遺髪
長年入院していた大叔母が亡くなった。
わたしが子供心に覚えている大叔母は、いつもきちんとしたブラウスとスカート姿に、ローヒールのパンプスを履いていて、行儀に厳しくて、習い事に忙しいハッキリした性格の人だった。
早くに父が他界した母子家庭だった我が家。
看護師の母を手助けするため、比較的近くに一人で住んでいた大叔母はよく泊まりで訪問していた。
大叔母は、母の代わりに汚れた鍋を磨き、買い物をして、庭の手入れをして、家を隅々まで掃除し、わたしたち姉妹の勉強をみて遊んでくれた。夜には、母に付き合ってお酒を嗜みながら話し相手になる。
コーヒーが好きでよく飲んでいた大叔母は、甘やかしてはくれない代わりに、どんなに小さなことでも見逃さずに褒めるべきところは、きちんと褒めてくれた。
だから、わたしは大叔母が好きだった。
「あれ、おばちゃん、また来てるよ」
ある時から、訪問する前には必ず電話で連絡していた大叔母が、連絡なしで突然現れるようになった。
わたし達が帰宅すると、数日前に帰ったばかりの大叔母が玄関で所存なげに待っているのだ。
そして、前は習い事があるからと、さっさと引き上げていったのだが、なかなか帰らない。
家事をするでも勉強を見てくれるでもなく、同じことを何度も聞いて、ぼんやりするかして日に何杯もコーヒーを飲んでいる。
さすがの母もおかしいと気付き、大叔母の直系の親類に連絡を入れたが、親類は気のせいじゃないのと言って動こうとしなかったそうだ。
母は何度もしつこく連絡を入れた。それで、やっと親類は大叔母を迎えに来たらしい。大叔母は抵抗したが、親類はなんとか連れ帰り、知り合いが経営する地元の病院で診てもらった。
若年性アルツハイマー。
それが、大叔母に下された病名だった。
入院するにあたり、大叔母が住んでいた家に荷物を取りにきた親類は家の荒れ様に吃驚したのだという。
結郵便受けははち切れんばかりにチラシが詰まり、冷蔵庫の中身は腐敗し、洗濯物は異臭を放っていた。庭の草は伸び放題で、部屋は埃だらけだったらしい。
あんなにしっかり者だった大叔母は、いつからかわからないが、自分の家に帰っていなかったらしいのだ。
そう言われてみれば、頻繁に来るようになっていた大叔母は、いつも同じ恰好をしていて、パンプスはボロボロに磨り減っていたのである。
着替えや身の回りの品を入れて持参していた小ぶりのボストンバッグすら持っていない。
お風呂がやけに速くて、パジャマを出しても着ないことも多々あった。そのまんまの恰好で横になっていたことを思い出す。もしかしたら、大叔母は、お風呂に入れなかったのかもしれないと思い至る。着替える事もできなかったのかもしれない。
それなのに、そんな状態になってまで、わたし達の家には来れたのだ。
わたし達の家で騒がしい子どもたちに囲まれて、しっかり者の母がいて、大叔母にとって我が家だけが唯一、自分の存在がある場所、だったのかもしれない。
長女だったわたしは、大叔母に一番目にかけてもらっていたし、わたしも大叔母が好きだったが、大叔母がボケた入院したと聞いて不憫に思ったり、目の前の自分のことはとりあえずさておいて、夏休みや春休みになったらお見舞いに行かなきゃなどと必然性に駆られたりすることに思い至らないくらいには無関心で幼稚だった。
大叔母は、わたしの住む町から遥か遠方にある精神病院に入院していたし、わたしは中学生活だの高校受験だのと忙しかったからと言い訳にしてしまえば、いかにももっともだが、ただ記憶が亡くなっていくだけで体が悪いわけでもないから、すぐ死ぬ訳でもないらしいと高を括ってもいた。なんせ、自分の周りの人間は親戚含めて当たり前に元気で、誰かが欠けるなんて殆どなく、ただ自分の視点を中心に毎日が回っているのだとなんとなく思っていて、その毎日には死などというものは言葉すら存在せず、死が絡んだ重く受け止めなければいけない事態にそれまでの人生で遭遇したことがなかったこともあり、人が特に身内の誰かが決定的に変化して損なわれていくなど想像もつかなかった。だから、もしかしたら、わたしは、どこかで楽観的に考えていたのかもしれない。
