第6話 成り上がり



 ギャアッ! ガアアッ! とけたたましく、夜の魔王城にシーシャの威嚇する声が響く。

 掃き出し窓を乱暴に開け放つ音と、無遠慮な複数の足音も続いた。

 最悪、と苦々しく呟きながら真鍮製の燭台をメイスのように構えたのは、狼族の侍女ルイーズだ。

 羊族の侍女レイチェルは無言のまま、椅子を一脚担ぎ上げる。

 私は彼女達の背中に隠されつつ、震える声で夫となったばかりのひとの名を呼んだ。


「ローエン……」



 大広間での宴は日付が変わる前にお開きとなり、私は魔王城三階の一角にあるローエンの居住区にやってきた。

 七公はそれぞれの領地と魔王城の近くに屋敷を構えているが、ローエンは魔王様に仕え始めて以来ずっと王宮内で寝起きしているらしい。

 必然的に、その妻となった私も魔王城で生活することになる。

 これに関し、私は何ら不服はない。

 なにしろここには、広い居間や寝室、書斎が二つ、廊下を兼ねた衣装収納と水回りに加え、ベランダには小さな庭園まで備わっているのだ。

 ローエンが子飼いにしている飛竜のシーシャは、この空中庭園を寝床としているらしい。

 新居は、父王に目をかけられなかったフェレンツ王国の末っ子王女時代よりもよほど充実した環境だった。

 ただし、そんな感動を噛み締める間もなく、私は初めての共寝の支度に取り掛かる。

 甲斐甲斐しく世話を焼いてくれたのは、衣装部屋でも世話になったルイーズとレイチェルだった。

 壁に掛かった時計は、もう半時間ほどで日付が変わることを示している。

 相変わらず多忙なローエンは、仕事を片付けつつ、私室の浴室を私に譲って別室で身を清めてくるとのこと。

 そんな主人不在の新居に、不躾にもベランダから招かれざる客が訪れる。

 ちょうどベランダに面した居間にいた私達には、この望まぬ対面を回避する術がなかった。


「──ごきげんよう、人間のお姫様?」


 ニヤニヤしながら口を開いたのは、自身より一回りは大きな男達を背後に従えた、ローエンとそう変わらない年恰好の男だ。

 燃えるような赤い髪から二本の角が突き出たその姿に、私は強い既視感を覚えた。


「いやだ、モルゲン。酒臭い。さてはあなた達、酔っ払って気が大きくなっているわね?」

「素面でしたら、こんな大それたことはできないのでしょう。酒精に耐性がないのにお酒好きなんて、鬼族の習性も困ったものですわ」


 ルイーズとレイチェルが呆れた顔をして言う通り、モルゲンと呼ばれた男と、その子分らしき大男達はそろって赤ら顔をしていた。

 全員が頭から角を生やした鬼族だ。

 酒好きなのに酒精に弱いのは気の毒だが、こうして不法侵入のような迷惑行為に及んでしまうのなら自重すべきだろう。


「モフモフしててかーわいいなぁ! 狼ちゃんと羊ちゃんも一緒に遊ぼうぜ!」

「絶対いや」

「お断りしますわ」


 モルゲンがルイーズとレイチェルに即行でふられている間に、彼の子分が居間の扉を施錠した上、戸棚で塞いでしまう。

 酔っ払いにしては、なかなかに周到なことだ。

 モルゲンは性懲りも無く、燭台と椅子を構えた侍女達を口説いている。

 しかし、彼女達の頭越しに私と目が合ったとたん、牙を剥き出しにして笑った。

 

