第3話
できるかぎりの手当を終えると、わたしは彼の口に冷えた水を含ませた。
もしかしたら蔵には治療に使える宝玉があるかも……という甘い希望は叶わなかった。
せめて何か役に立つものはないかと、蔵の中をちょこまかと探してみたけれど、古びた燭台に灯りを点せたただけだった。
ーーごめんなさい。
こんなことしかできなくて。
震えるわたしの唇を読んだ彼が、
「充分だ。朝まで待てば迎えが来る」
この首飾りの宝玉を目印にね、と荒い吐息を抑えながら、なんのこともないように言った。わたしを安心させるように。
首飾りの宝玉にはひびが入っていて、彼にまとわりつく靄と闘うように、微かに明滅していた。この宝玉が瘴気と拮抗していたからこそ、こんな体でも彼は白家の庭先までやってこれたのだろう。
「このくらいなら死にはしないし、慣れている」
けれど、ひどい苦痛であるのは間違いなかった。わたしも白家の一員として知っていた。この傷口から流れ込む瘴気が、その身の内側から焼き付けるように熱を出させて、本来なら話すことすら辛いはず。術師でなければ、数刻で死んでしまうほどの苦しみのはずだった。
つい泣きそうになっているわたしに、彼はふっと笑った。
「心配いらないよ。この宝玉の力もあるが、わたしは平均的な守護術師より強い力を授かっているから。おかげで何度も生き延びている」
ーーそれは、それだけ苦しんでいるということではありませんか?
まだ成人もしていないだろう彼のこれまでを思って、堪えていた涙がポロリと落ちてしまった。
力のある術者は敬われ財産と地位を手にするけれど、それは同時に過酷な道でもあった。ときには、わたしの両親が命を失ってしまったように、人々を守るために自分の全てを掛けることさえある。
「わたしのために泣いているのか?」
頷くと、おかしな娘だ、と少年は言いながら涙を拭ってくれた。君こそ寒空にひとりで庭先に放り出されて心細いはずなのにと。
「だが、本当にわたしのことは心配いらない。これまで似たような傷を受けたことはあったが、君の奏でた調べを聞いたあたりから、不思議と症状が安定している。こうして話せるくらいには」
以前、同じような怪我をした時は、もっとひどい苦しみだったそうだ。
そしてわたしにポツポツと事情を語った。
「妖を封じた瞬間に油断してしまった。だが封じは完遂できたので、一番近くの術師の家で応急の手当だけでも受けようと寄ったところだったんだ。ーーけれど手当てができるような白家のご当主たちはこの前亡くなったばかりだったな……」
もう白家に力のある護衛術師はいないだろうから、と肩をすくめて、
「だから、今から本邸で手当を受けなくても大丈夫だ」
と言って宥めた。彼のことを知らせようとしだが、本邸の戸を叩いても誰も反応してもらえなくて、肩を落とすわたしに。
「お前は白家の遠縁の娘か? 声が出せぬとはいえ、瘴気に耐性があって唄も知っているということは、ここに勤めているのだろう」
彼がそう思うのも当然だった。わたしはみすぼらしい下働きの格好をしていたから。
わたしは肯定も否定もできず、ただあいまいに微笑むしかなかった。
少年はそれを肯定と取ったようで、話を続けた。
「『弔いの唄』は素晴らしい響きだった。ご当主たちを想う心が伝わって来た。ご当主たちは下々にも心を欠かさない人格者と聞いているから、お前にってもさぞ素晴らしい主人だったのだろうな」
亡き両親をそう評価してくれる言葉に、また涙が溢れた。叔父たちがこの屋敷を牛耳ってから、父たちの功績はなかったように扱われていた。
「しかもあれほどの楽奏の腕をもっているとは。きっとご当主も安らかに四神獣のみもとで安らかに眠りにつかれているよ。我が家ならば、声が出せぬとはいえ、このような粗雑な扱いはしないほどだが……。ご当主に可愛がられていたならば、かえって今は辛かろう。どこの家にも派閥というものはあるからな」
そしてわたしの頭に手を置いて、ぽんぽんと優しく叩いた。それは、泣き虫だったわたしに、よく父がしてくれた動作でもあった。