けれど、大叔母は、現実に、記憶を損ない亡くなってしまった。
大叔母は、終いには、食べ物や飲み物の分別ができなくなってしまい、石けんを食べたり、トイレの水を飲んだりと悲惨な状況だったらしい。
「それでも、ずーっと、あんたのことを話してたみたいよ。あんたのことを話す時だけは、しっかりした口調だったんだって・・」
それを母から聞いた時、わたしは初めて後悔した。
自分はなんて恩知らずで愚かな大姪なのだろうかと。
自業自得の悲観に暮れるわたしの横で、葬儀にあたって大叔母の棺に入れる副葬品をそちらで見繕って持ってきて欲しいと親類から依頼された母は「どうせ遺品整理とか面倒臭いことは近くに住んでいるこっちに押し付けてくる気でしょ」と忌々しそうに吐き捨てて舌打ちをした。
「あたしは、早くから連絡してたのに、すぐに迎えに来なかったのは、あっちなのにさ」文句を言いつつも大叔母の家に向かうという母に、わたしはくっ付いて行くことにした。
今更、そんなことをしたところで、なんの供養にもならないことはわかっていたが、もう無関心ではいられなかったのだ。
そうして、炎天下の中、母と二人、汗を拭いながら訪れた一軒家は、大叔母がかつて父の母である祖母、大叔母の妹と一緒に住んでいた家だった。
祖母が心臓発作で亡くなってからは大叔母が一人で住んでいた昔ながらの古い家。
小学生の時に家族で何度か泊まりに来たことがあったが、とにかく暗い家だったのを覚えている。
送られてきた鍵で家に入ると、記憶とあまり大差ない暗さが出迎えてくれた。庭の草木が伸び放題で、日光を遮っているので余計だ。
前に親類が来た時にゴミなどは捨てていたので異臭はなかったが、打ち捨てられた家特有の埃とカビの匂いがミルフィーユみたいに何層にも沈澱していた。中途半端な熱気が纏わり付いてくる。
ブレーカーを上げて電気をつけると、ソファーベッドと座卓だけの殺風景な居間と、ガランとした台所が目に入った。
こんなになんにもなかったかしらね、と母が首を傾げる。二人とも覚えていないのだ。
とにかく、二階へとあがる。息苦しい二階には畳の部屋が二間。琴が立てかけられ鏡台がある部屋と、箪笥と仏壇がある部屋だ。
閉め切った雨戸を開けて、わたしは鏡台を、母は箪笥を、めぼしい物を探して漁る。さながら泥棒だ。
「おばちゃん、こんな着物持ってたのねぇ」とか「スカーフも、こんなにたくさんあるのに、随分ケチケチ使ってたのね」とか「物持ちがいいなんて聞こえはいいけど、磨り減るまでパンプスを履いてるのはちょっとね」など母の独り言が聞こえる中、わたしは、口紅やコンパクトの下から、古い日記帳を発見した。
開くと、数枚の手紙と共に色褪せたお守り袋らしき小さな巾着が挟まっていた。
これは絶対大切なものだと直感した。
母が入れた数枚のブラウスとスカーフを入れた紙袋に、わたしは日記帳を素早く滑り込ませた。なんとなく、母に知らせて、中身をおおっぴらにすべきではないと、思ったのだ。
夕方帰宅してから、翌日に控えた葬儀のために喪服や香典を用意するのに忙殺される母の目を盗み、先程持ち帰った紙袋から例の日記帳を抜き取ったわたしは足音を忍ばせて自分の部屋に籠った。
それは、若かりし頃の大叔母の日記だった。
達筆な字は多少読みにくかったが、どうやら大叔母が誰かを慕う気持ちが書き綴られているようなのだ。
大叔母は生涯独身だった。
「こんなことになるなら意地なんか張らずに、とりあえず誰かと結婚しときゃよかったのにねぇ」と母が漏らしていた時に次いでに聞いたのだが、大叔母には若い頃から見合いの話などが何度も持ち上がっていたらしいが、ことごとく断ってきたのだという。
男嫌いなのだと推測されていた。そんな大叔母が、まさかの大恋愛をしていたらしいのだ。わたしは夢中になって日記を読み耽った。
