きみは。

「犬飼さんこれ担当お願いします。」「はい、置いといて。」「今日の新人研修もお願いします。」

あれから何度も季節が変わった。紫苑はバイト生活を脱却すべく、一度は失敗した就活に再び熱を入れた。あの頃の陰気臭い態度が駄目だったのか何なのか、驚くほどの手のひら返しで、企業は紫苑を雇った。前までは苦手だった、人との会話を克服すべく少しずつだが喋るように努力した。努力は実るもので、気付けば周りに人が自然と集まっていた。

人はこんなに変わるのか、と紫苑は思う。そしてそれと同時に少しの胸の痛みも覚える。

桃色の目に金髪の、あの愛おしい人。

兎田くんは今どこに居るのだろうか。あの屋上で会った日以降、兎田くんと会う事はおろか、連絡を取る事もなかった。最初の頃はまだ自分を認められなかったという理由もある。けれど、自分が変わったと実感して、認められるようになってからも連絡を取る事は控えていた。

理由は簡単だった。

怖かったからだ。あの約束を忘れていたらどうしよう。新しく恋人を作っていたらどうしよう。

そんな不安が押し寄せてきて、どうしても連絡するのを躊躇ってしまうのだ。

紫苑はスマホを見てから、はぁとため息をつく。

仕事は山積みだ。兎田くんの事を考えるのはあとで、と切り替えて仕事へと戻る。


「犬飼さん、研修いきましょー。」「あ、はい。」

大体終わらせたい仕事は時間内に終わらせることが出来た。これもきっと今までの紫苑では考えられなかった事だ。

これを兎田くんが見たらどう思うだろう。すごいですね、と褒めてくれるだろうか。

そんな甘い考えの自分を鼻で笑う。隣で歩いていた同僚の遠藤さんがどうしたんですか、と聞いてくるから、なんでもないです、とはぐらかした。

自分からは兎田くんにコンタクトを取れないな、と思う。そこまでの勇気は紫苑にはなかった。

向こうから現れてくれればいいのに、なんてまたまた甘い事を考える自分に呆れながら研修室のドアを開けた。

「…え。」「どうしましたー?」「いや何でもない…っ、」

会社だと言うのに涙が溢れそうになる。100人ほどいる新入社員たち。部屋の窓の近くにいる、その中の一人が紫苑の目を捕らえて離さない。何故ここに…?

髪の毛は就活のために染めたのだろうか。けれど、紫苑が焦がれてやまなかった桃色の目は変わっていなかった。コンタクトではなくあれは元々の色だなんてことを今更思い出す。

「…それでは新入社員の研修を始めます。堅くならず、リラックスして聞いてください。」

声が震えないよう、精一杯努める。目の前の状況が信じられなかった。

先ほどの願いが叶ったのだろうか。喜びに高鳴る鼓動を紫苑は抑えた。

またあの不安が襲ってくる。ちらりと本人の方へ目をやり紫苑は顔が青くなった。

あの薬指の指輪は何だ。ファッションだろうか。でも随分と手の込んでいる指輪だ。

思考がぐるぐる回っていく。

「犬飼さん?」「あぁ、えっとなんの話をしていましたっけ。」

心の中の自分が紫苑を呼び戻す。いや、実際は遠藤さんだが。

折角久しぶりに会えたのに、かっこ悪い所を見せたくない。紫苑はさっと切り替えて準備してきたものを配っていく。敢えて部屋の右奥は見ないようにした。



「…これで研修を終わります。質問があれば三階の私のデスクまで来てください。」

気付けば研修は終わっていた。満場の拍手を聞く限り、成功したようで安心する。

本当は片付けをしなければいけないが、ここにいると余計な事を考えそうだ。

「すいません、用事があるので先に戻っててもいいですか。」「了解、デスクに戻ります?」「そうですね。」

片付け、お願いしますと頼めば快く了承してくれる。同僚の中でも気さくに接してくれる遠藤さんは紫苑に甘い所がある。口下手な紫苑でも話しやすい人なので、社内で一番仲が良いと言っても過言ではなかった。

