枕花


 目の前がチカチカして一瞬、意識が飛んだ。

 脳震盪を起こしたらしいとわかった。

 床には、踏み躙られた白い菊の花。

 結婚して半年。怒った夫が歩み寄り、圧倒的な力で首根っこを押さえ付けられて扉に叩き付けるように吊るされるまで、私は、力で押さえ付けられるという恐怖が本当はどういうものなのかを、何もわかっちゃいなかったんだと思い知った。息苦しくて、顔が赤くなっていくのを感じる。けれど、私は夫の豹変した般若のような顔を見つめる。私は、その顔のどこかに迷っている弱さや冗談なんだっていう印がないかどうかを、無意識に探した。でも、どこにもなかった。代わりに、ドスの利いた冷徹な低い声が降ってきた。

「マジふざけやがって」

 夫の手の力が弱まり、崩れるように踞った私目掛けて、今度は夫の足が容赦なく飛んでくる。

 夫は、私を、人間だと、思ってはいない。髪の毛を掴まれ、強制的に頭を上げさせられる。

「おいっ!聞いてんのかっ!」

 聞いてるよ。いつもいつもいつも、聞き逃さないように耳を澄ましてるつもりだよ。でも、

 これってなにが原因?

 ただ、近所の人がたくさん生えているからと偶然通り掛った私に菊をくれた。だから、花瓶に入れて飾った。それだけだ。夫は頑として私の気持ちや言葉を撥ね除け、無視し、自分の意見ばかりを押し付けてくる。でも、いくら彼の言葉を聞いても、気持ちを理解しようと試みても無駄。そして夫は言う。

「もうダメだ」

「無理」

「頑張ったのに」

「ウザい」

「面倒臭い」

 そう切り捨てて、また繰り返す。彼は一体なにがしたくて、わざわざ憤りをぶつけてくるのか。

 夫婦って、相手を受け入れたり、合わせたりしながらお互いにやっていくものじゃないの? そんな私の訴えを無視して、彼は叫ぶ。毎回。呪いの言葉を。


「お前は疫病神だ!俺の人生返せ!」


 まるで折檻するのが義務であるかのように止まらない夫の背後、窓の外が目に入る。

 中古で買ったマンション。真向かいにあるのは、白い煉瓦作りの壁だ。例に漏れず、スプレーやペンキで落書きや記号のような絵がペイントされている。その中の、B級ホラー映画のタイトルみたいなおどろおどろしい赤い文字に吸い寄せられる。

 豪快に画かれたLOVEの文字はペンキがダラダラと垂れ落ちて、不吉な血のダイイングメッセージのようだ。血で描かれた愛・・私たちのこと? そんなわけないと必死に否定する。ただ単に、たっぷり過ぎては何事もしまりがなくなり、手に負えなくなるってだけだ。でも、そんな事になるって誰がわかる? どうすればわかった? わかってなきゃ、いけなかったの? 頭が痺れる。

 “そんな事、なってみなきゃ、わからないんだ”


「やり返せよ。ほら」


 夫の声が降ってくる。仕返しなんて意味なんてない。増々虚しくなっていくだけ。彼にはわからない。やられた私の気持ちなんて理解できない。同じことをされても力が違うから。

 いくらやっても無駄。彼は変わらない。


「ほんとは殺してやりてーんだろ?」


 わからない。私は暴力の中に愛や自己表現があるなんて思わない。

 暴力は野蛮で、ただただ虚しくなるだけ。

 誰でも傷付きたくない。でもそれが、弱者の言い訳かもしれない。ほんとうは力でねじ伏せられることが、生きる上で必要なのかもしれない。だけど、

 嫌だ!

 そんな世界で生きたくないと無言の叫びをあげる。

 ふと、夫の狂気に歪んだ笑顔が固まった。

 ああ、やっと時が止まるのかなんて思えるほど長く感じた。

 夫は目を見開いたまま、倒れかかってくる。まただと思う。こうして暴力を奮っている時に、突然性行為に及び始める。おぞましい陵辱以外の何ものでもない。

 私は反射的に、夫の体を押し退け、部屋の扉に飛びつくと逃げ出す。もう、うんざりだ。

 突っ掛け姿で、とにかく走る。とっくに壊れた心が、ガシャガシャと騒がしい音を立てる。夜中のマンションから抜け出して、走って走って、近所の川縁に辿り着いた。それでも、夫が追ってきそうな気がして、人目につかないところに踞る。