読み終わった頃には、蜩の溶けるような高い鳴き声が、夜の気配を連れてきていた。
わたしは、夕飯と風呂を手早く済まして早目に横になったが、なかなか寝付けない。昼間の酷暑が残留しているからだけでなかった。あの大叔母が誰に言わなかった秘密、大叔母が亡くなった今になってつま開きにされた物語を知ってしまった興奮が、静かに満ちていたのだ。
日記に記されていたことは、紛うことなき真実だった。
大叔母は、それを生涯ひっそりと胸にしまって生きてきたのだろう。
夏の夜の裳裾は、繊細なレースのように、透明度が増す程に重い。
得体の知れない熱気と気配を纏った幾本もの手が、隙間なくびっしりと生えているようだ。
その手たちに抱かれて、わたしは、目を閉じ、そっと想像する。
大叔母は、若い頃、どんな女性だったのだろうか。夭折した大叔母のお相手の男性は、どんな人物だったのだろうかと。
セツが、その封書を受け取ったのは、菜種梅雨に煙る空から、柔らかな陽光が顔を出した、午後。
彼女は、家庭教師のアルバイトを午前中で終え、下宿先に帰宅したばかりだった。
封書は、国民学校の教師として来月から着任されたし、といった彼女が待ち望んだ内容だったのである。
首席で師範学校を卒業してから、約一年。
難航していた就職活動に終止符が打たれ、とうとう好機が訪れたのだ。
家庭教師などで凌いでいたが、それを憂えた母が、春までに本職の勤め先が決定しないようならば、実家に戻って見合いをすべきだと父に進言したため暗雲低迷の思いで過ごしていたセツは、打って変わり歓天喜地の心地であった。
一刻も早く両親に知らせねばと、彼女は封書を受け取ったその足で、郵便局へと向かったのである。
麗らかな陽射しが降り注ぎ、風光る街並。
空気中に残留する水蒸気に燻された、新芽と土の匂い、に、仄かにすっとした花びらの香りを、セツは感じた。
すかれた胸に清々した歓喜が込み上げてくるようで、足取りは自然、前傾し、徐々に小走りになっていく。
郵便局の手前にかかる橋にさしかかった時である。
有頂天外のセツは、つい注意を怠り、俯き加減で歩いてきた男性と衝突してしまった。
「申し訳ない!考え事をしていました!」
尻餅をついたセツを慌てて助け起こした相手は、軍服を着た軍人。それも、若い軍人だ。
セツは、いいえ、私のほうこそ、と目を伏せて謝る。
つい最近、飲み屋の前で、酔っぱらったチンピラと軍人がひと悶着起こし、軍人があっというまにチンピラを伸してしまった様子を目にしたセツは、軍人に畏怖の念を抱いていたのだ。
ところが、おや? と間の抜けた声が聞こえたので、セツは顔を上げざる負えなくなった。
すると、右頬に黒子を散らした覚えのある顔が、あっけにとられている。
この黒子は確か・・と、記憶を手繰ると、地元の北海道の片隅にある村の分教場で一緒に学んだ、幼馴染みだと判明したのである。
田舎で青っ洟を垂らしながら暴れ回っていたガキ大将の彼と、正義漢で鼻っ柱が強かったセツはよく喧嘩をしたものだった。卒業後、セツは親戚のいる東京に上京し、実家が農家だった彼は家の手伝いに入ったのだと噂で聞いた。よもやこんな東京の端っこに位置する辺鄙な場所で再会するとは、夢に思わなかったのだ。
彼は、すっかり垢抜け、背の高い立派な軍人になっていた。
「まさか、こんなところで、セっちゃんに会うなんて思ってもみませんでした」
真っ白い歯を惜しみなく見せて莞爾に笑う彼は、真新しい軍服がよく似合っている。
東風が、吹いて、セツの髪を、弄ぶ。
彼女は、思わず、目を伏せた。
動悸を抑えて、誰かと思いましたわ、と無理矢理澄ました態度を拵えた。随分と成長されましたのね、と他人行基の言葉が口から出る。
「軍隊に入って、こってり扱かれましたから。いつまでも、やんちゃなまんまでは、いられませんよ」
彼は、おかしそうに笑った。さもありなん。セツもすっかり変わったのだ。
