プロローグ②

「兄上」

 カストルの思考を妨げるようにして、彼の背後から男の低い声がする。カストルはピタッと足を止めると、心底嫌そうに眉根を寄せる。


 この国でカストルを“兄上”と呼ぶのは、ただひとりだけだ。

 渋々といった様子で振り返ると、そこにはカストルの予想した通りの人物が立っていた。


「……何の用だ、ポリュデウケス」

「露骨に嫌そうな顔ですね。そんなに私の顔を見るのが不快ですか、兄上」


 白く、後ろでひとつに束ねた長髪。白い衣装に身を包んでそこに立つその男の容姿は、どことなくカストルに似ている。しかし、カストルとは違う黄色い瞳で、カストルを冷たく睨み返していた。

 その男の名は、この国の第2王子で王太子、ポリュデウケス・レヴィン。カストルと同じ年の異母弟おとうとだ。幼少の頃は双子と見まごう程によく似ていた2人だったが、成長と共にそれは変わっていった。

 4年前に、婚約者であったエイレーネーを婚姻前に妊娠させてしまい、本来は学園を卒業し、18歳になった際に成人式と同時に行われるはずだった婚姻の儀を前倒しにして行い、卒業と共に双子の兄妹の父となった、愚かでふしだらな王子。そんな風に彼を呼ぶ貴族は多い。


 だが、カストルはそんな不祥事とは別に、ポリュデウケスを嫌う理由があった。

 それは、思い出したくもない。悲しく愚かな記憶。


 それを振り払うようにしてカストルは1度だけ目を伏せると、努めて嘲笑の笑みを浮かべた。

「未来の国王陛下に拝謁して不快に思う国民がいるのか?もしそう見えたなら、それは誰かさんが放置した仕事を代わりに押し付けられていたせいかもな。疲労困憊のあまり愛想笑いを忘れてしまったようだ」

「……ご冗談を。貴方は私を馬鹿にする時以外で、この10年笑ったことがないでしょう」

 ポリュデウケスの言葉に、カストルはすっと笑みを消し、不快そうに再び顔を歪ませる。


 ……それを分かっているくせに自分から話しかけてくるとは、本当に忌々しい男だ。

「…で、用件はなんだ。さっさと済ませろ、俺は忙しい」

 心底不快といった低い声でカストルがそう尋ねると、ポリュデウケスはその姿にため息を吐いた。それは、諦めのような悲しみのような響きを持っていたが、ポリュデウケスはその感情を口にはしなかった。


 言葉ひとつ、感情ひとつで解決する程簡単ではないと、知っているから。

 ポリュデウケスは口を開き、用件を伝えた。

「……明日、私の娘のお披露目会が行われます。ですがその前に、一族との顔合わせをこれから行いますので、一緒に来てください」

「……?」

 ポリュデウケスの言葉に、カストルは怪訝な顔をした。


 エイレーネー王太子妃が、先月3人目となる王女を出産したことは、カストルも知っていた。王族の子として生まれた赤子が、ひと月すると貴族や平民らにお披露目されることも、この国に生きる者ならば誰もが知っていることだ。

 しかし、お披露目会の前日に一族を集めて顔合わせを行うなど、今までならばあり得ないことだ。

 例外として、生まれた子が“魔族寄り”だった場合は、追放される前に一族と顔合わせすることがあるが、その後はお披露目もせず、秘密裏に赤子をテオスの外へ追放するのだ。


 お披露目会をすることが決定しているということは、その後に追放するようなことはない。つまり、生まれてきた子供は魔族寄りではなかったということだ。

 だというのに、一族を集めて顔合わせをするとは……生まれてきた子供に、何か問題でもあったのだろうか?