 巡回している警察官にでも見つかるといいなと辺りを見回すが、こんな時に限っていやしない。警察なんて当てにならない。警察どころか、一般人すら見て見ぬ振りをする。

 煩い音を抑えようと胸元を掴みながら、数日前の夜を苦々しく思い出す。

 夫に、襟首を掴まれて、車の助手席から引き摺り下ろされた。

 首が絞まる苦しさと、まるで物のように死体のように引き摺り出される惨めさ、夫の訳の分からない狂気に対応しきれない弱い自分とが混ざり合って吐気を催す。

 乱れた髪で、擦傷だらけで、裸足のびっこで、偶然通り掛った大学生らしき若者たちに「助けて!」と助けを求めた。彼らは、ぎょっとした顔をして私を見、次いで夫へと視線を移した。夫は、いやはや困ったなあという人のよさそうな笑みを浮かべていたのだ。

『すみませんねぇ。こいつ、ちょっと頭がおかしくて、手がつけられないんですよ。気にしないでください』

 若者たちは、そっすか大変っすね、などと作り笑いで去ってしまったのだ。

 他人は、世間は、どんな惨劇を突きつけられても、何の根拠もなく大丈夫だと宣う上っ面の笑顔に簡単に騙されてしまう愚かなものなのだと悟った。

 誰も彼もが厄介事には極力関わり合いたくないのだ。だから『もしかしたら』の可能性より、『気のせいか』に逃げてしまう。よっぽど、のっぴきならない状況にでも見舞われない限りは。ガチガチと歯が鳴る。体が震える。寒いのではない。今頃になって恐怖の震えが来たのだ。どうしてこうなったのか、いつからこうなったのか、もう思い出せない。考えようとすると頭の芯が麻痺したように、ぼんやりしてしまうのだ。ただ、自分は世界から見て見ぬ振りをされていて、誰も助けてはくれないのだということだけはわかる。そして、私が帰れる唯一の場所が、夫との家なのだということも。

 実家は、十年前に起きた火災で焼けてしまった。

 当時、新聞を騒がせていた放火魔の仕業なのか、それに見せかけた犯行だったのかは定かではないが、犯人は掴まらず、父母と高校生の妹が犠牲になった。

 私だけが、大学の近くに一人暮らしをしていたため難を逃れたが、家族の顔さえ見れない葬儀の日から世界は色彩を失い、絶望と孤独のモノクロの視界の中でじっと足元を見つめながら佇立瞑目する日々。鰥寡孤独の私は次第に引き蘢り、大学も中退してしまった。その時、唯一、気にかけてくれていた人間が、同じ登山サークルの先輩だった夫だ。

 彼は、私の住むアパートに訪ねてきては、ドアの取っ手にビニール袋に入った様々なものをかけていく。簡単な食料や飲み物に始まり、文庫本や花などが入っていることもあった。変な人、と思った。放っといて欲しいとも。けれど、捨てるにしろ放置するにしろ気が引けるので、なんとなく受け取っていたら、ある日、手紙が入っていた。

『外出する元気が少しでも沸いてきたら、矢川緑地保全地域がおすすめ』

 どうしてメールではなく手紙なのだろうかと小首を傾げながら調べてみると、近所の自然保護公園だとわかった。

 おすすめしてくるくらいなのだから、この人はしょっちゅう行っているのだろうか。私は、そこに、行かなければいけないのだろうか。どうして放っといてくれないのだろうか。

 彼に限らず、世の中全てが、もうどうでもいいのに。私の唯一の家族を無慈悲に切り捨てたこの世界が、私は大嫌い。運命だか運だか知らないけど、それを私の家族に割り当てた誰かを殺してやりたい。

 いつのまにか悲しみは、恨みや憎しみへと変わっていた。私は日がな、朝の光を憎み、小鳥の囀りに暗鬱になり、閉め切った窓の隙間から漏れてくる変わらない平和な時間の音に絶望した。終いには、生きていれば当たり前に襲われる尿意や便意、空腹感にすら怒りを覚えた。

 どうして、私だけが生きているのか。

 なんの取り柄もない私だけが、どうして取り残されてしまったのか。どうして、私だけが・・ 

 蒲が茂っ水場にかけられた足場の上で、彼はそれでもいいと言ってくれた。

「君の苦しみ、全部受け止めるから。大丈夫だよ」そう言って、強く抱きしめた。

 久方ぶりに感じる人の体温に思わず目頭が熱くなった。どうして、そこに行ってしまったのか。彼がいるのだとわかっていたはずなのに。なにを求めて向かったのか。慰め? おこぼれ?