ガリガリだった子どもの頃より、女性らしい丸みのある体つきへと変化し、癖っけだらけのおかっぱは伸びて、ふんわりと波打った髪は後ろで緩くまとめられている。化粧は紅を薄くひいただけだが、それでも彼女が元来持っている、きめ細かい透明感のある肌の白さが十二分に引き立っている。きりっとした細い目元がちょうどよく並んだ小作りの顔からは、凛とした意思の強さが漂い、それは容易に人を近づけぬ類いの冷たさすら漂っている。
「セっちゃんも、あまりに美人になったんで見違えてしまいました」
「また。そうやって、からかって」と、昔ならば手を振り上げるところだが、今の姿の彼に言われると逆に羞恥が勝ってしまう。
どんな言葉を紡ぐべきか考え倦ねたセツは、紅潮して俯いた。なぜ己は、挙動不審に陥っているのかが、不明だった。
ちらりと彼を盗み見るが、彼は目を細めて彼女を眺めているだけ。増々、セツの心は掻き乱されるばかりである。
「そんなに美人なら、いい人の一人や二人いるのでしょう。それとも、もうどなたかに嫁がれて?」
「いいえ。残念ながら、独り身ですわ。色恋ごとにかまけている時間があれば本でも読んでいるほうがマシですもの」
これは、嘘だった。
真実は、どんなにいい縁談が持ち込まれても、相手がセツに愛想を尽かせ、一方的に破棄されてしまうのである。
彼女の利発さに加えて、朴訥で考えていることを掴ませない性格が相手を辟易とさせるらしいのだ。女は女らしくあれ。彼らの誰もがそんなような言葉を口にしていた。女は、従順で慎ましやかで、あまり知識があり過ぎても、冷静過ぎてもいけない。あどけなく危なっかしく、思わず守ってあげたくなるような、それが女というものであると。
彼女は鼻白む。無論、その境地に達するまでには、泣き寝入りをすることも、苦々しい涙を飲み込まねばならないことも、多々あった。だが、己の持って産まれた性格は、いかんともし難い。
逆に、矜持を押し殺してまで相手に合わせねばならないのだろうか。私を否定して受け入れようともしない人達に、私がそこまでしなければいけないものなのかしら?
けれど、そんな疑問を抱いていても現実は、少なくとも世間一般の男は、彼女に女として失格なのだと烙印を押したのだ。
それは、事実。
でも、そんな悲しい事実を自ら口にしたくなどない。自分の言葉として出してしまったら最後、認めてしまうことになる。そうなると、立ち直れなくなりそうで。だから、見栄を張った。まだ、見栄を張れば、覆い隠せるくらいには大きくなっていないから。
「それはそうだ。俺も同感です。それにしても、もったいないですね。セっちゃんは、こんなにキレイなのに」
女ったらし、という単語が浮かんだ。そんなにポンポンと女が喜ぶ言葉を吐けるなんて、なんてこの人は手慣れているのだろうかと彼を訝しんだ。
セツの父は厳格な人であった。父が母を褒めるような言葉を言っているのを聞いた記憶はない。
父は、いつもむっつりと不機嫌そうに押し黙り、その時々の生活に必要な「飯」や「風呂」や「寝る」といった言葉と「ん」とか「おい」とか「あれ」などを発するのみだった。
男兄弟のいなかったセツは、幼心に、大人の男とはこういうものなのかと覚えたのだ。なので、目の前にいる彼が口にする彼女の容姿に対しての賛辞が、浮ついている言葉にしか聞こえなかった。
そんなこと、今まで彼女に女失格の烙印を押した人たちにだって言われたことはない。
激しく動揺している自分がいたが、嫌な気持ちでは、なかった。
「偏屈なんです。それより、あなたは、おモテになりそうなのに。どうしてかしら?」
「適当なだけですよ。俺は、従順でか弱い受け身になりたがる女性というものが、どうも苦手で」
「世の中の女性の八割が、そんな性格をしている女性だわ」
「だからです。彼女らは男に期待し過ぎているんだ。男を立ててその一歩後ろを歩いていれば、男が自分の幸せをくれるとでも思っているらしい。俺はそんな他力本願の女性は嫌なんです。セっちゃんみたいに自分の意見をハッキリと言って男とも対等に渡り合える。これからの時代の女性像は、そんな強く賢い女性だと思っています」
