白装束


 白装束の袖に輪染みが広がっていく。

 長兄を取り囲む六人の弟妹からは、静かな嗚咽が漏れ、故人の纏うお手製らしい白装束の染みは増えていく。

 感慨深げに故人を摩る三人の老婆達は妹だろうか。白髪頭の男兄弟も其々の思いに耽っている。

「・・嘘みたいな、現実ね」長女のヒイナが、兄の手にポツリと落ちた涙のように小声で呟く。

「イチロウ兄さん・・この家で産まれて、この家で死んで行くのね・・」

 見事な白髪を夜会巻きにし、黒い着物をキリッと着付けたヒイナは、長男と共に、この藤谷家を再興し支えてきた一人だ。見合い結婚した夫はとっくに物故し気楽な身の上の彼女は最近、曾孫が産まれて大祖母になった。

「兄貴らしい」

 ジロウが、ぶっきらぼうに言って鼻を啜る。若い時には乱暴者で手が付けられなかったため勘当同然で、遠い親戚に奉公に出されていたジロウは、バブルの波に乗っかって建設会社を設立し、大設けをした後も見事に不況を乗り切った強者だ。数年前に、息子達に経営を任せて隠居し、今は会長の肩書きだけの気楽な立場である。息子夫婦に遅まきながら孫ができて、でっぷりと出たお腹を小さな手で叩かれながら子守りに精を出しているらしい。

「そうね。ほんとにね」

 フウコがハンカチで忙しく目元を押さえる。隣町の地主の一人息子に若くして嫁いだフウコは、子宝に恵まれなかったことで姑に辛く当たられ相当苦労したが、姑亡き後、夫が相続した手持ちの不動産を上手に切り売りして資産を増やし、認知症で施設暮らしになった夫亡き後も、一番手堅い老後生活を送れそうだった。

「最後まで、オレたちの心配ばっかりしていた・・」

 サブロウが、眼鏡の奥の焦点の定まらない濁った目で兄を見た。白内障が進んでいるのだ。それでも、銀行員時代の名残なのか、顔に眼鏡がかかってないと落ち着かない。サブロウは、兄弟の中で唯一、東京で暮らしている。東京は物価が高くて給料が安いロクなとこじゃないと不満を垂れ流しながら、世田谷にある人工温泉つきの老人マンションを妻と一緒に申し込んだのだとか。

「それが兄さんじゃないのさ!」

 ミイコが男兄弟達を振り返る。地元でスナックを経営しているため、姉妹の中では一番派手、よく言えば若々しい見た目をしている。真っ赤な口紅と爪は不謹慎だとヒイナに諌められていたが、てんで聞かない。母親に似て自由奔放な性格をしたミイコの一人娘は、国際結婚をして現在はアメリカで暮らしている。

「・・だな」

 シロウが簡潔にまとめる。兄弟の中では一番寡黙なシロウは、ヒイナと共にイチロウが立ち上げた会社を支えてきた。主に、経理や会計を受け持ち、独学で公認会計士の資格を取った。妻との間には一男一女を授かった。マリオのような髭を蓄えたシロウの最近の趣味は、息子と通っているジムだという。

「・・兄さん、母さんによろしくね」

 ヒイナが兄の頬にそっと手を添える。

 イチロウ夫婦と暮らしていた彼らの母は、数年前に他界した。最後まで介護を必要とせず、自分の足で歩き、自分の歯で好きなものを食べ、元気に庭を弄っていた百歳の大往生だった。

「お袋は、若い頃は苦労したけど、長生きしたからなぁ。それに比べて兄貴は、八十五なんて若い若い」癌なんかなきゃまだまだいけただろうさ、とジロウは浅黒い顔を横に振る。

「ジロウ兄さんだって、人のこと言えないんじゃないの? メタボなんでしょ!その歳でその体型は危ないわよ!」と、ミイコが甲高い声で小型犬のようにキャンキャン噛み付く。ジロウは煩そうに手を振った。

「兄さん!父さんがまた母さんを虐めてたら、守ってやってよね!」

 ミイコのその言葉に、その場が一瞬凍り付いた。バカっ!いるわきゃねーだろ、と、強面のジロウに一喝されたミイコは自分の失言に気付き、青くなって縮こまった。気まずい沈黙が降りる。

