約束
心地よい風が紫苑の傍を通り過ぎていく。紫苑は、ほぅ、とため息をもらした。
ここの屋上は、和音とよく来たものだ。紫苑はすぐ下の階に戻りたがったが、和音がいつももう少し、と強請っていた。
けれどもうそれは終わった話だ。紫苑はゆっくりと屋上の真ん中へと踏み出した。
あれだけ思い悩んで、苦しんだ話はあっさりと終わってしまった。
もう、紫苑は自由だ。あの黒くて汚い感情は浄化されていったのだから。
ならば、紫苑がする事は一つだ。
柵に手をかけた瞬間。
「…犬飼さん?」「え?」
聞き覚えのある声。低くて少し掠れた、でも優しくて甘い声。
「兎田くん?」
後ろを向けば、驚いた顔の兎田くんが屋上のドアの前に立っていた。
数日ぶりに会う兎田くんは相変わらずの様子だ。
紫苑はぱっと柵から手を離した。
「…久しぶりですね。何してたんです?」「…まぁ。兎田くんは?」
はぐらかして逆に質問すると、兎田くんは少し気まずそうな顔をした。
「…犬飼さんがここにいるかなって思って来たら、本当に居たからびっくりしちゃいました。」
はは、と空笑いをする兎田くん。
「…僕は、和音と一緒につけた南京錠を取りに来た。」
右から二本目の柵に引っかかっている銀色のそれ。それは、当時幸せの絶頂にいた紫苑がつけたい、と強請ったものだった。
けれど今からすれば、それは偽りの塊でしかなかった。あの時隣で笑っていた和音は偽物なのだから。
「…焦りました。自殺でもするんじゃないか、って。」「ふふ、なわけないでしょ。」
よいしょ、としゃがんだ紫苑はいつか兎田くんに渡したお守りを取り出した。別れるとき、兎田くんにお願いして返してもらったものだった。お守りの封を解くとそこには銀色の鍵。
兎田くんが近づいてくる音が背後からする。紫苑は敢えて素知らぬ顔をした。
「…それ取るって事は。」「うん。振られた。というよりかは僕の気持ちが冷めたかな。」
なんでですか、と兎田くんが驚く。
「あれだけ好きだったのに…。」「僕が好きで、依存して、追いかけてたのは、偶像に過ぎなかったんだ。美化した過去に縋ってただけ。」
もう終わったこと。
紫苑は呟きながら自分で納得する。もう、和音に道端で会っても他人だと思える。
「吹っ切れるってこんなにあっさり行くんだね。」「はは、どの口が言ってるんですか。」
過去に敢えて触れる。けれど、お互い大事なことは口に出さない。
二人とも意図的に避けていた。
鍵を取り外し終えた紫苑は、立ち上がって兎田くんの隣に並ぶ。
夏の夕方。まだ本格的な夏ではないから夕方になれば涼しい風が吹く。
この時間が紫苑は好きだった。そしてこの時間を隣で過ごしているのが兎田くんである事が嬉しかった。
「…あの。」「うん?」「今、好きな人は居ないんですか?」
余りにも真面目な顔で聞いてくるものだから、紫苑は思わず笑ってしまった。
「あのね、数日で好きな人が出来るほど、僕ちょろくないからね?あと和音と話してきたの今日だし。」「じゃあ居ないってことですよね?」「…。」
真剣な顔の兎田くんの問いに、紫苑は頷くのを躊躇った。
この後の言葉を、紫苑は知っている。知っているからこそ迷うのだ。
けれど悩んでいる間に、無言は肯定と受け取った兎田くんが口を開いた。
「犬飼さん、もう1度俺とやり直しませんか。」「…っ。」
「俺はどうしてもあなたが好きです。あなたが昔住んでいた所の屋上に探しに来るくらい。忘れられないんです。」「…そっか。」「っ、駄目ですか?」
あれだけ酷く振り回しても紫苑をまだ好きだと言ってくれる。紫苑は、幸せ者だ、と思った。
「…ごめん、無理。」「俺の事、もう嫌いになりました?」「…違う。」
紫苑は幸せ者だ。でも、自分のした行動の責任は取らなければいけなかった。
「…僕は、自分の都合で君を振り回した挙句、振った。」「それでもいいって、俺が言ってるんです。」「僕が許せない。」
振り回してごめん、と呟く。
嫌いになったわけがない。正直、イエスと言いたい。けれど、一度しっかりと解放してあげる必要があった。
「じゃあ、待ってていいですか。」「っ、」「犬飼さんが自分自身を許せるようになるまで、待ってていいですか。」
どれだけ健気なんだと言いたくなる。紫苑の目から涙が溢れた。
「…うん。待ってて。僕が大人になるまで。」
いいですよ、とにっこり笑う兎田くん。この人を幸せにしてあげたい、と心から思った。これは和音の時には思えなかった事だった。
これが依存と愛の差かと思う。もっと早くに気づけばこんな事にはならなかった。
けれどもう悔やんでも遅い。
自分自身が兎田くんにふさわしくなるよう、頑張ろうと紫苑は心の中で誓う。
「…ありがとう。」
心地よい風が2人を包み込んで過ぎていく。
紫苑は、兎田くんに優しく微笑んだ。
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