魔王にすることにしました」

「……はい?」



 カチッ、と壁掛け時計の長針と短針が真上で重なる音が響く。

 私とローエンは今、夫婦となって初めて、一緒に日付を超えたのである。


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夫を魔王にすることにしました くる ひなた @gozo6ppu

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