 いずれにせよ、私はまんまんと彼の罠に落ちたのだ。

 鬱陶しい湿気が息苦しく纏わり付くようになったのは結婚してからだ。

 夫は、つまらない事にいつまでも拘り、黙って堪える私が聞いてないと言って暴力三昧。

 最初は戸惑った。誰にでも欠点はあるし、彼は言わなくてもわかってくれる良識がある人だからなんて、おめでたい事を思っていた。けれど、怒った時の夫は、自分を守る事ばかりに終始し、もしかしたら私を殺したかったのかもしれない。

 夫がどんな不条理な怒りを打つけてきても、最初は泣きながら謝罪していた。彼はそんな私の泣き顔を見て、ひと言。

「気持ち悪ぃ」

 なにかが粉砕された。私、こんな、みっともない惨めな姿晒して、なにしてんの?

 彼は私の気持ちなんてどこまでも関係なくて、ただ自分のその時の気に食わない感情が全て。

 彼は結局私のする事全てが気に食わない。永遠に私は責められ続ける。

「うるせぇ」

 引き止めようと縋った私の手を逆に掴んで背負い投げされた瞬間、世界がモノクロになった。

 その瞬間に、武道はこうやって実際に使うのかぁと思った。夫は柔道中級者だ。次に、コンクリートに無防備に叩き付けられた自分の状況把握不能になって吐き気が込み上げてきた。それでも親を追う子どものように起き上がろうとしてついた手の近く、吹き飛ばさて壊れた私の携帯が、彼の鼻を鳴らす音と一緒に無慈悲に落とされる。そして、霞んだ視界に彼が遠ざかっていくのが見えた。彼は振り返ることなく、闇夜に溶けた。私は吐き気を堪えて起き上がる。

 街灯に照らされたマンション脇に植えられた葉桜が静かに風に揺れている平和な夜の12時。

 微かに窓を閉める音がする。伸し掛かってくる夜の圧。私の気力や生気は確実に削がれていった。

 夫は毎日のように、こんな筈じゃなかったと悲観に暮れ、私は彼の一挙手一投足に常に神経を尖らせ、彼に注がれる乱暴で凶暴な言動を嘔吐しながら消化しなければと手一杯で。現実逃避したい自分と、こんなんじゃなかった自分と逃げ出したい自分におしくらまんじゅうされて、苦しい悲しい辛い。でも、ここで辞めてしまったらきっと意味なんてなくなるからと言い聞かせて。けど、

 意味って、なんの?

 朝方まで粘って、怖々家に帰ると、夫が倒れたままの姿で、ひっそりと死んでいた。

 私は夫を横目に、シャワーを浴びて、ひとまず眠る。そして、目が覚めてから警察に電話をかけた。

 警察は痣だらけの私の顔を見る成り、昨晩は逃げてましたと言うなり、なにも聞かず夫を運んでいった。

 その後、検死から返ってきた夫は葬儀屋の保冷室に移され、彼の両親がすっ飛んできて、勝手に葬儀の打ち合わせをし始めたのだ。

 妻である私は、終始蚊帳の外で、喪主にすらされなかった。それでも、保冷室で整えられた夫に面会した。


 あれ・・この人、こんな穏やかな顔、してたっけ? 


 気泡が昇っていく。

 一つ又一つ。不安定に前後左右に震えながら。漆黒の闇の中、どこまでも昇っていく。

 それで、これは夢なのだと、わかった。

 いくら目を凝らしても水面は見えないのに、いつのまにか消えている。私は水底に座り込んでそれを見つめる。

 気泡は私の中、零れ出ている温かな思い出や愛情。彼への思い。それに気付いて、気泡を掴んでは慌てて口に押し戻そうとするけれど、掴んでも掴んでも泡は指をすり抜けて細かくなるだけで変わらずに昇っていく。無駄な足搔きだとわかっていても尚、そうせずにはいられない。そのうちに苦しくなってきて、踠き始める。視界が狭まる。苦しくて苦しくて、すぐそこにいるだろう夫に手を伸ばす。夫はそこにいて、ふとこちらを向く。そして、哀れみの表情を浮かべる。必死で伸ばす私の手を握ってはくれない。その代わり、私の首に両手で触れる。

 ・・お前なんか、もういらねぇんだよ

 水中に響く夫の声。私の口からは大量の泡が吹き出る。

 苦しい・・・!

