薔薇に桜は似合わない
水面
薔薇に桜は似合わない
いつものように手に取ったそれを唇に乗せようとして、ぴた、と動きを止める。
ほんのりと春のような桜色の滲むリップクリーム。ここ数ヶ月毎日のように使っていたからか、ケースの細かな桜模様も消えかかっている。
これは昨日別れたばかりの彼氏ーーつまり元彼から、去年の誕生日プレゼントに貰ったものだ。
一言で表すなら穏やかな人だった。告白したのはあたしから。うるさい男子達から少し離れて本を読んでいる姿が大人びていて、かっこよく見えたのだ。初めはお互いぎこちなかったが、彼の木漏れ日のようなあたたかさはあたしの救いだった。
「美島は髪、黒く染めたりしないの?」
付き合ってしばらくした頃、元彼ーー高村に言われた言葉を思い出す。
「…ヤだよ。あたしはこれが好きなの」
少し傷んだ金髪に手櫛を通しながらそう返すまでに、ほんの少し間が空いてしまった。
そっか。
いつもの穏やかな顔でそう微笑んだ高村は、あのとき何を考えていたんだろう。
鏡に映るのは、目の下に隈の出来たひどい顔。得意のメイクでも、とても隠せそうにない。まるで他人のような自分と見つめ合いながら、ぼんやりと思い出されるのは昨日のこと。
別れよう。
昼休みに突然そう切り出した高村が、放課後、見たことないようなはにかんだ笑顔で、斉川さんと談笑している様子を見た。斉川さんは、隣のクラスの女の子。艷やかな黒髪、眉のところで整えられた前髪、くりっと丸い黒目がちな瞳。高村はああいう、斉川さんみたいな子が好きだったんだろう。あの桜色のリップクリームがよく似合うような、そんな女の子が。
なんとなく高村から貰ったリップクリームを使い続けるのは嫌で、引き出しの中を漁る。…あれ、こんなの持ってたっけ。出てきたのは、未開封の真っ赤なリップクリーム。キャップの部分に薔薇があしらわれていて、可愛い。そうだ、これは買ってすぐ高村にプレゼントを貰ったから、それ以来ずっと使わずに引き出しの中に眠らせていたもの。
キャップをそっと外して、唇に滑らせる。途端にぱっと唇に咲く薔薇色。それはまるで、咲き誇る赤薔薇のようだった。
驚いた。あたし、こういう色が好きだったんだ。付き合ってから、すっかり忘れてしまっていた。
ずっと………
視界が滲む。目頭が熱い。胸の内につっかえていた重たい物が、溶けるようにすうっと消えていくのが分かった。
鏡の中のあたし。目も赤くて相変わらずのひどい顔。だけど唇に映える薔薇色は、あたしを勇気づけるかのようにキラキラと輝いていた。
「 …めちゃくちゃかっこいいじゃん」
やっぱあたしは、こうありたい。
中途半端に自分を曲げるなんてもうごめんだ。ふわふわ柔らかな桜より、気高く強い薔薇でありたい。
開けっぱなしだった桜色のリップクリームのキャップをパチンと閉める。その聴き慣れた、でももう二度と聴くことはないであろう音に、あたしはふっと笑みを溢した。
朝、教室に足を踏み入れると、いつものように机に座る友人に、驚いたような顔をされる。
「あれ アカリ、リップ変えた?」
「 ん、変えた。いつものやめてみた。」
「 いいじゃん!そっちの方が断然合ってる。いつもつけてたやつ、正直あんまりアカリに似合ってなかったし」
似合ってなかった。はっきりとした彼女らしい物言いに、あたしは思わず苦笑した。ポケットから桜色のリップクリームを取り出して、差し出す。
「 ね、これ要る?あたしはもう使わないから」
「まじ?貰う!」
キャップを外して桜色に口付けようとしている彼女に、にやりと笑う。
「それ、元彼からのプレゼント。」
「げ。なんてもん渡してんのよ!」
虫でも払い除けるかのようにリップクリームを放り投げた友人。陽の光に煌めく金髪を揺らしながら、薔薇色のアカリは声を上げて笑った。
薔薇に桜は似合わない 水面 @mnm015
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