邯鄲楼

木穴加工

邯鄲楼

 直交タクシーを降りた瞬間、僕は反射的に鼻を覆った。


 ここに来たのは初めてではない。それでも四番街特有の洗浚液とドラッグの入り混じった不快な匂いは何度嗅いでも慣れないものだ。


「お兄さん、いい店ありますよ!」

 タクシーが発車するやいなや間髪を入れずにキャッチの男が近づいてくる(男というのはあくまで僕の推測だ。バイオプリンタ製人工皮膚と光造形骨格はどれも近頃流行りに合わせて性別が分かり辛いデザインになっている)

「ホロ見ます?チェックサム付きの純正認証もの、パネマジなしっす」

「いや先約がある」

 手を振って追い払うと男は「アッパーが」と軽く舌打ちをして去っていった。


「すまん、待たせたな」

 入れ替わるように、電板漁りの集団を縫って猫目が現れる。


 猫目は会社の先輩だ。先輩と言っても部署は別で仕事上のつながりは薄い。先日の飲み会でたまたま意気投合し、成り行きで猫目お勧めの地下遊郭に連れて行ってくれることになった。

 アッパー生まれの僕としては、そういった猥雑な店に行くのはあまり乗り気ではなかった。だけど、まったく興味がないかと言われればそれもまた嘘だった。


「こっちだ」

 半ば死体のように道路に転がっている沈殿族や所構わず踊り狂う聞学生たちを両手で文字通りかき分けながら猫目はズカズカと先に進んでゆく。


「激ヤバ裏オプあるよ!」

「葉っぱありマス、黒い方の」

 道すがら声をかけてくるキャッチたちを猫目が慣れた手つきで追い払っていく。

「一つ教えてやるよ。本当にヤバい店ってのは客引きなんかしないもんだ」

 と僕の耳元で囁く。

「特に今から行くようなのは」


 人でごった返す給食広場を横切り、残汁屋、黒客服務店、闇チャンバーといったようなアッパーではまず見かけないような店がひしめく迷路のような裏路地をすいすいと抜けていったかと思うと、猫目は突然一軒の薄汚れた雑居ビルの前で立ち止まった。

「ここだ」


 すべてが過剰装飾な町にあっては不自然なほど地味で、看板の一つも出ていないそのビルには、しかしそうだからこそ本物であるという謎めいた説得力があった。


 バトラーロボットに案内されるがまま中に入ると、僕と猫目はそれぞれ別の部屋に通された。別れ際に猫目は目配せをして「グッドライフ」と低い声で囁いた。


 通された薄暗い部屋は建物の外見からは想像もつかないほどよく清掃されていて、カーテンで区切られた空間には2人がけのこじんまりとした、しかしながら見るからに高価な革のソファと小さなテーブルだけが置かれていた。


「ソラネです、よろしくお願いします」

 一人の女がカーテンの奥から顔を出す。

 正直言うと僕は少し落胆した。あまり好みの顔ではなかったからだ。


 しかしこういう店では常連になる前からクレームをつけるとろくな目に合わないことを、僕は事前にネットで仕入れた知識で知っていた。


「初めて?」

 女は僕の横に座ると、持っていた小箱から金色のスティックを2本取り出して僕に見せた。

「これが?」

「そうよ」


 二人とも言葉に出しては言わなかったが、これがHL《ファン=リャン》薬であることは疑う余地はなかった。所持がバレたら無期懲役の完全違法ドラッグ。猫目から事前に話は聞いてはいたが、こんなにあっさりと出てくるとは思わなかったので拍子抜けしてしまった。


「俺らは何かと世間体やら人間関係やら、そういった下らないもんに雁字搦めにされて生きてる。本当は好き勝手やりたいがそうもいかねえ」

 飲み会の席で猫目はそう言っていた。

「ならどうする? 両方生きちまえばいいんだ。糞みたいに退屈だが理想的な人生と、自由気ままだが後ろ指指される人生、両方生きちまえばいい。そんなあり得ないことを可能にしてくれるのがHL薬ってわけだ」