「…双子の時はなかっただろう。なぜ今回に限って?」

「…娘は、オフィーリアはどうやら、だったようなのです。つい昨日そのことに気が付きまして、それで一族全員に召集をかけたのです」

「——っ」

 オフィーリアというのは、恐らくその赤子の名前だろう。だがそれよりも、先祖返りという言葉に、カストルは驚きのあまり息を呑んだ。


 この世界には、“魔族”とは対になる“神族”と呼ばれる種族がいる。神族とは、文字通り神の眷属。太古の昔に、この国を作ったと言われている神の子孫たちのことだ。彼らは皆、ポリュデウケスのように、白い髪に黄色い瞳を持っており、また始祖の神が女神だったことから、神族たちは皆男女問わず長髪であることが義務付けられていた。


 そんな中でも、100年に1度生まれると言われているのが、先祖返り。文字通り、始祖の女神に最も近い“色”を持っている者のことで、その者の瞳は黄色よりも金色に近い。そして先祖返りは、強大な魔力を持ち、そして将来高確率で純粋な神族を産むとされている。


 王族に純粋な神族の先祖返りが生まれたのは、実に300年振りだ。それ故に、一族全員集められ、一足早く顔を合わせることになったのだろう。

 事情は分かった。だが、カストルは気が乗らなかった。


 ……子供は嫌いだ。


 こちらが何もしていないのに、その姿を少し見ただけで泣く。ポリュデウケスの双子たちと初めて顔を合わせた時も、特に何もしていないのにこの世の終わりかという程に泣かれた。それは今も変わっていない。


 特に赤子は、言葉を発せられないから何を考えているのかまるで分からない。

 また泣かれて、一族全員から責められるような目を向けられるのは面倒だ。


「……言っただろ、俺は忙しい。それに、俺が近づいたらそのオフィーリアとかいう娘も泣き出すぞ」

「そうかもしれないが、父上が一族“全員で”、とおっしゃったのです」

「なんだ、今日はまともなのか。あの老ぼれは」

 馬鹿にするような口調でそう言ったが、もうポリュデウケスは何の反応も示さなかった。カストルはその様子に、ため息を吐く。


 こういう頑固なところが、俺をさらに苛つかせるんだ。

 ……まぁ、いいか。一目だけ顔を見て、もし泣かれでもしたらすぐに立ち去ればいい。

 カストルは自分の手元にチラッと視線を向けながら思うと、再びポリュデウケスの方を見て口を開いた。

「ここで待て、こいつを部屋に置いていく」

「……はい、分かりました」

 納得したような言葉を口にしたポリュデウケスだったが、異母兄を見つめるその目はまるで、「逃げないで下さいよ」とでも言うようだった。


 今のところ魔族寄りの半端者の王子にそのような目を向ける人物は、この男だけだ。こいつは、俺を恐れていない。だが俺は、この男が心底嫌いだ。

 カストルはふいっ、と目を逸らして元の道を戻っていく。背中に感じる異母弟の視線を不快に感じながら、それでも決して振り返ることなくただ真っ直ぐに歩いていった。




 トレゾール宮は元々、客人のために作られた城だったが、カストルが10歳の時に王がそのままの状態でカストルに与えたものだ。

 そのため、トレゾール宮にはいくつもの部屋がある。そこで働く使用人やメイドたちには専用の城があるため、トレゾール宮にはカストルがほとんどひとりで暮らしていた。

 いくつものある部屋のほとんどは空き部屋で、カストルはそのうちの3部屋を繋げて広くした部屋を自室兼仕事部屋として使っている。


 両開きの扉の片側を開き、無駄に広い部屋へ入る。部屋の中は、散々な光景だった。

 足の踏み場もない、というほどではないが、床には紙類が散らばり、長ソファーには本が数冊無造作に置かれている。まるで盗人でも入ったかのようだが、カストルはまるで動じることなく部屋の中を床に散らばった紙を避けながらずんずん歩いていった。


 カストルは、信用のできない人間が自分のテリトリーに入ってくることを嫌っていた。そのため、その部屋だけはカストル自らが片付けや掃除をしているのだ。

 普段はそれなりに綺麗にしているのだが、仕事の量が多く忙しい時にはどうしても部屋が散らかってしまう。


 ……後で片付けなければ。


 そう心の中で呟き、カストルは小さくため息を吐いた。

 なんとかデスクの前まで到着すると、そこも既に書類や本で散らばっていたが、片手で雑にそれらを掻き分け端に寄せ、わずかなスペースを作ってから手に持っていた書類と本をそこに置く。すると、これもまた無造作に置いたのであろう金色と銀色の2つのロケットペンダントが目に映った。