「そうは言っても、難しいわ・・そんな簡単に、時代は変わらないもの」
そんな素晴らしい時代になりさえすれば、自分は或は傷つくことはなかったのかもしれないと想像する。
「時代なんて風見鶏みたいにクルクル変わっていくものですよ。日本がこれからしようとしている無謀極まりない戦争は必ず時代を、いや時代だけでなく、日本そのものを変えてしまうことでしょう」
「それは・・負けが、見えていると、おっしゃっているのですか?」
震えながら問い掛けた彼女の揺れる視線から逃れるように、彼は横を向いて周りを見回した。
彼らが佇んでいる橋からは、春風駘蕩たる早春の景色が、広がる。
芽吹いた野草やつくしの衣を両岸に纏った川は、陽光を優しく反射させながら、ゆったりと流れていく。
「今年も、春が巡ってきたのですね」
気持ち良さそうに空を仰ぐ彼のその言葉が、いやに予感めいた響きを持って、彼女の胸に突き刺さった。
「なにを当たり前のことをおっしゃるの。生きていれば、春は毎年巡ってきますわ」むきになって言い返す。
「はははは。確かに。生きている限り、毎年、春は来るでしょうね」
「そうですわ。なにを今更」なにを今更、と繰り返した言葉は呟きよりも小さなものだった。
「では、どうですか、セっちゃん。毎年、俺と一緒に春を迎えてくれませんか?」
笑いながらそんな台詞を吐く彼を唖然と見つめたまま、セツは混乱した。うまい返しが出てこなかった。
「セっちゃんみたいな偏屈な娘さんには、俺みたいな適当な男がちょうどいいと思うのです」
「再会したばかりなのに、なんて勝手なことをおっしゃるの。揶揄うのはよしてちょうだい!」
セツがそう言うと、時間が問題ですか、と彼は少し考え込んだ。
「せめて、お付き合いからとするのが、自然じゃないかしら?」
「だが、そう考えると、見合いは不自然ということになりますね。写真で見ただけの相手と顔合わせして、下手したら顔合わせもせずに、すぐに婚礼に初夜だ。時間なんてほとんどありません」
「でも、再会したばかりの相手にいきなり求婚してくるなんて、なんだか常軌を逸しているようで・・」
「常軌なんて逸しちゃいませんよ。それじゃ、これならどうです? 俺が幼い頃からずっと、セっちゃんのことを慕っていたのだとしたら。白状すると、よくセっちゃんにちょっかいをかけていたのだって、そんな理由からですよ。そんな二人が、こうして邂逅しえた偶然は、見合いなんかよりよっぽどロマンがある」
もうセツの顔は、鬼灯のように真紅だった。こんなに熱烈に告白をされたことは、未だかつて一度もなかったからだ。
彼は、これでもかこれでもかと思いを畳掛けてきた。その情熱に、とうとうセツは降参し婚約を受け入れた。
「まいりましたわ。私はこの後、両親に就職と婚約の両方を報告しなければならないようです」
「では、お供仕りましょう。俺はたった今しがた、家族に出征の報告をしたばかりですので、セっちゃんと一緒に婚約の旨を知らせに戻ります」
セツは彼の言葉を聞いて、凍り付いた。彼は出兵するのだ。
彼は、軍人なのだから、戦地に行くのは当たり前のことだろう。だが、そのために自分との婚約を急いたのではなかろうかと訝しむ気持ちが湧いた。このまま、死にに行くような人と勢いに任せて婚約などしてもいいのだろうか、と懐疑の念がセツの胸を支配する。そのことを素直に伝えると、彼は当然ですねと笑った。
「セっちゃんに任せますよ。セっちゃんの人生を左右する重要な決定となることです。俺が言うのもなんですが、情に流されて安易な決定を下してはいけませんよ。後悔ほどバカげたものはありません」
そんな彼の言葉に甘えて、出征までの僅かな時間をセツの下宿先で共に過ごしながら、身の振り方を考えることとした。
軍服を脱いだ彼は相変わらずで、浴衣の前をまくって胡座をかきながら渋茶片手に読書している衒いない姿などを目にすると、恋慕の情というよりは、肉親に近い感情が湧いてきて戸惑うことが多々あった。では、私のこの感情はいったいなんなのかしら・・?