 それでも首を絞められながら夫を掴もうとして手を伸ばす。気泡に遮られて彼の顔が見えなくなる。

 私は死ぬのか。もう指の一本も動かせない。あぁとうとう死ぬんだ。彼の妻としての私は死ぬ時なのだとようやく認識した。口から出た頼りなげな最後の気泡は果てしなく広がる深い闇に溶けるように消えた。

 私は可哀相なんかじゃない。

 私はただ、夫を助けたかっただけ。

 だって、秘密を知っている私が離れたら、きっと彼は悲しむだろうし、また泣くのだろう。私は彼を裏切りたくない。それが、私の彼への愛情だと、誠意や思い遣りだと信じているから。そんな人を選んだのは私なんだから。自分の責任はちゃんと取らないと。だから、彼は私を裏切っても、何度も何度も裏切っても、私は彼を裏切りたくはない。せめて、私だけは・・・でも、

 もう辛くてしょうがない。毎日が苦しくて苦しくて、真綿どころか縄で首を絞められ続けているみたいだ。息苦しくて視界がぼやける。

 ここはどこ? 私はなに? なんで生きているんだっけ?

 楽しいことも、嬉しいこともない。あるのは希望もなにもない現実。どこまで続くのかすら見えない出口のない生活。日々、何かに神経を蝕まれていくのを感じる。私は病んでいるのだろう。幸せなんだと言い聞かせて、夫を慰める。突き飛ばされようが、引き摺り下ろされようが、泣いて謝罪する夫を慰める。

 泣きたいのはこっちだ。体中が痛い。彼は無傷。

・・なにこれ?

 鹿驚みたいに怒られて悄気ている子どものように悲しそうに立ち尽くしている彼を抱くのは私。

 可哀相な彼をなるべく優しく抱き寄せる。彼は私に凭れ掛かってきて、その所存投げに広げていた腕を私の背中に回す。そして、私の背中に思いっきり強く爪を立てる。何度も何度も深く爪を立てて、血が出てきても構わない。泣きながら私を傷つける。それでも、背中はまだそこまで敏感に痛さを感じないものだから私は我慢出来ている。でも、そのうち私の背中は傷だらけになって、さすがに鈍痛が激しくなって、燃えるように痛み出す。私はそこでやっと離れようとするけれど、向き合った彼の顔があまりに心細げに見えて、彼を守れるのは私だけしかいないのだと錯覚を覚え、再び抱きしめてしまう事を永遠繰り返す。

 己を粗末にしている愚かな私。

 そんな事をしたところでどうにもならないのに、頭の何処かでわかっているのに止められない。

 離れられない。

 共依存。

 血だらけになりながらも、まだ夫を庇おうとしている私。彼の中に何かを必死に探し続けている哀れな私。苦しい・・

 彼は私の態度に一喜一憂し、私は彼に振り回される。よくない関係。傷つけ合うだけの関係。私はただ彼と普通の家庭を築きたかった。でも、

 普通ってなんだっけ?

 彼といない時でもイライラと怒り易くなった私の性質は普通なの?

 他人と深く関わって初めて自分はこんなに人に助けや何かを求めながら生きているんだと気付いてしまった。自分のキチガイさ。彼に言われるまでもない。それに感化されて本性出した彼への恨めしさ。私は彼に幸せや楽しさを、一緒にいて理解することを求め、彼が必死にそれに答えようとする姿勢に好感を持って、好きになろうとして曖昧に結婚した自分が嫌で、彼が不安で仕方ない時も相変わらず安心させようとして好きになろうとして、いつかはなんとか形になっていくものだからって彼の暴言に堪えていた。話し合えば、暴力を受け入れればそれで彼が悔い改めるんじゃないかと。勝手に理由をこじつけていた。

 私は彼を利用していたのかもしれない。彼のことを言えないのかもしれない。そして、彼も同じだったとしたら・・・

 目が覚めると頬が濡れていた。

 今日は、夫の葬式の日。

 彼が可哀相だなとしか思えないと言い放った涙を流していたのかと思うと、惨めな気にすらなってくる。

 あなたは、死んでまで尚、私を苦しめるんだね。


「あんたなんかと一緒になったばかりに、息子は!」

 DV親父がよく言うよ。電話をしてくる義母の泣き言は、いつも聞いていた。とにかくこれで、やっとおさらばできるのだ。私は、義父に向かって言い放つ。「私は今後一切、そちらとは関わりませんので、安心ですね」

