プロローグ①


 春の初めに生まれたその赤子は、自分が異世界に転生したと気付くまでに数分かかった。


 彼女が覚えている中で1番最後の記憶は、銀色の髪をした男に誘拐されて、女としての尊厳も人としての尊厳も奪われた、結愛ゆあという少女だった頃の記憶。両親に再び出会うことを目標に耐え続けてきたが、最後には心が限界を迎え、男がいぬ間に割れた鏡の欠片で首を切り、自害した。

 そんな、16歳から20歳までの地獄のような4年間。


 あんなに会いたいと願っていた両親の顔は、今や朧げにしか覚えていない。けれど、誰よりも大切に、それこそ、目に入れても痛くないという程に可愛がってもらっていた、ということは憶えている。

 そして、自ら命を断つ決意をした際、自分が心の中で両親に謝っていたということを。


 そうして自ら命を断ったはずの自分が、再び目を開けて見たものは、ぼんやりとした視界の中で、人間らしき白い影がちらちらと動いている光景。

 彼女は一瞬、自害したと思ったのは夢で、自分は今もまだあの男の元にいるのか、と思いビクッと身体を震わせた。

 しかし、それはすぐに間違いだったと気が付いた。


「———…?」

 聞き覚えのない言葉と、明らかにあの男とは違う、幼い女の子の声。心配するような優しい声に聞こえるが、どこか怯えているようにも聞こえる。


 一体、どうなっているの?ここはどこ?

 そう尋ねようと口を開いたが、己の口から発せられた声に、彼女はひどく驚いた。

「ふぇえ…ぁ」

 か細く自らの耳に届いてきた声は、まるで赤ん坊の泣き声のよう。尋ねようとしていた思いは言葉にならず、泣いているかのような声になっただけだった。


 どうして……?一体何が起こっているの?

 周辺の様子を確認しようと身体を動かした。…いや、正確には身体を動かそうと“意識”した。だが、彼女の身体は思うように動かず、ただモゾモゾと揺れるように動くのみだった。


 まさか……。

 いや、そんな、あり得ない。

 小説や漫画じゃあるまいし、そんなことがあるわけ……。

 そうだ、きっと声に力が足りなかったんだ。思えば最後にまともに人と会話をしたのは、男に誘拐されて口を塞がれる少し前だった。ほとんど4年間口を塞がれ、叫んだら殺すと脅されていたのだから、上手く声が出なくても仕方がない。


 そう思い、彼女は努めて目一杯声を張り上げた。

「っあぁあ!!」

 しかし、やはり発せられたのは、意味のある言葉ではなく、赤子の泣き声。


 彼女は、それでようやく確信した。

 自分は、生まれ変わったのだと。

 どこかは分からないが、少なくとも今まで学んできた言語や常識が、全くと言っていい程通じない、この世界に。


 彼女の目からは涙が滲み、彼女は文字通り赤子のように泣き叫んだ。こちらを覗き込んでいた幼子の影がビクッと震え、その後ろから幼子と同じ白い、大きな影が複数近づいてくる。

 だが、近づいてくる割にはどの影も赤子に手を伸ばすような様子がない。どうやら、泣き叫ぶ赤子を案じて様子を伺うことはあれど、どの影も赤子を抱き上げてあやしてやろうという気はないらしい。

 彼女は、恐怖と悲しみの想いを込めて、さらに泣き叫んだ。


 怖い……怖いよ。

 知らない大人達に囲まれて、見下ろされて、言葉も分からないから自分がこれからどうなるのか、自分が今どこにいるのかも分からない。

 そして何より、その気持ちを言葉にして助けを求めたいのに、ただ泣くことしかできなくなってしまった自分自身が、情けなくて悲しい。

 ……これは、罰なの?

 あんなにも愛してくれた両親を裏切って、自らを断つ決断をしてしまった私への、天罰?

 味方のいないこの世界で、孤独に生きろと、神は言うの?


 その時、扉が勢いよく開く大きな音と共に、男の低い声が部屋の中に響き渡る。

「—————?」

 何を言っているのかは分からないが、その声色はまるで怒っているようで、彼女は思わずビクッと身体を震わせた。

 声の主は、白い影をかき分けるようにして彼女の元へ近づくと、こちらの顔を覗き込んでくる。その顔はやはりぼんやりとしか見えないが、その“色”に、彼女の涙はピタッと止まった。


 こちらを覗く男の影の色は、黒。

 この世界で初めて見るが、彼女にとってはよく見慣れた色だった。

 彼女が生きていた世界では、黒髪か茶髪の人間がほとんどで、高齢者や自ら望んで染めた者でもない限り、白髪はあまりいなかった。


 彼女はその黒い影に、必死で手を伸ばす。

 先ほど怒るような声で話していたこの男に縋っても、答えてくれないかもしれないが、それでも、何かに助けを求めなければ、悲しくて寂しくて仕方がなかったのだ。

 男の影は突然伸ばされた手に驚いたのか、怯えるように震えて後ずさったが、彼女は構わず手を伸ばす。

 伝わらないとは分かっているが、心の中で叫んだ。


 ——お願い、逃げないで、助けてっ……!!