 納棺師さん、と沈黙を破ったのは長女のヒイナだった。

「もう結構ですので、納めてください」

 キッパリと言いきった長女の言葉は、何者の反論であろうとも許さないという凄みがあった。急に無口になった兄弟たちは、粛々と長男を棺に納め、棺の蓋は閉じられ、長男は居間に安置された。

「・・母ちゃん、知ってたのかな?」

 通夜の席で弱々しくそう切り出したのは、サブロウだった。

 酒に弱いサブロウは、ジロウに注がれたビール一杯だけで、既に顔が茹で蛸のようになっている。三男の目線は、棺で安置されている長男がいる居間の向かい側に位置する仏間で、仰々しい仏壇に母の骨壺と仲良く並んだ父の骨壺に向けられていた。

「母さん、骨壺開けてたらしいわよ」ねえさんが見たって、とヒイナが寿司を口に運びながら淡々と答えた。

「でも別に、また閉めて仏壇に戻したみたいよ。それについてなにか言ってもなかったし、あたしも、なにも聞かれたわけじゃないから」気にしなくていいでしょ、と、ヒイナはグラスに残ったビールを煽った。

「まぁ、お袋が一番恨んでただろうしな」

 ジロウは、ヒイナのグラスにビールを注ぎながら苦笑した。フウコが真っ青な顔でヒイナを見つめている。

「で、でも、まさか・・オレたちが、や、やったことまでは、さすがに知らなかったよな?」蒼白になったサブロウが、長女と次男に向けて確かめるように怖々と声を絞り出した。その隣で胡座をかいているシロウは、ビールの入ったグラスを口許に当てたまま、じっと耳を澄ましているだけだ。

「バッカじゃない!知ってるわけないでしょ!例え知ってたとしても、母さんなら見て見ぬ振りするって!どのみち、もうこの世にいないんだから、そんな心配、するだけ無駄無駄!」微酔いのミイコが軽い調子で入ってきた。

「そ、そ、そ、そうよね。ほんとにね」ガタガタ震えながらフウコが同意する。

「あんなクソヤロウなんて死んで当然だろ」低く唸るジロウを、しっ、と人差し指を立てて制するヒイナ。立てたその指で、細い煙草を一本抜き出すと品よく火を点ける。煙と一緒に、残念ながら、と吹き出した。

「この歳になっても、そこだけは変わらないのよね。むしろ、人生経験が増えれば増えるほど、憎悪が増すのよ」

「あ、あたしは、そうでもないの。父さんのことは、よく覚えてないから」フウコがおどおど入ってきた。

「無理もない。フウはまだ五歳だったんだからな。兄貴が十三で、姉貴が十二。オレは十歳で、サブは七歳。ミイが三歳、シロウなんて一歳だ」いっつも姉貴に背負われてたな、とジロウに肩を叩かれたシロウは、グラスを置くと兄弟の方を向いて、おもむろに口を開いた。

「・・けど、俺、兄貴たちが川になんか流してる光景は覚えてるよ」

「あーそうそう!アタシも、なんかを石で潰して粉にしたの覚えてるわ!ウエハースみたいにサクサクいくから、面白くて夢中になってやった!でも・・あれって、なんだったの?」声が大きい!と、ジロウが慌てて周りを見回すが、それぞれの息子や娘たちは仕事の都合や遠方から駆けつけてくるので明日の告別からの参加のため、通夜の二十五畳の座敷にいるのは、自分たち弟妹と、イチロウ家族と、ヒイナの娘と息子嫁、それに近所の馴染みがチラホラだけ。と言っても、イチロウの高齢の妻は自分の息子夫婦と共に、近所から訪れる会葬者の挨拶や対応に忙しく、ヒイナの子どもたちは慌ただしく給仕に立ち回っている。要は、暇な老人たちの昔話など気に止める者などいないということだ。