 女は躊躇いもなくスティックをパキッと折ると中の蛍光色の液体を雑に口の中に流し込んだ。

 ここで気後れしては男が廃る。僕は理性を抑え彼女と同じようにした。強烈な苦味と酸味が口いっぱいに広がる。ソラネが差し出した水でなんとかそれを喉の奥に押しやった。


 それから僕らはしばしの間、何も起きなかったかのようにただ酒を飲みながらダラダラと他愛のない話をして過ごした。話してみるとソラネは第一印象よりもはるかに賢かったし、会話の引き出しも多く客を飽きさせない工夫を熟知していた。


 しばらくするとソラネはカーテンを開け、その奥にある大きなベッドに腰掛けた。

「どう?」

 パン、と手のひらでシーツを叩く。

「これ、もう薬は効いてるのか?」

「ええ、だから安心して」

 ソラネは心なしか小馬鹿にしたように笑った。


 そのあとのことについては具体的な描写を避けるが、僕がベッドで微睡みながら「次は店の外で会いたい」というようなことを伝えると、彼女は快くそれを了承した。


 それから僕らは顧客とも友人とも恋人とも付かない関係をしばらく続けた。その間にも僕は別の女性と何度か関係をもったことはあったが、結局ソラネと結婚した。


 親には猛反対されたものの、婚姻生活はまあ幸せだったと言えた。ソラネのことは相変わらず大好きというほどでもなかったが、子供は可愛かったし、子供と遊んでいるソラネも可愛く見えた。ただそれ以外のこと、たとえば夫婦の営みなどは徐々に疎遠になっていた。


 子供はすくすく成長し、アッパーでも指折りの進学校に入り、一流企業に就職した。僕はというと歳を取り、体が言うことを聞かなくなり、やがては死の床についた。


「自由気ままな生き方、とは言えなかったな」

 僕は猫目のことを考える。彼は結局独身のまま遊び回り、そして40代半ばに病気で死んだ。僕にはできなかった、HL薬の効果内だとわかっていたのに。所詮僕は小心者だった。猫目が羨ましかった。


「貴方がどう思っていたかはしらないけど、私はとても幸せだったよ」

 いつの間にか枕元に座っていたソラネが優しく言った。

「どうしたんだ、改まって」

「最後まで私のこと好きじゃなかったでしょ? 気づいてないとでも思ってる?」


「それを言っちゃダメだろ」

 僕は苦笑した。この数十年間、彼女のプロ意識に僕はすっかり感服していた。そんな彼女がプレイに水を指すような言葉を口にするなんて。

「この夢の中にいる限り、僕は君の良き夫であり続けるよ。全てが終わって目が覚めたら、僕はきっと君と一言二言交わしてお店を出る。そうしたらもう二度と会うこともないだろうけど」


「まさか」

 彼女は驚きの表情を浮かべる。

「これは夢じゃないわ」

 どうしたというのだろうか、今日のソラネは変だ。


「いいえ、そうね」

 ソラネは少し考えこんだ。

「確かに貴方は何事もなく店を出て行ったかもしれない。でもそれは今から起きることじゃないの。もう起きたことなの」

「何を言ってるんだ..?」

「馬鹿な人ね。HL薬は夢を見せる薬なんかじゃないのよ。ありえたかもしれない人生、ありえたかもしれない世界に行く薬なの。そう、確かに元々の貴方の人生は何一つ変わっていない。でもHL薬を飲んだ時点からそれはもう別の世界の話、その世界の貴方は今私の前にいる男ではないのよ」

 彼女の言う事がすこし分かりかけた気がした。だが、年老いた僕の頭では完全に理解するのは難しかった。


「ごめんなさい、こんなこと言って」

 彼女は立ち上がった。声が上ずっている。涙ぐんでるようだ。理由はよくわからなかった。


 もうひと眠りしよう、と僕は思った。

 目が覚めたら、お店を出て、元の暮らしに戻ろう。

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