第7話 悪い子誰だ



「ううっ……くそっ!」


 モルゲンが、床に頬をくっ付けたまま舌打ちをする。

 彼と同じく居間の床に転がっているのは、総勢七名の鬼族の男達だ。

 二名は、侍女達が燭台と椅子で殴って昏倒させた。

 ベランダにも、さらに六名が伸びている。

 そのうち一名の喉笛に、シーシャが噛みつこうとしたが……


「──シーシャ、殺すな。生かすか殺すかは、魔王様がお決めになることだ」


 主人がそう命じると、とたんに牙を引っ込めた。

 シーシャを取り押さえていた連中を沈めたのも、室内の残り五名を伸したのも、ローエンだった。

 その戦いぶりは圧巻の一言に尽きる。

 一回りは大きな体躯の鬼族が束になってかかってきても、彼は物ともしなかった。

 フェレンツ王国の騎士達のように剣を振り回すのではなく、完全なる肉弾戦だ。

 モルゲンを含めた鬼族は外出着に加え、膝当てや手甲のような装具をつけているが、ローエンの方はシャツとズボンだけのラフな部屋着である。

 仕事を片付けて入浴を済ませたところで駆けつけたのか、髪などまだ水を滴らせていた。

 

「くそっ……ローエン! てめぇ、離しやがれっ!!」

「少しは酔いは覚めたか。申し開きができるものならやってみろ」


 最後に残ったモルゲンも、あっという間に後ろ手に捻り上げられ、床に俯せに倒されてしまった。

 ルイーズとレイチェルが、扉を塞いでいた戸棚を移動させる。

 居間の扉の向こうは共同区域の廊下となっており、騒ぎを気づいた侍女や侍従達がすでに大勢駆けつけていた。

 

「てめえが先に、俺からあの女を奪ったんだろうが! 奪われたものを取り返して、何が悪い!」

「そう言うなら、二月前に俺が名乗りを上げた時点でなぜ反対しなかった。ランヴァルト公といい、人間を一族に迎えるのは本意ではなかったなどとのたまって、当時はあっさり引き下がったくせに今更なんだ──あと、アメリアをあの女などと呼ぶな」

「う、うるせーっ! 人間なんて、全然お呼びじゃねーって思ってたんだよ! なのに……てめぇが! あの女を迎えてやたらとウキウキしてやがるから、無性に惜しいことしたような気になるんだろーがっ!!」