「そういえば、どうやってオオスズメ捕まえたの? 兄さんにいくら聞いても、教えてくれなかったのよ」

 誰に遠慮することはないとわかって、ヒイナがまず切り出してきた。

 ジロウとサブロウはぎょっと顔を見合わせた。あの事件に関することは、なにがあっても絶対に口にしてはいけないとイチロウが禁制を敷いていたのだ。

「もうとっくに時効よ。母さんも兄さんも死んだ今となっては、ただの昔話」

 ヒイナにそう言われれば、仕方がない。サブロウがおずおずと説明した。

「酒と酢とヤマブドウの汁、それからヤブガラシを使って、誘き出すんだ」

 成長するに従って、算術を得意とし読書に勤しむようになったサブロウは、理数系の国立大学になんなく合格した。その片鱗は既に七歳の頃から現れていたらしい。ジロウが続ける。

「そうそう、奴ら、匂いで助けを呼ぶんだ。だから、一匹掴まりゃあとは芋づる式ってわけだ」

「それで、よく蜂を怒らせないで世話できたもんね。大したもんだわ。あの頃のあんた達、男子ってアホなんだと思ってたから、ちょっと見直したわ」ヒイナは言いながら、また一つ寿司に箸を伸ばした。よく食べる老婆だ。

「でも・・父さんって、そんなに酷い人だったの?」

 首を傾げるフウコに、全員の視線がひたっと集まった。フウ、ほんとになにも覚えてないのか? と怪訝そうにジロウが聞き返す。間抜けな顔で首を横に振る次女に、長女が深い溜め息をついた。

「あんた、アイツに殺されかけたんだよ」

 ヒイナの言葉に、フウコが固まる。だから、フウはあの頃の記憶をほとんど覚えていないんだと思ってたんだけど・・とヒイナは付け足す。確かにフウコは、その年齢の記憶が曖昧にしか思い出せなかった。自分より幼かったミイやシロウのほうが覚えていて驚くくらいなのだ。父親に殺されかけたショックから記憶を消していた?

「四歳の時だったか。転んでクソヤロウの酒をこぼしたとかなんとかで、首を絞められてな。慌ててお袋と兄貴が助けに入ったけど、おまえ、ぐったりして死ぬ寸前だったんだぞ。ヤロウ、手加減しなかったんだ」

 ジロウが怒りの形相で拳を固めて膝を叩いた。

「兄弟の中で、唯一、フウだけがそこまでされたんだよ。オレたちも殴られたりとかはあったけど、そこまでじゃなかった。だよね? 姉さん」

 サブロウがヒイナに念押しをしたのは、女兄弟のことまではわからなかったからだ。ヒイナは無言で煙草に火を点けた。その様子を察した三女が、サブロウに、この無神経!アホたれ!と、ぴーちく罵声を飛ばす。

「女の子は女の子なりの被害を受けてたのよ!母さんと同じ部屋に寝てたんだから、逃れられっこ、ないじゃないのさぁ・・」ミイコは言いながら、段々しょげて尻窄まりになった。

 最低な下劣ヤロウだったんだよ!とジロウがまとめるところを見ると、どうやら長男と次男は女子の被害を知っていたらしい。女子と言うよりも長女のと言ったほうが正しいのかもしれない。四歳のフウを絞め殺そうとしたくらいなので、さすがに幼児趣味はなかっただろうと推測されるので、当時三歳になるかならないかの三女の被害はほぼなかったのではないだろうか。三女は恐らく大人になってから長女に聞いたのだろう。三女のスナックには、兄弟はよく足を運んでいる。それにしても、三男なのに俺だけ蚊帳の外だったのかよと、サブロウの胸に嫉妬の火が一瞬燃えてすぐ消えた。どうせもう、過ぎ去った遠い遠い昔のことなのだ。

「・・いい加減、なにがあったのか、話してくれてもいいんじゃないのか?」藤谷家の七人兄弟の一人として知っておきたいんだ、とシロウが思い詰めたように早口で言った。四男がこんなに感情的になるのも、ここまでの言葉を発するのも珍しいことだった。

 当時、一歳になるかならないかだったシロウに誰も話さなかったのも無理はない。

 知らなければ、知らないままでいたほうが、幸せなことなど山程あるからだ。

 ヒイナとジロウとサブロウは顔を見合わせ、次いで長男が眠る棺へと視線を滑らせた。まるで、話すべきか否かと四人で検討し合っているかのようだ。そうして、しばらく後に、ジロウがよっこらせと立ち上がると、新しいビール瓶を何本か持ってきた。