 その2つは同じようなデザインの色違いで、金色のロケットの蓋には赤い宝石のような丸い石が、そして銀色のロケットの蓋には、金色の宝石のような丸い石がはめ込まれている。

 これは、とある職人が2つセットで作ったものだ。蓋付きの丸いケースには、写真が入れられるようになっている。


 このロケットには、互いを大切に思う2人がお互いの写真を入れて愛用すると、2人の絆が深まるという、年頃の娘たちが憧れるようなロマンチックな噂があった。

 これは、元々カストルの実母ソフィア妃が生前に大切にしていたものらしく、ソフィア妃の死後、当時彼女の侍女だったカストルの元乳母が、8年前に引退して城を去る際に、カストルに渡してくれた物だった。


 ——もし殿下に、大切に思える相手ができた際に、お渡し下さい。


 乳母は最後にそう言っていた。

 が、あれから8年。カストルはこのロケットに自分の写真はおろか誰の写真も入れたことがなかった。

 カストルは2つのロケットを手に取ると、強く握りしめる。

「……なんてことはない、いつものことだと思えばいい」

 小さな声でポツリと呟くと、カストルは部屋を出て、ポリュデウケスが待つ元へ戻っていった。




 ポリュデウケスに連れられて、カストルはレーヌ宮の1室へやってきた。そこは、生まれたばかりの王子や王女が母親や乳母と過ごす育児室で、ポリュデウケスの双子も、少し前までここで過ごしていた。

「どうぞ、兄上」

 ポリュデウケスがそう言って促す。カストルはわずかな緊張を虚勢で押し殺し、ドアノブに手をかける。と、その時。


「っあぁあ!!」

 鼓膜を貫くような赤子の泣き声に、カストルはノブから手を離して後ずさった。


 ……まさか、近くに来ただけで怖いというのか?

 だとしたら、随分と臆病な子が生まれたものだ。このまま部屋に入ったら、余計に怖がらせるかもしれないな。


 カストルはそう思って少しの間、部屋の前で待った。しかし、いくら待っても赤子の泣き声は止まらない。それどころか、赤子をあやそうとする声すら聞こえなかった。


「…何をやっている」

「兄上?」

 ポリュデウケスの呼びかけは、カストルには聞こえなかった。


 カストルの脳裏に、いつかの日の自分の姿が浮かぶ。何の力もなく、ただひとり泣くことしかできなかった幼少期。誰も助けてはくれず、手を差し出してもくれず、暗く寒い部屋でただひたすらに泣いていた、あの時の自分。

 それをいくら恨んでも、いくら嘆いても、その声は誰の耳にも届かない。


 そんな惨めで、思い出すのも嫌な程煩わしい記憶。


 カストルは己の手がわずかに震えているのに気付くと、振り払うように強く拳を握りしめた。意を決したように再びドアノブに手をかけると、勢いよく扉を開ける。


「おい、いつまで泣かせておくつもりだ?」

 怒り混じりにそう言って部屋に入ると、周囲が一気にシン、と静まり返った。まるで幽霊のような真っ白の装いの神族たちが、ひとつのゆりかごを囲むようにして立っている。彼らの視線が全てカストルひとりに注がれていて、誰も赤子をあやすような素振りを見せなかった。


 その中には、椅子に腰掛けてこちらを睨みつけている、ポリュデウケスによく似た容姿の老人や、今年3歳になったばかりの男女の双子と、その後ろに立つ母親らしきの女性の姿がある。その全員が、神族だった。

 老人の方は、この国の王、エドアルドゥス。そして双子の男の方はポリュデウケスの長子、クラトス。そして女の方はその妹のアグネス。母親らしき女はエイレーネー王太子妃だ。

 双子はカストルの姿に怯えるような顔をすると、母親のエイレーネーの背後に隠れる。そしてそのエイレーネーも、青い顔をしてカストルの顔を見ていた。


 カストルはそれらから目を逸らすと、ぐるっと周りを見回す。すると、一族らは皆カストルの視線から逃れるように下を向いたり、気まずそうに横を向いているだけで、誰ひとりとして赤子を気に留めようとはしない。