「あの女呼ばわりはやめろと……ウキウキ?」


 情けない姿を衆目に晒すのも厭わず、モルゲンが喚き立てる。

 ローエンはその背に膝を乗せて容赦なく体重をかけながら、淡々と相手をしていた。

 そんな最中のことである。

 床に転がっていた鬼族の一人が目を覚まし、ふらふらと立ち上がった。

 酔いも手伝ってか足元が覚束ず、テーブルにぶつかって火のついた燭台を倒してしまう。

 たまたまその近くにいた私は、慌てて駆け寄って燭台を起こしたが──


「きゃっ……」


 蝋燭の火がテーブルクロスに、さらには側にあったカーテンに燃え移ってしまった。


「アメリア、離れろ……!」


 モルゲンを放り出したローエンが慌てて駆け寄ってきて、私を炎から遠ざける。

 その間にも、火はカーテンを食らうようにして天井を目指した。

 廊下で成り行きを見守っていた侍女や侍従達が騒然となる。

 自由になったモルゲンは、気を失っている子分達を逃がそうと躍起になった。

 ローエンは私をルイーズとレイチェルに預けると、燃え上がるカーテンを引き剥がし、近くにあった花瓶の中身をぶち撒ける。

 それでも消え切らない火は、シャツを脱いで叩いた。

 彼の冷静な対処のおかげで、建物に燃え移る前に鎮火に成功する。

 それにほっとしたのも束の間、私は愕然とした。


「ひどい……」


 改めて見た居間が、目を覆いたくなるような有様だったからだ。

 床の上には、引き剥がされ焼け焦げたカーテンと、それを消火するためにぶち撒けられた水や、花瓶に生けられていた花が散らばっていた。

 最初に燃えたテーブルクロスなど、もはや原型をとどめていない。

 モルゲンをはじめとする鬼族の男達が土も落とさずに踏み込んできたせいで、足跡だらけにもなっていた。

 たででさえ酔っ払っていた上、ぶちのめされた拍子に嘔吐した連中もいる。

 部屋の主であるローエンはそんな惨状にため息を吐きつつも、真っ先に気にかけてくれたのは私のことだった。


「アメリア、大丈夫か……怪我は? モルゲンに何もされなかったか?」

「私は大丈夫です。ルイーズさんとレイチェルさんが守ってくださいましたので。でも……」


 思わずといった様子で私を抱き寄せた彼は、火を消すのにシャツを使ったため上半身が裸のままだった。

 その筋肉質で引き締まった体と心の準備もないまま密着して、本当なら私もドギマギしていたところだろう。

 けれども、今はただ悲しいばかりだった。

 自分の新居を荒らされたのが問題なのではない。

 恵まれた出自ではないにもかかわらず、魔王様の右腕までのし上がったローエンの努力の結晶とも言える住処──そんな大切な場所が理不尽に踏み躙られたことに、私は憤りを通り越して深い悲しみを覚えた。


「どうして、こんな……ひどい……」

「アメリア……」


 私は唇を噛み締めて俯き、必死に嗚咽を堪える。

 祖国に別れを告げる時さえ泣かなかったというのに、今は涙を抑えられそうになかった。

 私の顔を覗き込んだローエンが、痛ましげな表情をする。

 彼は、自室の惨状よりも消沈する私ばかりを気にかけてくれた。

 状況が一変したのは、この直後のことだ。


 ──わっ!


 突如、廊下に詰め掛けていた者達から大きな歓声が上がった。

 何事かと顔を上げた私は、驚くべき光景を目にすることになる。


「いったい、何が起こっているの……?」


 まず、あちこちに転がっていた鬼族の男達が、その吐瀉物ごと忽然といなくなった。彼らがつけた足跡も、いつの間にかきれいさっぱり消え去っている。

 続いて、燃えたはずのカーテンが元通りの姿になって窓にかかり、ぶち撒けられた水や花も何事もなかったかのように花瓶へ戻った。

 最初に火がついたテーブルクロスは真っ新な状態でテーブルを覆い、立てられた燭台の蝋燭に改めて火が灯る。

 何とも不思議なことだが、居間は鬼族の男達が乗り込んでくる前の状態まで完全に復元されたのだ。

 驚きのあまり、私の涙もすっかり引っ込んでしまった。

 呆然とする私の横で、ローエンがシャツを羽織る。火を叩いた拍子に焦げてしまったはずのそのシャツも、元通りになっていた。


「ローエン、これはどういうことでしょう……私は、夢でも見て……」

「アメリア、夢ではない──これは、魔王様のお力だ」


 ローエンがそう答えた時だ。

 どこからともなく、声が聞こえてきた。

 


『──こんな時間に騒ぎを起こした悪い子は、誰じゃあ?』



 穏やかで善良──そして偉大なる、魔王様の声である。

 これに一際大きな反応を示したのは、鬼族で唯一この場に残されていたモルゲンだ。

 まだ酒精が抜け切っていないように見えたが、魔王様の声を聞いたとたん、その顔色は赤から青へと一変した。


「ひえっ……ま、魔王様……? もう、お休みになったんじゃ……」

『ふむふむ、その声はモルゲンくんじゃなぁ? 相変わらずの悪戯坊主じゃのぅ』


 声はすれども姿は見えず。

 魔王様は私室からここまで意識だけを飛ばしている、らしい。

 人間の私にはおおよそ理解できない状況だったが、ローエンを含めたカシュカの面々が驚いている様子はない。

 居間を元通りにしてくれたのも魔王様で、ベランダで伸びていた連中も含め、モルゲン以外の鬼族の男達は地下牢に強制移動させられたという。

 

『モルゲンくんも、朝まで地下牢で反省しておいで』

「うへーい……」

『ランヴァルトくんを呼んでおいたからね。たっぷりお説教されてちょうだい』

「うげっ……お、親父をぉおお!?」


 絶望の声を上げるやいなや、モルゲンの姿も忽然と消えた。


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