研修室を出てエレベーターへと向かう。敢えて先程の事は考えないようにした。

エレベーターホールへ着き、ボタンを押す。エレベーターは今出発したようで、ついてないなと紫苑がため息を吐いた時。

「犬飼さん!!!!!」「…っ!」

今しがた紫苑が歩いてきた方向から聞き慣れた声がする。 喜んでいいのか分からなくて紫苑はそちらを見れなかった。

「犬飼さんてば!!!!」「…久しぶり、兎田くん。」

社内でこれ以上名前を呼ばれても困る。目立つのが得意ではない紫苑は渋々兎田くんの方を向いた。

「っ、お久しぶりです。なんでここに、」「…それはこっちの台詞。」

誰にもこの会社に勤めている事を言っていないのに。

「…あー、そういう事か。あのバカ先輩…。」「ちゃんと説明して?」

何か悟ったように兎田くんは頭をがしがしと掻く。

「犬飼さんがここに勤めてるのは知ってました。」「え?」「僕の大学の先輩がここ勤めてて。ていうか遠藤さんなんですけど。」「…あー。」「でもどこ配属かは聞いてなくて、社内で会えたらラッキーって感じだったんです。」

にか、と頭の中で笑う遠藤さんを紫苑はジト目で追い払った。

「…今日会えて嬉しいです。ていうか犬飼さん、髪結んでるんですね。前までマッシュだったのに。」「ちょっと長いからね。」「すげー似合ってます。」「…ありがと。」

いつでもまっすぐに自分の気持ちをぶつけてくる兎田くん。本当に変わってないな、とくすぐったい気持ちを抑えた。この人、彼女がいるかもしれないんだ。見てはいけないのに紫苑の目線は兎田くんの薬指へ向かう。

「これ、気になります?」「…おめでと。」

するりとリングに触る兎田くん。あぁ、否定しないのか。

どうしようもなかった。こういう事があるなんて昔の自分は思わなかっただろう。主人公ぶっていたから。

けれど現実はこれだ。ぼそりと呟いた、思ってもいない祝福以外にかける言葉が見つからなかった。

「…あの、犬飼さん。前にしてた約束の話なんですけど。」「…なに。」

破棄しようとでも言われるのだろうか。どう反応すればいいのか紫苑は分からなかった。

「もう待ちくたびれたので容赦なくいきますね。」「え?」

固まる紫苑の前に兎田くんがゆっくり跪く。

「好きです、犬飼さん。結婚してください。」「…は?」

結婚できないでしょ、とかなんでエレベーターホールの前でやるのとか。

言う事は一杯あった。

けれど紫苑はそれどころでは無かった。ぱかりと開かれた箱の中には綺麗な指輪が入っている。そのデザインが、兎田くんの薬指にはまっているものと同じという事に気付いてしまえば、堪えていた涙が思わず溢れた。視界が霞んで何も見えなくなる。

兎田くんは誰かと付き合ったりしていなかった。ただひたすらに、紫苑を待っていたのだ。

目の前のこの人が本当に好きだと思った。

「もう自分を許せました?」「…っ、うん。」

優しく聞いてくれる兎田くん。涙が止まらなかった。

「結婚してください、俺と。」「法律的に無理でしょ。」「形はどうでもいいんです。ただあなたと一緒に居たいだけなんですから。」「…あーもう。」

本当に気障な人。この人には一生敵わない。

紫苑へ差し出された指輪の箱を受け取る。え、あ、と驚く兎田くんに微笑んでみせた。

「喜んで。」

その瞬間拍手と歓声が湧き起こる。ここがどこかを思い出して我に返った紫苑達の周りにはものすごい数の人が集まっており、思わず顔が青くなる。

「えっ。」「おーれおん、上手くいったかー?」「遠藤さん言ってくださいよーほんとに。」

群衆の中から遠藤さんが出てくる。兎田くんは立ち上がって怒った顔を作ってみせた。

「あ、あと。」

そうだ、と紫苑の手を引く兎田くん。その手に指輪をはめると、遠藤さんに見せる。

「指輪見せて欲しい、っていうから持ってきました。こういう見せ方でいいですか?」「…惚気第一号食らったわ。」

幸せにな、と笑う遠藤さん。この人には後で個人情報の大切さを教えてやる必要がありそうだ。

遠藤さんが近づいてきたのを引き金に、集まっていた同期などがこちらへやって来る。

「よかったねうちの会社、社内恋愛オッケーで~!」「お相手新入社員さんって事は、出会いはここ来る前…って事だよね!?」

お幸せにね!!とやけに気合の入った女性陣に気圧されながら紫苑はふと気付いた。

この胸のあたたかい感情がきっと恋であり、愛なのだと。

かちりと歯車がかみ合ったかのように、兎田くんといると安心する。

和音の時は、紫苑は時計だった。和音という歯車がないと動かない時計。

けれど今は違う。

確かに兎田くんは歯車だ。けれど。紫苑だって歯車なのだ。

二人とも公平に歯車で、自分一人だけでも回る事が出来る。その上で、兎田くんがいるともっと上手く動くのだ。

幸せの中、紫苑はこっそり呟いた。

「…きみは歯車。」

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きみは歯車 @kasyou_0309

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