けれど、温和な彼の眼差しと笑み、愛情の迸る指先や言葉に、快然たる女の幸せを感じるのだった。
彼の胸に抱かれて聞くのは、下宿先の脇を流れる長閑な小川の、せせらぎ。
春和景明の中、花を浮かべて流れる、水の、音だ。
二人で川沿いを散歩する時には、どちらからともなく手を、繋ぐ。
彼の胼胝ができた武骨な手は、心が解れる温かさでセツの手を、包む。
小鳥が囀る穏やかな街並と彼女とを交互に眺めながら、彼は惜しむようにして、深い息を、つく。
「明日の行方は知らねども、忝さに涙こぼるる」
そんなことを口にするのだ。彼の眼差しは常に真っ直ぐだ。セツは迷っている自分が恥ずかしくなった。
「・・なにもあなたが、背負わなくともいいじゃないですか」
言ってしまってから、しまったと後悔した。これは非国民の言葉だ。同時に、彼の志を無視する言葉になってしまう。気まずくなって俯いたセツを、彼は振り返ると、俺を心配してくれているのですか? と笑顔で聞いた。
「だとしたら、心強い限りですね。俺は、そうしたら、セっちゃんに再び会うために、生きて帰ってこようと思えます。根性論じゃあないが、そのくらいの覚悟でもなけりゃ、この戦争は生き残れない、そんな気がするのです。いえ、怖じ気づいているんじゃありません。俺は、俺が産まれたこの祖国を、育ててくれた大切な人々を守る為に戦えることに誇りを持っています。だが、これは俺自身の賭けでもある」
彼は言葉を切って、暫しの沈黙を味わうようにぐっと黙り込んだ。
「もちろん、セっちゃんに他にいい人ができたら、俺のことは忘れて、遠慮なくそっちに行ってくれて構いません。セっちゃんの幸せが俺の願いでもありますから。けれど、そう考えると、やっぱり俺は、君を苦しませてしまうのではなかろうかと不安になります。そう。セっちゃんにとっても賭けになってしまうから・・」
眩しそうに目を細めた先、川縁に沿って薄紅色の花をつけた木々を見つけた彼は、桜かな、と呟いた。
「桃ですわ。花と同時に葉が出ていますもの」
「さすがセっちゃんは物知りですね」そう言って、桃の枝に手を伸ばす彼。
その大きな背中は、陽光に溶け入ってしまいそうに儚げに見え、セツはその背中に抱きつきたいという激しい衝動に駆られた。抱きついて、しがみついて、彼をこの時間に永遠に引き止め続けたいとさえ思った。
そうすれば、二人はいつまでも一緒にいられるのではないか。
ふと気付くと、桃の木が立ち並ぶ水面に映る、二人の、姿。
なだらかな水面下は、溜まっているのでは、ない。
確実に、水は流れている。
二人は、そんな時代の流れに、身を映しているのだ。
小石が投げ込まれでもすれば、水紋が起き、たちまち掻き消えてしまう、実体のない自分たち。けれど・・
強東風が、吹いた。
桃の花びらが、舞い散り、水面にふうわりと触れて流されていく。
セツは、願う。
このままずっと、消えてくれるな。
いつまでも・・
彼女は、祈りを込めた指先を、伸ばす。
だが、彼女の伸ばした手が触れる前に、彼が、もしも・・と切り出した。
「セっちゃんが俺を待っていてくれたなら、俺は、必ず、君を、幸せにしようと、思います」
彼はすっと振り返ると、莞爾に笑んで、セツのまとめた髪に桃の小枝を挿した。
「そのために、俺はなにがあろうとも生きて帰ってくるつもりです。抗って戦って、時代の激動を潜り抜けてやりますよ。なぜなら、人の生命は、使命を帯びはしても、不条理に消費されるものではない。俺はそう考えています。矛盾してますか? 或はそうかもしれません。でも、どうです。こんな自分善がりで酔狂な俺に、よければ付き合っていただけませんか?」
可憐な桃の花を髪に挿したセツの心は、決まっていた。
もう、彼の告白を拒否することは疎か、忘れることすらできそうにないのを悟った。彼女はとっくに恋に落ちていたのだ。
迷いは、ない。
赤面しながら頷いたセツを、彼は抱きしめる。
水面に写った二人が抱き合う姿は、桃の花に彩られ、涙が滲むほどに美しい。
セツは心に誓う。
私は、彼が帰ってくるのを、待っていよう・・
いつ、いつまでも・・
彼は、指輪の代わりと言ってはなんですが、と懐から小刀を出すと自分の髪を一房切りとった。セツも真似して、彼から渡された小刀で自分の髪を一房切り落とす。その髪をお互いに交換すると紙に包んで懐にしまった。
「これで、いつでも一緒です」と彼は懐に手をあてながら、翌日、戦地に赴いていった。