 ……恐らく、300年ぶりに王家に生まれた先祖返りに、怖気付いているのだろう。その上、この部屋中に広がっている強い魔力の気配…これは間違いなく、赤子から発せられているものだ。


 これほどの魔力の発現が赤子の時点で見られることなど滅多にない。下手に触れて、赤子に何かあった際の責任が、自分に降りかかってくるのを恐れているのだろう。

 ……だからとはいえ、母親でさえ自分の娘をあやそうとしないのか。


 カストルは小さくチッと舌打ちをすると、人の間を掻き分けてゆりかごに近づいた。

 何故か泣き声は聞こえなかったが、恐らく勢いよく扉が開いた音に驚いて、一瞬涙が止まっただけだろう。……一目だけ見たら、すぐに立ち去ろう。

 カストルはそう思って、半ば恐る恐るゆりかごの中を覗き込む。そこには、目に涙を溜めてこちらを見る、小さな生き物がいた。


 白く薄い髪に、大きな金色の瞳。先ほどまで泣いていたせいか、わずかに頬が赤い。

 ……この子が、オフィーリア。


 すぐに泣かれるだろうと身構えて覚悟していたカストルだったが、意外にもその赤子はじっとこちらを見つめたまま、怯えも泣きもしなかった。

 ……珍しい、俺を見ても恐れない赤子なんて。


 そう思ってしばらく興味深く見ていると、赤子は何度かパチパチと瞬きをしてから、何かを掴むようにこちらに両手を伸ばしてきた。

 赤子の突然の行動に、カストルは思わず身を逸らす。


 ……何だ、何をしている。

 この赤子は、一体俺に何を求めている?

 逃げるようにカストルが後ずさると、赤子はさらに手を伸ばし、不満そうにうーうーとうめく。

 何だ、まさか、抱けというのか。

 この俺に、赤子を抱けと?


 赤子の目に再び涙が滲む。まるで、早くしないと泣くぞ、と脅迫するかのような視線。

 ……子供は、嫌いだ。

 すぐに泣くし、何を考えているのか分からない。

 目の前にいる大人がどういう人間か、何を考えているかも知らないのに、こうして求めてくるところも、どうしようもなく嫌いだ。


 ……そのはずなのに。


 恐る恐る近づくと、カストルはわずかに震える両手を、小さな姪へ伸ばした。

 赤子を抱いたことはないが、やり方は知っている。エイレーネーとポリュデウケスが双子を抱いているのを、遠目から何度か見ていた。

 カストルは赤子の首を支えながら、身長に横抱きした。右腕で赤子の首を支え、もう一方の手で赤子の体を支える。

 ぎこちなく、今にも落としてしまいそうな程不器用な手つきだが、カストルは何とか赤子を抱いた。


 ……小さい。少し力を入れたら壊れてしまいそうだ。

 きっと居心地は良くないはずなのに、それでも赤子は泣くことなく、こちらを真っ直ぐに見つめている。そうして、再びこちらに手を伸ばしてきた。


 今にも触れられそうな距離に、赤子の小さな手がある。カストルは他人から触れられることが苦手だった。だが、その手は何故かそれほど不快ではない。

 赤子相手だからか?それとも……。


 不思議に思っていると、赤子が腕の中で小さく微笑み、口を開いた。

「いぇあぁ」

「……え?」

 思わずそう聞き返すような声を漏らしたが、赤子は笑ってばかりでもう何も言わなかった。


 赤子が何を言ったのか、そもそも意味のある言葉を発したのかさえ分からなかったが、その嬉しそうな声と笑顔に、カストルは自分の中で何かが動いたのを感じた。

 それは、蝋燭の炎のように淡い光だったが、きっとやがて大きな光となっていくのだろうと、確信できるような強さを帯びていた。


 後の惨劇の中心となる半端者の王と、氷の王女の物語は、こうして雪解けと共に始まったのだった。

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あなたに会いたい 〜忘れられない人〜 早沙希貴志 @HYT1607

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