「昔話をするには、おあつらえむきの晩じゃねーのよ。姉貴が言ってたように、もう時効だ。関係ないだろ」

 ジロウはビール瓶の栓を開けて、兄弟の空いたグラスに黄金色の液体を勢いよく注いでいく。

 白い泡が一気に上がってきて、グラスの縁で弾けながら力尽きるものもあれば、溢れるものもある。各自、自分のグラスの世話を始めなければならなくなった。それを見兼ねたミイが、ヘタクソ!と罵って次兄の手からビール瓶を引っ手繰る。

「もったいぶってないで、さっさと話しちゃいなさいよ!過去は過去!所詮は昔話よ!どのみち、墓場まで抱えてかなきゃいけないような内容なんだったら、みんなで七等分したほうが少しは軽くもなるってもんだわ!」

「黙れよミイ。おまえは、聞き齧ってるからいいのかもしれないけど、少しはフウとシロウの身にもなれよ」と、サブロウが一喝する。けれど、ミイコは、シロウは聞きたいって言ってるじゃないのさ!と黙らない。

「フウはどうなの、知りたいの?」

 ヒイナが、酔いが回り始めて充血し始めた目を次女に据える。それで、兄弟の視線が一斉に彼女に集まった。

「・・あ、あたしも、知りたいかも」



 藤谷家は、この山間の土地に代々続く由緒ある家だった。

 立派な屋敷と庭、大きな蔵を備え、嘘かほんとか戦争の空襲でもビクともしなかったらしい。その藤谷家を、一人息子だった父が継いだのは、戦後、日本全国が貧窮の真っ最中だった。なんのことはない。父の両親が過労のために相次いで亡くなったからである。家の存続や資産運用などより、目の前の欲にしか興味がないような甘やかされて育った世間知らずの若者だった父は、不況だった世間を鼻で笑いながら放蕩三昧の日々を過ごした。

 そんなある日、屋敷が荒れ放題になっていることに心を痛めた親戚が、身を固めてみたらどうかと、父に見合いの話を持ってきたのである。それが、母だった。

 母は、東京の良家に生まれ、なに不自由なく育ってきた無垢な娘だった。母曰く、背が高い父は見てくれだけはよかったらしく、それに騙されたのだという。

 結婚して間もなく玉のような男の子、イチロウが産まれた。

 父の酒乱ぶりが目につくようになってきたのは、この頃からだったらしい。ヒイナ、ジロウと続くお産で体力が落ちている母に、容赦なくキツい仕事を言いつけるのだ。自分は昼間っからだらしなく酒を飲み、夜には外に飲みに出掛けていくのである。父がいない夜が一番平和な時間だった。けれど、ミイコが産まれたあたりだっただろうか。父は千鳥足の帰路にて、よろけて転び、足を骨折してしまったのだ。若い頃の面影なくでっぷりと肥え太った父の体重では仕方ない事件だった。けれど、家で静養しなければいけなくなった父の苛々は酷く、それを世話する家族に当たり散らすのである。幸い、イチロウとヒイナは既に十を過ぎていて、ジロウ、サブロウに至っても充分に家事を手伝うことができる年齢ではあった。父はそれをいいことに、ストレス発散も兼ねて子ども達を散々いびり倒した。少し不器用な子、フウコのようなおっとりした子には容赦なく制裁を加える。恐怖で家庭を支配していたのである。

 父は少し動けるようになると、松葉杖をついて、また外に飲みに出かけるようになった。

 ところが、無職の大黒柱に頼ったそんな生活がずっと続く訳はなく、とうとう家の蓄えが底をついた。昼夜問わず借金取りが押し寄せてくるようになったのである。父が外で借金をして酒を飲んでいるらしかった。

 母は、近所や知り合いに頼んで、仕立てや内職の仕事を回してもらった。けれど、そんなものでは到底借金返済には足りないばかりか、生活していくこともままならない。母は何度も家出しようした。父の留守にこっそりと出て行こうとする母の後に、子ども達は一列になって従う。その様子を見た近所の者が、家出行列と命名し、藤谷家の惨状が知れ渡ってしまったらしい。だが、母の実家は、両親は既に他界し、母の姉が全財産を相続していたが、姉妹仲が悪かったため頼ることもできず、結局戻るしかなかった。