そんな彼に差し出せるものは既にほとんどなくて、
「では、君の奏でる唄を聞かせてくれ。ーー先程も、唄を聞いているあいだは痛みが引いたんだ」
その彼の言葉を叶えるくらいしかできなかった。
せめてこの手にしているのが守護術にもちいる神楽器ならよかったのに。わたしは楽器の弦の張りを確かめながら心苦しくなった。
ただの楽器では叶わないけれど、母の使っていた神楽器なら、壊れかけの宝玉にでも多少の癒しの力を与えられただろうから。
ゆらめく灯火のもとで、呼吸を整える。
でも、せめて彼の痛みが引くように、ありったけの願いを『癒しの唄』に込めよう。
ーーどうか、彼の苦しみが癒えますように。
弦を弾き、歌うように調べを鳴らす。一音一音が真珠の粒のごとく際立つように意識して、けれど音が途切れることなく連なるように……。
…光の粒よ ここに集いて
癒し給え 傷つきし人を
憎しまず ただ安らかに
清浄齎せ 彼の人の心に
弦を押さえる動きもこれまでにないほど滑らかに動いた。意識のすべてが楽器と指先に集中していたけど、ふと彼の胸元の宝玉が強く光り、驚きで目を見開くのが目の端に映った。
わたしがそっと目を閉じると、調べを奏でているときに稀に見える幻が見えた。
不思議と目の前の情景がまぶたの裏に浮かぶ。
ーーううん。目で見てるんじゃなくて……感じ取っているみたい。
扉を閉めたこの空間にきらきらした光が満ちて、それが彼の痛めつけられた足に集まっていく。光の粒が瘴気に触れるとはじけて、すこしずつ靄は小さくなっていくーー。
ありえない光景のはずなのに、唄が心を占めていて、凪いだように驚きはなかった。
目を開いていては見えなかった、彼の血に流れ込んだ瘴気まで感じ取れて、わたしは音で彼の体を包むような意識で楽器を響かせた。身体中に散らばった靄を打ち消すように……それは、冷気を湯で温めた手巾(ハンカチ)でくるんで溶かしてしまうような感覚だった。
一種の瞑想状態のようなものなのか、その柔らかい光の中で、わたしは彼を癒しながら、わたし自身も救われていくように感じていた。
「これは……一体……」
『癒しの唄』を奏で終えると、彼が小さく呟いた。
わたしも目を開いて驚く。
ーー瘴気が消えている!
それだけではなかった。
彼の異色に焼け爛れた足首は薄い傷跡を残すだけで健康な肌色を取り戻していて、どうやら呼吸も熱もおさまったようだった。
「……なにが起こった…んだ……?」
何が起こったのかわからず呆然としていると、同時に強烈な眠気がわたしたちを襲った。
まるで1日遊び疲れて家にたどり着いたときのような、強烈で柔らかな睡魔。
さらにそのとき、パリンッと音がして、役割を終えたかのように彼の首飾りの宝玉が真っ二つに割れた。
ーーえっ!?
「えっ……」
朦朧とする意識のなかで、彼がなんとか首から飾りを外したのが見えた。
けれど、
「…な…なぜ……」
そこで私たちは、抗おうとしても耐えられない眠りに、静かに落ちていった。
⌘ ⌘ ⌘
翌朝、目が覚めるとわたしは一人でこの蔵に眠っていた。
彼のあまりにも美しい姿とともに、まるで夢幻のような出来事だったけれど、わたしの手元に残されていたこの割れた防御の首飾りと、微かな血の跡が、たしかに雪の夜が現実だったのだと示していた。
わたしの心は、この夜を境にどこか落ち着きを取り戻しはじめて、しだいに声が出せるようになっていった。
それは、少しでも少年の力になれたという安堵のおかげだった。
ーーわたしは父と母のように苦しむ人を助けられたんだわ。
父と母は、無力なわたしの目の前で、災いによって命の灯火を吹き消されてしまった。けれど、その両親と同じ傷を負った少年を手助けできたことで、自分の無力感を乗り越える機会を与えられた気がした。
だから、あの首飾りを見るたびに思う。
わたしは彼を助けたのではなくて、彼に救われたんだーーと。
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