 男はしばらくじっと固まってこちらを見ていたが、ゆっくりと、恐る恐るこちらに手を伸ばし、ぎこちない手つきで彼女を横抱きした。

 その容姿はやはりぼんやりとしてよく見えないが、抱き上げられたことで男の顔が近くなり、わずかに光る瞳の色が見えた。


 右目は眼帯でもしているのか隠されているが、こちらを見つめてくる左目の瞳は、赤。黒色か茶色がほとんどだった元の世界の人とは違う、赤目だ。

 その色を見て、彼女はふと元の世界での母親のことを思い出した。


 母は幼い頃から、薔薇の花が好きだった。特に赤い薔薇を好んでいて、父からのぷれ前とも赤薔薇の花束であったし、家の庭には様々な色の薔薇を植えていた。

 そんな母の影響で、彼女も赤い薔薇が好きだった。 


 暗い影の中、左目しか見えないその赤い瞳は、まるで夜闇に咲く1輪の薔薇のようだった。

 ……とても、美しいものだと思った。


 彼女は小さな手を伸ばして、ニコッと微笑む。

「いぇあぁ」


 ——綺麗だね。


 そう言いたかった彼女だったが、やはりそれは言葉にはならなかった。

 それでも必死に手を伸ばし、精一杯の笑顔を見せる。

 誰もがただ見ているだけで、私の声に気づいてくれなかった。そんな中で、唯一私を気にかけて、抱き上げてくれたこの人。

 何も分からないこの世界に生まれて、不安に押しつぶされそうになった彼女にとって、その手は何よりの救いだった。


 レヴィン王国の王室の新たな王女にして先祖返りのオフィーリア・レヴィンは、こうして生まれたのだった。




「殿下、こちらに署名を……」

 大臣から呼び止められて男は足を止めると、怯えた様子で差し出された書面をチラッと見やり、胸ポケットから万年筆を手に取り、“カストル・H・レヴィン”と自身の名を書き込んだ。


 署名をもらった大臣は、半ば早口で「ありがとうございます」と告げると、逃げるようにそそくさと立ち去っていく。その背中を見送りながら、カストル・レヴィンはふん、と嘲笑うように鼻を鳴らした。


 あんなに怯える程、まだ俺が恐ろしいのか。

 そう考えたが、口にするのはやめた。

 今に始まったことではない。この街に住む人間が、俺に恐怖を抱くのはいつものことだ。

 そう考え直すと、カストルは止めていた足を進めて、長い渡り廊下を再び歩き始める。その手に数冊の本と書類を抱え、誰にも聞こえないような小さなため息を溢す彼は、これからトレゾール宮の自分の部屋へ戻る最中だった。


 腰まで長い、伸ばしっぱなしの黒髪。顔の右半分を覆い隠す程の大きな黒の眼帯。この街で忌み嫌われる赤い左目と、その上にかかる大きな刀傷の跡。全身を黒の衣装で包み、春先だと言うのに床につくほど長い黒のマントを身に纏った彼は、この王宮内で最も“魔族”という種族に近いと言われている者だった。


 王族の誰とも違う色を持っている彼は、“安全”のために、国王の住まうロワ宮からも、王子が住まうプランス宮や王女の住まうプランセス宮とも離れた、このトレゾール宮で暮らしている。

 “安全”といっても、それは決してカストル本人の安全のためではない。魔族に近い彼から、周囲を守るためだと、彼は知っていた。


 この街では、彼のように黒や赤の色を持つ者は忌み嫌われ、恐れられている。特に赤い瞳を持つ者は、ここテオスの街から遠く離れたディアヴォロスに追放されたり、国外に奴隷として売られたり、テオスの外の孤児院に送られることが多い。そんな中でカストルだけが今だに追放されず、今もこのテオスの街にいる。その理由だけは、彼にもよく分かっていなかった。


 だが、別に関係ない。


 カストルは、この王室での自分の立場に対して不満を抱いたことはあまりなかった。

 カストル・レヴィン第1王子。彼は現王エドアルドゥスと、元第1王妃であるソフィアとの間に生まれた、エドアルドゥスの最初の子供だった。だが、彼の容姿が魔族に近いこと、またソフィア妃が後ろ盾の何もない平民の出であったことから、彼は次期国王候補から外れた。その代わりに、彼が生まれた同じ年に当時の第2王妃シャーロットが産んだ、カストルの異母弟にあたるポリュデウケス第2王子が王太子として立太子されたのだ。

 だが、ポリュデウケスは剣の腕においても学問においても、異母兄であるカストルより劣っていた。そのために、本来ならば王位に就ける20歳となった今でも、ポリュデウケスは王太子のままである。


 その上エドアルドゥス王は2年前に落馬して頭を打ち、それ以来痴呆が入るようになってしまった。カストルを産んで数日後に死んだというソフィア妃がまだ生きていると思い込んで城中を探し回ったり、ポリュデウケスやカストルを、犬猿の仲であった自身の弟と勘違いして「くたばれ」と罵ったり、ひどい時は物を投げつけてくることもあった。

 症状はまばらで時々まともに仕事をしている時もあるが、それでも精神的に不安定であることは変わらない。なので執務のほとんどはカストルとポリュデウケスが担っていた。


 だが、それに対してカストルは対して不満は抱いていなかった。仕事量が多いことを除けば。


 俺はただ、己が生き延びるためだけに、ただ淡々と仕事をこなすだけだ。冷たく残酷な社交界で、己の立場を守るためにたったひとりの魔族の王子を貶して、そうやって結束を強めて生きている連中と同じように。

 所詮人間は、ひとりだ。恐れながら俺を育てた乳母も、俺から隠れるようにしてトレゾール宮で働く使用人や侍女たちも、どんなに俺が恐ろしくても、己の利益のためだけに動いているのだ。

 ならば俺も、たとえ誰からも求められずとも、ひとりで生きていくのだ。


 カストルがただ無心で仕事をするのは、そのためだった。

 王の仕事を代行する報酬として、カストルは相応の収益を得ている。またそれ以外でも、カストルが個人的に行なっている仕事があり、そちらでも安定した収益を得ていた。彼はそれがある程度貯まったら、この街を出て小さな土地を買い、そこで静かに暮らすつもりでいたのだ。


 こんな、真冬の夜のように冷たく、深海のように息苦しく身動きの取れない王室に、いつまでも固執する気はない。

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