大国アメリカ相手の戦況は芳しくなかった。
連日、ラジオから伝えられる勝利の二文字が徐々に玉砕に置き換えられていくのを聞く度に、最早日本の頽勢を盛り返すことは難しいのだと知る。
そんな中、彼からの便りも間遠になり、最後に受け取った手紙に書かれた硫黄島着任の文字に、セツは不吉な予感が背中を伝うのを感じた。日本はそれまで、テニアン、グアム、ペリリュー、レイテ、ルソンと島での戦いではことごとく玉砕しているのだ。
もう・・ダメかもしれない・・
さすがの彼も死んでしまうかもしれない・・
季節は巡り、再び春が到来した。
セツは、子ども達を引率して、集団疎開へと赴く途中で、彼と歩いた川縁を一瞥する。
空襲を逃れた桃の木が、ひっそりと色付いていた。
また春を迎えている。けれど、彼は、いないのだ。
去年の春を思い出し、喉が詰まる。
こんなにも心を抉られるようなことが、あろうか。
どうして、あんなに純粋で優しい人が、戦争になど行かねばならなかったのだ。
誰にも、どこにも当てられない憤りで、時々気が狂いそうになる。こうしている間にも、彼は、死んでしまうかもしれない。
それなのに、自分はこんな山奥でひっそりと惨めに隠れて生きて、なんて浅ましいのだろう。
今すぐにでも、彼のところに飛んでいきたい。
どうせ、遅かれ早かれ死なねばならぬなら、彼と共に死にたいのだ。あの、大きくて温かい手に抱かれて、共に死にたいのだ。
けれど、それは叶わない願い。
彼女は、教師として、子どもらを守らねばならないのである。
生きて、子どもらを親元に返さねばならないのだ。自分勝手なことは、許されない。
セツは、震える手で彼への返事を書く。彼の手元に届くことを願い、疎開先で咲いていた桃の花を幾弁か同封する。
遠く鳴り響く空襲警報に怯えながら、息苦しい防空壕の中で、子ども達を庇いながら首から下げた小さな巾着に入った彼の髪を握りしめて無事を祈る日々は続く。彼女は、子どもたちと一緒になって山に入り僅かな食料を集めて、その日の命をなんとか繋ぎながらも、彼を偲び続けた。
やがて、戦争は、終わりを迎える。
子ども達を無事に、東京に送り届けたセツは、北海道の故郷に戻った。
東京大空襲で、下宿先は跡形もなく焼けてしまっていた。
生き残った兵士達がちらほら帰ってきた噂を聞くようになったが、彼女の村には誰一人帰ってこない。
彼の実家は、彼の両親が空襲で亡くなってしまったので空き家になっていたが、彼が帰還したら真っ先に戻るのはそこだろうと思い、セツは毎日のように彼の実家を見に行った。
そうして終戦から一年が経ち、二年が経ちしているうちに、とうとう彼の実家は取り壊されてしまった。
雨の日も雪の日も、セツは、彼の実家跡に通い続ける。
彼は、まだ帰ってこない。
それでも、セツは希望を捨てなかった。もしかしたら、怪我をしてどこかに入院しているかもしれないと、役場に問い合わせたり、上京して方々を訪ねて歩いたりもした。もしかしたら、お金がなくて、汽車に乗れずに困っているかもしれないと、駅に通い詰めてみたり、負傷兵が入院している病院を訪れたり、誰彼構わず聞いてまわったりもした。
けれど、彼の消息を知るものはない。
それでも諦めきれないセツは、もしかしたらシベリアに送られて辛酸を舐めているのかもしれないと、国に手紙を書いたりもした。どこかに彼の消息を知る手がかりがあるかもしれないと、望みを捨てなかった。彼が死んだなど、彼女には信じられなかったからだ。
あんなに純粋で強い意志を持った人が、悪意と欲に塗れた爆弾や、殺意のある弾丸に無慈悲に殺されるはずはない。
彼は記憶を失っているのかもしれない。誰かに助けられたのかもしれない。とにかくこの世界のどこかで生きていてくれるはず。『もしかしたら』を信じたかったし、強く信じていた。だからセツは、彼を探すことをやめなかった。
そうして臥薪嘗胆の日々を送ること幾星霜。
セツは、四十になっていた。
地元の分校で教職の仕事を続けてはいたが、長期の休みになれば、硫黄島の遺骨収集に参加する。体が動く限り続けるつもりだった。
けれど、ある晩、彼の夢を見たのだ。
彼が夢に出るのは初めてだった。
彼は、別れた時のままの若い姿で寂しそうに笑いながら手を振っている。
もういいよ、セっちゃん、もういいよ、と言っているかのようだった。