 私は、夫の手元に手紙のふりをした離婚届のコピーをそっと置いて花で隠した。夫の大嫌いな白い菊をふんだんに顔の周りに敷き詰めてやった。

 この人が菊を嫌いなのは、なんでだったけ? 理由を聞いたことがあるような気もするが、覚えていない。とにかく、死ぬ程嫌いだと言っていたけど、もう死んでるから関係ないわね。

 菊入れに熱中する私を周囲は怪訝な目で眺めている。


 夫の遺影と位牌と遺骨は、彼の両親の手によって実家に帰っていった。

 家に帰った私は、様々な記憶を掻き混ぜながら荷造りをする。

 家主のいなくなったこの家は、今月末までに出て行かなければいけない。その後は、彼の両親がどうにかするのだろう。

 夫が亡くなる数日前のことが浮かんだ。

 朝方、足音を忍ばせて台所に行った私は、包丁を手に夫の元に取って返した。

 きっと、夫が罵るように頭がおかしくなっていたのだと思う。夫の不規則なリズムの鼾が聞こえる。

 彼は白目を半分開けて熟睡していた。目の大きな彼はよくそうやって瞼が閉まり切れずに開いている事がある。今日は更に口をハニワのように丸く開けている。私はまじまじとその顔を眺めた。その頼りなくも無防備過ぎるバカさに悲しくなった。不細工な夫を何故だかわからないけれど、可哀想だと思ってしまった。しかも胸が締め付けられるくらい強く。

 今、私に殺されでもしたら、この人はこんな可哀相な顔のまま、死ぬのか。

 夫はどんなにか私を蔑ろにしてきたのかなんてもう思い出せないくらい多くて。私がどんなに傷や痣だらけになっても、どんなに精神的に追い詰められても、壊れていっても、知らん顔して。思うようにいかなければ暴力ふるって、罵声、暴言なんでもござれで。私をサンドバックかなにかにしか思っていない夫。私はそんな夫が憎くて仕方なかった。愛情なんてとっくに粉々に砕けて灰になって飛んでった。そう思っていた。

 彼の為になんてなにもしてあげたくない。何も言いたくない。何も思いたくない。私は彼なしでも生きていけるって、毎日言い聞かせて自分を保っていた。そうやって自分を支えないと生きていけないくらいに毎日が辛かったから。死んでしまいたかったから。どんなに死を願ったかしれない。それなのに、こんなところで夫を可哀想だなんて思ってしまうなんて。どうかしている。それとも、まだ私にはそんな感情が残っていたのか。わからない。もう、よくわからない!

 私はそのまま台所まで後退ると、包丁を床に落としてしゃがみ込んだ。そして、泣いた。涙が止まらなかった。どうして今まで我慢していたんだろうと思うくらいに、色んな物が涙と一緒に吐き出されてくるようだった。

 あの朝、あんなに恨んでいた夫を、あんなに憎んでいた夫を、嫌いだったのに、大嫌いだったのに、私はできなかった。私は夫のように、夫を傷つける事はできなかったのだ。

 すると、般若のような冷酷な見慣れた夫の顔ではなく、菊に塗れた穏やかな顔が蘇ってきて、足繁く私のアパートに差し入れしてくれた頃のことやプロポーズされた時などが数珠繋ぎに思い起こされた。全て闇に葬って、最低最悪な旦那だったと、そう割り切ってこれから生きていこうと思ってたのに・・

 カーテンの隙間から忍び込む新鮮な朝の空気が、濡れた頬を冷やす。

 いつのまにか夜が明けたらしい。

 台所の付けっぱなしの蛍光灯が切れそうな微かな音をたてている。

 滲んだ視界のまま立ち上がり、蛍光灯の紐を引っ張って消した。ふと、風が吹いてきて、私の涙共カーテンを閃かせて散らせた。私は思わず目を瞑った。そして、再び目を開けると、役目を終わった蛍光灯には夜明けの空が映っていた。少しだけ薄い雲が伸びて、これから新しい一日を始めるに相応しい新鮮で美しい色合いをした空だ。

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