 父の暴力は日増しに酷くなっていった。母ならず、子ども達もいつも腫れぼったく赤黒い顔をしていたため、不憫に思った近所の人々がこっそりと食べ物を恵んでくれることもあったが、食べ盛りの子どもが七人もいれば全然足りない。だが、公にやってしまうと、これ幸いと父が金をたかりに行くので、近所の者も関わり合いになることを避けていたのである。そのため、子ども達は常に餓えていた。産まれたばかりのシロウは痩せ細り、寝ることもできずに弱々しく泣いてばかりいる。子どもたち以上に栄養失調だった母の乳はとっくに枯れてしまっていた。

 子ども達は、毎日山に入って、山菜やキノコ、木の実など食べられそうなものを集めてまわった。罠を作って、鳥やウサギなどの獣を捉える時には、サブロウの観察力と知恵が大いに役に立ったものである。運動神経の良かったイチロウとジロウはどんなに高い木でも猿のように登って、果物や木の実を落とした。収穫物を持って帰って、母と一緒に乾燥させたり、すりつぶしたりするのは女の子の役目だった。だが、そんな原始的な生活をしていることが、金持ちのプライドだけは高い傲慢な父には我慢ならなかったのだろう。せっかく子どもたちが作った乾物や山菜を、怒りに任せて囲炉裏端の火の中に放り込むのだ。大事な食料が黒くなって燃えていく様を映す子どもたちの目には怒りが燃えていた。けれど、巨漢の父親にはどうしたって叶わない。限界だった。

 そして、とうとう飢餓に耐えられなくなった子ども達は、ある晩、この土地で一番広い畑を持つ農家に盗みに入ったのである。

「おめぇらどこの子だ!」

 幼児を引き連れての窃盗は、あっけなく掴まってしまい、盗んだカボチャごと納屋に引っ立てられた。

 腹が減り過ぎて、泣く元気すらなくぐったりと項垂れる子ども達。長女の背中で、四男がひんひんとか細い声を上げている。中年の農夫は、すぐに藤谷家の子ども達だと見当がついた。デカい化物屋敷に住んでいる餓鬼のように痩せた子どもらは有名なのだ。その有様を不憫に思った農夫は、兄弟の手にあるカボチャを煮付けて食わせてやった。

「いいか。泥棒する人間は、ロクな大人になりゃしねぇ。盗んだもんで、腹が満たされると思うなよ。だが、ただで食える飯もねぇ。おめぇらは明日から、おれのところに来て手伝わにゃならんぞ。わかったな!」

 怖い顔をしていたが、良心的な農夫だったのである。農夫の妻が、ヤギの乳を人肌に温めてシロウに与えてくれた。カボチャの煮付けを思う存分頬張った子ども達は少し元気が出てきて、わかった、と大きく頷くと、翌朝から七人揃って農家の手伝いに来るようになった。もちろん、母親には内緒でだ。そして、報酬として収穫した野菜や米などを分けてもらって持って帰る。母は驚いたが、父ちゃんには内緒にしようねと喜んでくれたのである。

 この農家で、子ども達は労働の楽しさを覚えた。三人の男の子は、農夫に農業のいろはを習い、どんどんできる仕事を増やしていったのである。昼飯には、米が食えた。子ども達の顔色はずんずんよくなり、元気に走り回れるようになった。だが、家は相変わらずだ。父は砂袋でも殴るような調子で、母と子ども達を殴るのである。以前より元気になったミイコやシロウが怖くて泣き叫ぶので、それも癪に触るらしく、父はますます暴れた。

「あんなヤツ!くたばりゃいいんだっ!」

 血をぺっと飛ばしながらジロウが叫んだ。歯が一本折れてしまっていた。サブロウが、ヒーヒー言いながらやっとのことでよじ上ってきた。小さな目の周りに大きな青あざができている。

