第5話
にわかに厩舎は混乱しだした。
見知らぬ大声に驚いた二頭はいななき、前脚を踏み鳴らした。黄蓋はすぐに馬を落ち着けようと動いたけれど、泰然の登場に戸惑っている気配が感じられた。
わたしは痛みと混乱で微かに手足が震え出した。
なぜ正装した泰然がここに来たのかわからない。今ごろご当主さまとお酒でも酌み交わしているときなのでは?
その彼は青ざめた顔で強くわたしの右腕を掴んでいて「離して」と絞り出した声で言っても、かえって泰然の手には力がこもるばかりだった。
「美雨、お前は銀狼のご当主と逃げようとしたのかーー?」
「……なにを言っているの?」
「なぜなんだ! 俺と婚約しているのに、ご当主がおまえを迎えに来るなんて。どういうことなんだ!? 説明しろよッ」
わたしこそ泰然が何を言っているのか分からず、困惑した。
「待って…お、お願い。腕を離して……」
掴まれた腕にうまく血が通わず、痛みを超えて指先が痺れてきていた。
「他にこの家にお前の味方なんかいない。お前が頼れるのは俺しかいない!」
けれど頭に血が上った泰然は、わたしの言葉など耳に入っていないようだった。
「おいおい、お坊ちゃん。落ち着きな」
馬を無事に大人しくさせた黄蓋がのしのしと歩み寄って来て、泰然に言って聞かせてくれた。
黄蓋が腕を伸ばして、わたしをつかむ腕を解放させようとしたけれど、
「うるさい!! お前たちに美雨を奪われてなるか!」
かえって激昂した泰然は、今度は怒りで顔を赤く染めた。それどころか、泰然はありえないことに、空いていた片手で腰に下げていた剣に手をかけた。鞘から剣が抜かれかけたそのときーー。
「そこまでだ。動くな」
絶対的な冷たい声が響いた。
決して大きくはないのに、その場を一瞬で静めてしまった、人を統べることに慣れた青年の声。
その声の主人は、ゆるく結い上げた銀髪を揺らして、澄んだ青い瞳でわたしを見つめた。
ーーそれは、あの夜に出会った少年が成長した姿だった。
美しいだけでなく、細く引き締まった身体から立ち上るような冷たい怒気を立ち上らせた青年。彼はは、びりびりと痛いほど圧倒的な覇気で、名乗らずとも自分が四大名家の当主であることを示していた。
「彼女を掴む手を離せ」
その命令によって解放されてからやっと気づいたけれど、泰然が抜こうとしていた剣はすでに彼の腰にはなく、黄蓋がいつの間にか手にしていた。あまりに一瞬の早技で、何が起こったのかはわからなかった。
ただ、泰然は今度は真っ白い顔色をしていて、頬をつうっと汗が伝った。
「ーーうっ。痛…っ」
気が抜けるとともに、わたしは痛めていた左脚でたたらを踏んでしまった。
「おっと、大丈夫か? 嬢ちゃん。悪かったな、お前の主人だと思って、すぐに手出しできなくて」
座り込みそうだったけれど、黄蓋の厚い手のひらに危なげなく背中を支えられた。
「黄蓋、よい。わたしが彼女を連れてゆく」
先ほどまでの怒気を鎮めて、銀の青年がわたしに歩み寄った。
「えっ。ご当主さま、いいんですか? 人探しをほっぽっておいて」
まぁ、この子は良い子そうなんでオレには放っておくことはできませんが……とぽりぽり首を掻く黄蓋に、
「彼女だ」
と端的に答えた。
「は? 彼女っつーのは……?」
黄蓋を無視して、
「貴女の名前は美雨というのだな」
当主はわたしに手を差し出しながら、口元に微笑みを浮かべた。わたしはその花が開くような笑顔につられて、自然と手を取っていた。
「美雨、わたしは君を迎えに来た。君をあるべき場所へーー叶うなら、わたしの花嫁として迎えるために」
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