彼女はそんな彼に縋り付きたくて、手を伸ばすが届かないのだ。
彼は悲しげな笑みを貼付けたままで、ゆっくりと、遠ざかっていく。
彼の名前を叫びながら飛び起きたセツは、彼は永遠に逝ってしまったのだということを直感的に悟り、泣き伏した。
肌身離さず首から下げていた彼の髪を納めた巾着が、彼女の慟哭の涙でゆっくりと濡れていった・・
大叔母の納棺式は、簡素なものだった。
叔父叔母や母は、形式的なことを終わらせて大叔母を棺に納めた後は、早々に隣室に引き上げ、大叔母の家の処分や遺品整理をどうするのか相談を始めた。
わたしは一人、まだ蓋をされていない棺に副葬品を入れていた。
かつての面影が思い出せないくらいに痩せさらばえた骸骨のような大叔母を見ていると涙が溢れた。
わたしは、目元を擦りながら、合掌した大叔母の手元にそっと例の日記を添える。それから、少し迷って、納棺師に大叔母の髪の毛を少し切ってもいいですか? と聞いた。納棺師は大丈夫ですよとハサミを渡してきたので、大叔母の髪を少し切って、日記に挟まっていた例の巾着の中に入れた。
巾着の中には、婚約者のものと思しき髪の毛が入っていたのだ。そんな二人の髪が入った巾着をどうするのが正解なのか、考え倦ねた末、大叔母の首からかけた。
「これで、きっと、大好きな人に会えるね・・」
アルツハイマーや認知症の人は、自分の人生の中で一番、輝かしかった頃や充実していた頃に記憶が帰ると言われる。
大叔母は、最期まで恋人のことを覚えていただろうか?
わたしのことを言っていたらしいから、わたしのことは、覚えていたのだろう。どうして、わたしだったのだろうと疑問は残る。確かにわたしは、大叔母が好きで慕っていた。手紙もやり取りして、大叔母が帰る時には寂しくて泣きさえしていた。そんなわたしに対して、大叔母は、愛情を持ってくれていたのだろう。入院しても見舞いにすら行かなかった不義理な大姪だったのに拘らず。心底申し訳なくなった。
ごめんね・・おばちゃん・・
わたしが聞いたら、大叔母は硫黄島に散った恋人のことを、話してくれたかもしれない。
雪のひとひらのように儚く溶けて消えていった大叔母の記憶で、最期まで残った中に、大叔母の恋人がいて欲しかった。
けれど、それは酷なことなのかもしれない。
大叔母が経験した戦争は、わたしのような当たり前に平和を享受して生きている小娘には到底想像できないほどの目を覆いたくなる程の凄惨さがあったのだろうから。その記憶を呼び起こし、その中に再び身を置くというのは、トラウマを想起するのと同じではないか。
恋人と過ごした時間が数週間しかなかった大叔母にとっては、月や夕焼けに恋人の安否を慮っている時間のほうが遥かに長かっただろう。生きて帰れるかすら怪しい人を、胸を痛めながら待ち続けたその時間は、決して楽しみなものではなかったはずだ。
納棺が終わり、告別も済み、火葬場で骨揚げを待つ間も、わたしは、大叔母が胸に秘めた恋のことを考え続けた。
よく冷えた会葬者控え室の窓からは、夏の日差しに透ける葉が重なりあってチラチラ光っている。油蝉の力強い鳴き声が途切れながら聞こえていた。よくある夏の午後だ。
何十年前かのこんな夏の日に、大叔母は終戦の放送を聞いたのだろう。
そこから、いったいどんな思いで、待てども待てども帰ってこない婚約者を、たった一人で、ずっと探し求めていたのだろうかと、考えるだけで切なくなってくる。
大叔母が独身を貫いたのも、その婚約者を思っていたからに他ならない。
なんて一途で、なんて美しいのだろう。正真正銘の純愛だ。
わたしは、地味な大叔母の服装や、厳しい中にもどこか寂しげな笑顔を思い出した。大叔母は、一人ぼっちでも、彼への愛を胸にしっかりと生きていたのだ。自立した強い女だった大叔母は、もしかしたら婚約者のためにそうあったのかもしれない。
だとしたら、有終の美ではないか。
考えれば考える程、大叔母の婚約者への愛情を感じずにはいられなかった。
ああ、もし本当に、あの世というものがあるのなら、今頃、二人は会えたのだろうか。そうであって欲しい。
どうか、二人が再会できますように・・!
二人の事情を唯一知っているわたしは、二人のために強く祈らずにはいられなかった。
家族の形 御伽話ぬゑ @nogi-uyou
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