「あのいけ好かねぇ野郎が一目惚れするなんて、どんな女かと思ったが……うん、いいじゃねぇか」

「……一目惚れ?」

「だってそうだろ? あの朴念仁が、あんたと顔を合わせて帰ってきたとたん、自分が結婚するって言い出しやがったんだ。この俺を、差し置いてなぁ」

「では、あなたが……」


 モルゲンの言葉に、私ははっとする。

 先ほどまで行われていた結婚披露宴の序盤で、ローエンと一触即発になった鬼族の長ランヴァルト公によると、最初に私の結婚相手として上がっていたのは彼の長男の名だった。

 今のモルゲンの発言からすると、彼がそのランヴァルト公の長男なのだろう。

 侍女達が私とモルゲンを遠ざけようとするが、他の鬼族の男達がそれを邪魔する。

 開け放された掃き出し窓の向こうからは、ギャア、ギャア、とシーシャの鳴き声が聞こえていた。

 どうやら、モルゲンの子分が数人がかりで取り押さえているようだ。


「シーシャを離してください。どうか、ひどいことをなさらないで」

「それは、あんた次第だなぁ。大人しく俺と一緒に来るなら、あいつを離してやってもいいぜ? 本当なら、俺があんたの亭主になるはずだったんだしな」

「過程はどうであれ、私の夫はローエンです。あなたと一緒にどこかへ参るつもりもありません。シーシャを解放して、すみやかにお引き取りください」

「そんなこと言って、本当は不本意なんだろ? せっかく一国の王女に生まれたってのに、結婚相手がローエンなんてな。王族でも貴族でもない、成り上がりだぜ?」


 勝手なことばかり並べ立てる相手に、むっとする。

 けれども、それをおくびにも出さないまま、私は笑みさえ作って言い放った。


「成り上がりの、何がいけないのでしょう」

「……あ?」


 モルゲンが眉を顰めて剣呑な形相になるが、構わず続ける。

 

「王族や貴族のような縁故による強い後ろ盾がないにもかかわらず、ローエンは魔王様の信頼を得て立派に務めているのです。それはきっと、彼の並々ならぬ努力の結果でしょう」

「おい……俺の前で、あいつを褒めるな……」

「生まれや育ちではなく、彼自身を評価してくださった魔王様を、私は心より尊敬いたします」

「やめろ……」

「ローエンを軽んずるということは、彼を重用なさった魔王様にも失礼なことと存じますが、その自覚はおありですか?」

「やめろって……!」


 私が反論するとは思っていなかったのだろうか。

 モルゲンはいたく矜持を傷つけられた様子でわなわなと震え出す。

 そんな中、ルイーズとレイチェルがそれぞれ燭台と椅子で、立ちはだかる鬼族の男達を蹴散らし始めた。

 彼女達の勇ましい姿を横目に、私もぐっと表情を引き締める。

 新居に上がり込んで夫を侮辱した無礼者を、許すわけにはいかなかった。


「努力して成り上がったローエンと、偶然生まれ持っただけの地位に胡坐をかく者……選べる立場にあったとしても、私は迷うことなくローエンを選んだでしょう──お引き取りください」


 そう言い放ったとたんである。

 目の前の赤ら顔が、鬼の形相になった。


「つべこべうるさいんだよ! 黙って一緒にこいっ!」


 癇癪を起こしたみたいに喚き散らし、モルゲンは私を捕まえようと手を伸ばしてくる。

 すかさず、ルイーズとレイチェルが燭台と椅子を投げつけてそれを阻もうとした。

 モルゲンは一瞬怯んだものの、すぐに体勢を立て直して再びこちらに向かってくる。

 その手に、ついに腕を掴まれそうになった──その時だった。


「──ぎゃあっ!」


 ベランダの方から、シーシャのものとは違う声が上がる。

 うわあ! ひいっ! といくつもの悲鳴が暗闇の中に続いた。

 さらに、赤ら顔……ではなく、真っ青な顔をした鬼族が居間へ逃げ込んでこようとする。


「アッ、アニキ! モルゲンのアニキ、たすけ……」


 ところが、すんでのところで蹴躓き、べしゃっと顔面から倒れ込んでしまった。

 必死に手を伸ばして掃き出し窓の桟を掴み、モルゲンの方に這い寄ろうとするも……


「ふぎゃっ……!」


 闇の中から伸びてきた足が、容赦無くその背を踏み付けた。

 足は、そのまま鬼族の男を踏み越えて、彼の代わりに居間へと入ってくる。

 私を捕まえる直前の体勢で固まったモルゲンの喉が、ゴクリ、と大きく音を立てた。

 その隙を逃さず、ルイーズとレイチェルが私を彼から遠ざける。

 彼女達の背中に隠されつつ、私はベランダから現れたひとの名を──


「ローエン……」


 この部屋の主であり、夫となったばかりのひとの名を呼んだ。


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