「今夜はここにいようよ。オレ、帰りたくないよ・・」

「無理よ。母さんが心配して探しにくるんだから」

 イチロウに助けてもらって、シロウをおぶったヒイナが顔を出した。こちらも口許が切れて血が滲んでいる。

 兄弟揃って、裏山の太い樫の木の上に作った隠れ家に非難してきたところだった。

「フウとミイは、どうした?」

 暗闇に目を凝らすイチロウは、野良仕事のお陰で急に背が伸び、筋肉がつき始めた体が逞しかった。初潮を迎えた自分のように、長兄も少年から青年に成長しようとしているのだとヒイナは思った。

「母さんと一緒にいたはずだろ。納屋、じゃないか?」

 ジロウが口の中を弄りながら、モゴモゴと答える。歯がどんな状態で抜けたのかを探っているのだ。

「納屋には、オオスズメが出るから気をつけないと・・」顔の痣に怖々触れようとしながらサブロウが言う。

「それだ!」

 イチロウが手を打って、オオスズメだよと、続ける。次に、首を傾げる兄弟達に向き合うと、捕まえるんだと言う。星さえ見えない暗がりで、頭を寄せ合って聞いた長兄の計画は、子ども達を奮い立たせた。

「よし!やろう!」と、乗り気なジロウの隣で、でも・・と不安げなサブロウ。

「もし失敗したら、オレたち今度こそ殺されるかもしれないよ」

「どのみち、このままじゃ嬲り殺しじゃないの。あたしは賛成」

 ヒイナは、泣きつかれて眠ったシロウを背中から下ろすと、鼻水を拭ってやった。

「やるか、やられるかだ!」

 翌日から、男の子たちは、あちこちにオオスズメの罠を仕掛けてまわった。その甲斐あって、数日で三十匹のオオスズメが集まったのである。軍用機のような低音を響かせて威嚇しているオオスズメ達を、農家でもらった煎餅の空き缶に入れて、昆虫などのエサを与えながら時を待った。機会はすぐに訪れた。

 その晩も、泥酔した父は、帰宅するなり寝ている母に暴力をふるい始めたのである。

 子どもたちを逃がして抵抗する母を、父は殺害する勢いで殴り続け、とうとう母は意識を失ってしまった。その様子を、怒りに戦慄いて見ていたイチロウは、父が便所に入ろうとするのを見計らって、脇で唸っている例の缶の蓋を緩めると、力一杯父親に投げつけて、素早く便所の扉を閉めたのである。

 よろけた父が、倒れ込むように中に入ったところまでは見たが、心配だったので弟妹たちと一緒になって扉を押さえ続けた。しばらく恐ろしい叫び声が響いていたが、やがて静かになった。

 ジロウと目のいいミイコが便所の裏に回ると小窓を開ける。運良く満月の明るい晩だった。残った兄弟は、扉の前でハッカ油を熱して出てきた匂いを団扇で便所のほうへと扇いだ。そうして、三十匹全部が小窓から出て行ったことを確認できてから、便所の扉を開けた。

 父は死んでいた、のだと思う。

 顔や手足に蜂にさされた膨らみができている。脈や瞳孔を確認できるような知識や技を知らない子ども達は、とにかく散々苦労して父を引き摺り出し、庭に落とすと、ヒーヒー言いながらなんとかリアカーに乗せた。なんせ大きな水風船みたいな体だ。遺骸の上に筵を被せて飛ばないように括り付ける。

 それから、男の子三人は、力を合わせてリヤカーを起こして出発した。畑仕事で鍛えた体は、大いに役に立ったのだ。行き先は、人食い熊がよく出没するという隣の山。

 一晩歩き続けて、早朝に隣の山に到着した。リヤカーを引っ張って登れるところまで行って、リアカーごと置き去りにした。折よく、サブロウが大小の熊の足跡をいくつか発見し、親子熊がそこらを狩場か通り道かに使っていることが知れたのである。三人はそのまま走って帰った。母は脳震盪を起こしていただけだったので、少しして意識を取り戻した。イチロウは「父さんは出ていった」と、母に嘘をついたのである。父は帰ってこなかった。

