僕は天才
霜降十月
僕は天才
小学校のころ、誰よりも算数の問題を早く解くことができた。特に努力するわけでもなく、初めから誰よりも勉強ができた。そして気付いた。
僕は、天才なのだと。
それから十数年間誰よりも勉強し、それで誰よりも結果が出た。
「東大に行こうと思う」
「へえ、やるじゃん」
目の前の女子、赤井はじっとこちらを見つめながら言う。
「まあ、元気そうで良かったよ」
目の前を車が通り過ぎる。バスが来るまではあと十五分だ。
「そりゃあ、天才だからね」
「でた、昔からそればっかり」
赤井は中学の頃の同級生で、今日二年ぶりに再会した。
それから他愛もない会話を十四分続け、やってきたバスに乗り込む。がらがらのバスの最奥に並んで座り、中断された会話の続きをする。
「高認? だっけ?」
「うん、これで大学にも行ける」
窓の外には沈みかけの夕焼けが見える。ぼくは切ったばかりの髪を弄りながらそれを眺めた。
「高校、辞めたの?」
「うん、まあ、そうなるね」
学校には無駄な時間が多すぎる。天才の僕には相応しくない場所だ。
「それで引きこもってずっと勉強? じゃあ、見ないわけだ」
「まあ、ずっと」
「へぇ、……あ、そうだ、ゲームとかする?」
暇でしょ? とでも言いたげな目で赤井はこちらを見る。
「しないよ」
「映画とか?」
「見ないよ」
「読書」
僕は黙って首を振る。
「マジ?」
「マジ」
赤井は苦笑いしながら目線を明後日の方向に向ける。
「そうだ、今度イオンでも行く? 大事だよ、息抜きとか」
「いや……」
僕は手すりについてあるボタンを押す。
「せっかく会ったんだしさ、ほら」
「……いや、勉強しなきゃ」
僕は聞こえるか聞こえないかの大きさでそう言うと、席を立ちあがった。
「……受かった」
僕は小さく呟いた。高ぶる気持ちをそのままに吐き出したいような気分であったが、かすれる喉はそれを許さなかった。
バスに乗り、三津井の家を目指す。結局、あの日以来彼に出会うことはなかった。連絡も付かない。大学受験も終わったので生存確認も兼ねて、彼の家を訪ねることにした。
チャイムを押す。返事はない。微かな希望を託し、ドアノブに手を掛ける。ドアはあっさりと開いた。玄関で靴を脱ぎ、一番奥の部屋へと進む。そこが三津井の部屋だ。
ドアを開くと漂うのは埃の匂い、それから部屋中を所狭しと参考書やノートが置かれている。
おそるおそる部屋に踏み入る。本も漫画もない、勉強以外のすべてが排除された部屋だ。机の引き出しも、押し入れも、ふと、異質なものが目に映る。押し入れの最奥。宇宙を描いた絵だった。あまり上手とは言えない、絵の具で描いた絵。それは一度破かれたものをテープで補修したものだった。
玄関から音がする。きっと三津井が返ってきたのだろう。慌てて部屋を出ると、ちょうど正面に来た彼と目が合った。
「……お帰り」
「どこ行ってたの?」
「父さんに会ってきた」
赤井はリビングにどんと座り、僕が淹れたお茶を飲んでいる。
「そう……受験、どうだった?」
「受かったよ」
「よかったじゃん、私も合格」
彼女はピースサインをこちらに向け、爽やかに笑う。
「じゃあ、改めて、どっか遊びに行く?」
「……いや、それは」
「いいじゃん、頑張ったんだし」
「でも」
「東京行っちゃうんでしょ?」
「また会える」
「……」
彼女は何かを考えるように一瞬黙り込んだ後、口を開いた。
「天才って、そんなに大事?」
彼女ははっきりとそう言った。
絞るように声を出す「実際そう、だから」
「部屋見たんだけどさ、ちょっと、怖かった」
「君はさ、もっと、馬鹿なことするべきだよ。何の役に立たないこととかさ、この絵も」
彼女はどこかから絵を取り出し、目の前に掲げた。
この絵は覚えている。小学校の頃、描いた絵。人の数倍時間をかけて描いたが、その絵を見た人は決まって微妙な表情をして、中途半端な言葉を吐いた。
「別に破らなくてもさ……」
彼女は俯きながら呟く。
「……無理」
それはできない。残酷だ。
そんなことをしたら、天才ではない自分と向き合うことになる。箸にも棒にもかからない、誰も相手にしない。そんな自分が。
哀れみ、体育の授業でよく向けられた表情。無駄な努力を続ける男に向けられた表情。それがどうしても嫌だった。学校も辞め、誰も知らないところで努力した。僕は天才だ。高校にも行かずに東大に受かった。間違いなく天才だ。
この場にいられなくなり、立ち上がろうと体を動かす。
鈍い音が走る。一瞬遅れて痛みによって、机に脚をぶつけたという事実をようやく理解した。
「アハハハハハハハッ!」
赤井は腹を抱えて笑い出した。それはわざとらしく、とてつもない違和感のある笑い方だった。
「……ほら、私が笑ってやるからさ、安心して馬鹿しなよ」
彼女はそう言って小さく笑った。
視界が波打ち、何も見えなくなる。
「……うん」
「よ」
「……また?」
酔いつぶれた三津井を車に乗せる。
「そのうち死ぬよ」
ため息をつきながら私は呟く。
「大丈夫、天才だから」
そう言って彼は笑った。
僕は天才 霜降十月 @apdgpennam
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