第二章 昔話

第7話


    ⌘ ⌘ ⌘


 目覚めると2日が経っていた。

 詳しい話はご当主からーーと言われ、わたしは彼と向き合っていた。



「この宿屋には我々しかいない。人払いをしている」



 彼は窓辺に寄りかかって、首を傾げた。

 ただそれだけで絵になる人だった。



「……君の名前を教えてくれ」


「……美雨です。でもーーご存知でいらっしゃるのでは……?」



 記憶が間違っていないなら、彼は白家を発ったときにわたしの名前を呼んでいたはずだ。

 けげんに思って、失礼にあたらないよう気をつけて質問した。



「そうだ。でも、君の口から聞きたかったんだ」



 たしかに、数年前のあの雪の夜にも名乗らなかったーー名乗れなかった。声を失っていたから。

 彼はそっと微笑んだ。



「美雨。わたしの名は銀狼。銀狼家のいまの主であり、その名を継いだ者だ」


「ーー銀狼さま」


「できれば、ただ銀狼と」



 呼び捨てなど恐れ多いことだったけれど、そんな顔で請われては断れなかった。

 なぜ泣きそうな顔をしているの?



「……銀狼」



 聞いたことがあった。四大名家の当主は、主人になる時にその家名を我が名として、それまでの名を捨て去ると。


 だからこの人は、ただ『銀狼』さまなのだ。


 そうやって強い守護の力がこもった名を継ぎ、生まれもっての名前を捨てるのは、『災いの獣』の呪いや影響から身を守るためでもある。

 でも、名前を捨てるというのは、とてつもなく寂しくてならない行為に感じられた。



(両親からの遺品全てを失くしたわたしでさえ、この名前と体だけは命尽きるときまでわたしのものなのに……)



 唯一、奪われない宝物だと思っていた。



「今日、初めてその声で我が名を呼ばれたな」



 銀狼がはにかむと、そんなわたしの思いとは関係なく、静かに話を続けた。



「さて、美雨。恐らく多くの疑問もあるだろう。同時に、わたしも貴女に聞かなければいけないことがある。まだ貴女に話すことのできない事情もあるが、できる限り誠意をもって答えると誓おう」



 とても親切な申し出だった。

 彼はもう本来ならわたし一人の人生なんて、軽く左右できるような立場だったから。なんの説明もせずに、ただ命令さえすればわたしは従うのに。



「お心に甘えて、お伺いさせてくださいませ」



 感謝を込めて、できるだけ丁寧に膝をつき、最上の経緯を示す礼をとる。



「白家からわたしを連れ出してくださるとき、迎えに来た理由を叔父たちにおっしゃっていました…」



ーー『美雨、わたしは君を迎えに来た。君をあるべき場所へ。叶うなら、わたしの花嫁として迎えるために』



 彼の声が蘇って、内心いまさら狼狽えてしまう。

 こんな立場の人にそう言われるなんて、ほんの数日前のわたしには考えられなかった。あの白家で、父と母が遺してくれた思い出と、目の前の彼が与えてくれた小さな温かさを胸にしながら、ただ日々を耐えて生きていくものと思っていた。



 それだけで生きていけるはずだったのに……、なぜ言葉を反芻するだけで動揺しているのかしら。



「銀狼さま…いえ、銀狼の花嫁というのはただの方便ーーいえ、聞き違いかと分かっていますが、わたしを連れ出した本当の理由はなんでしょうか?」


「聞き違いではない。貴女にたしかに求婚した」


「えっ!?」


 声をあげて、礼の姿勢から思わず立ち上がろうとしてしまい、


「ーーあっ!」


 筋力が落ちて弱りきった身体はよろめき、わたしは倒れそうになった。


「ーー!」


「……無理はしなくて良い」


 と、銀狼が無駄のない素早い動きでわたしを抱き留めた。



 彼の胸からは、トクトクという鼓動とともに、柑橘のような爽やかな香りがした。銀狼の筋肉質な腕が、わたしが苦しくないように力を入れずそっと包み込んでいるのが分かる。

 わたしは頬を赤らめてしまった。



「お、恐れ入ります……」



 白家にいた間は、水をかけられても罵られても、大抵のことに感情が揺り動かなくなっていたのに、銀狼が現れてからわたしの心には波風がたってばかりだ。

 彼の胸にそっと手をついて、体を離す。


 けれど完全に離れることは許されず、腕がわたしの背中を押して、しつられられていた長椅子に導かれた。

 あがらわずに腰を下ろす。


 銀狼さまも隣に座ると思いきや、彼はわたしの前に跪いて「貴女に、もう一度言おう」と、唇を開いた。




 「間違いなく、わたしはずっと貴女を探していた。貴女をあるべき場所へ迎えたい。そして、できるならわたしの花嫁となって欲しい」




 彼の青い瞳がわたしをじっと見つめていた。頭の芯がじんとしびれて、その瞳に吸い込まれるような心地だった。でも目が離せない。それはまるで、力の宿った宝玉から発せられるような、強い引力。



 お互いに見つめあっていた時間は、ほんの数瞬なのに、永遠のように長く感じたーー。




    ⌘ ⌘ ⌘

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