 そして、数週間後。

 隣町から連絡が入った。隣の山で、男性の頭部が見つかった。損傷が激しく身元確認が難しいのだが、行方不明者などがいないかという問い合わせだった。男性の顔の半分は毟られ、付近には男性のものと思しき足や手が転がっていたという。熊に食われたらしいということだった。

 母が、もしかしたらと名乗りを上げた。だが、衣類もなく腐敗した頭部だけでは本人かどうかは判別がつかない。そこで、子ども達の出番である。

「これ、父さんだよ!間違いないよ!」残らず食われればよかったのに、と内心で舌打ちしながらイチロウは嘘泣きまでして、いかにも心配していた息子を熱演した。そんな長男につられて、弟妹達も嘘泣きを始める。母は若干戸惑ったが、子ども達につられて、夫のものらしいモノに憐憫の情を催した。

 哀れな一家の様子に心を動かされた隣町の人々が、父の頭部を火葬してくれた。彼らは、焼き上がったボロボロの父の骨を骨壺に納めて、家に帰ったのである。ところが、子ども達の復讐は終わらなかった。

 姉の容態が悪いからと母が東京に呼ばれていったある日。

 イチロウは、仏壇に置かれた父の骨壺を手に、弟妹達を呼び集めた。

「粉にするぞ」

 そう言って、骨壺の中身を父のシャツを切り開いた布の上にバラまいた。

 まだ、辛うじて丸みを保っている頭蓋骨の破片が散らばる。気をつけろ、と言いながら、手に手に石を持ってそれを潰して粉にしていく。

 怒りを込めて石を叩き付ける長男と長女。フウコを手伝っているジロウ。仏頂面で黙々とこなすサブロウ。ミイコも夢中になっている。一人、よちよち歩きのシロウだけが、地べたにペタンと座って兄姉たちを見ていた。

 片手にも満たない白い粉ができた。イチロウは石ごとそれを包むと立ち上がった。

「水に流すぞ」

 弟妹たちは、黙って長兄のあとに従って川へ向かった。

 気持ちのいい小春日和だ。

 紅葉した山々は、錦織の高価な帯のように目にも鮮やかだった。

 黄金色に輝く稲穂が垂れ、刈り込みの時期を知らせている。

 イチロウは幅が広い畦道を選んだ。子ども達は、帰りに夕陽色に熟した柿の実を捥いで土産にしようなどと考えながら、それぞれ幼き弟妹と手を繋いで歩いていく。ミイコは折ってもらったススキを手に、ジロウは草笛を吹いていた。長閑な秋の午後だ。

 川辺に到着すると、イチロウは布を開き、中の石が混じった粉を川に投げ入れ、布も流した。それから、弟妹たちに川で手を洗わせて、家路についた。

 終わったのだ。


「・・兄さん、念には念を入れるタイプだったからな」シロウが呟いた。

「徹底してたのよ。そうじゃなきゃ会社を立ち上げて、藤谷家を再興なんてできやしなかったわよ」

 ヒイナがグラスを口に充てがおうとして、空になっているのに気付いた。ミイコが腕を伸ばしてビールを注ぐ。

「もし、あのまま、なにもせずに、クソヤロウの好き勝手にさせてのさばらせてたらと思うと、ぞっとするぜ」

 ジロウが手酌したビールを一気に煽る。そうよね、とフウコが引き取る。

「今のあたしたちは、なかったかも、しれないってことよね」言うが早いかフウコは寒そうに両腕を抱いた。

「母さんは、それを、予期してたんだと思う」

 音がするほど勢いよくグラスを置いたヒイナの意外な言葉に、どういうこと? と全員が振り向く。

「だって、母さん、白装束を縫い直してたから」子どもサイズから大人サイズに、さらっと言って長女は煙草に火を点けた。あーだからかぁーと、ジロウとサブロウが同時に頷いた。

「兄貴、チンチクリンな上に、ぱっつんぱっつんだったもんな」なんだべなーとは思ったんだが、そういうことかぁーと納得し、ん? 待てよ、とヒイナを見た。

「ってことは全員分あるってことか? 白装束」

「ご名答」若いときのあたしたちに合わせて縫い直したみたいだから、着れたもんじゃないかもね、とヒイナは膨らんだ帯をポンと叩くと、呆れ顔の弟妹を見回して、あはははと笑った。

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