第41話 あなたを待っています

 この光景は五年前にも見た光景。

 けれど今度は自分はレーサーとしてではなく、一人の優勝候補のレーサーを応援する観客の一人だ。


 あの人はすでに満員のレース会場に向かい、レース用のスーツに身を包んで準備万端だろう。乗る相棒はいつもの元気いっぱいの若いラウチェではないが、老体でありながら奥底に力を秘めたプロのラウチェだからレースの行方もわからない。準決勝と同じように最後の最後で奇跡を起こすことも十分にありえる。


(クード、アルグレーター……頑張って)


 そう祈りつつ、自分はレース会場に入る門の前で、どうしようかと考えていた。彼のことを思うなら、彼をオメガの不運から遠ざけたいなら。自分はこのまま彼のそばから離れるのが一番なのだ。

 このままこっそりレース会場から離れようか、そんなことを考えている。そうすればきっとクードは光り輝く。これからもプロとして輝いていく。自分と一緒では彼の未来が約束できるとは思えない。また大きな不運に巻き込んでしまうかもしれない。


(わかっている、それでも……僕は彼のことが、どうしようもなく好きになってしまっている。できたら彼とずっと一緒にいたい)


 それが自分の願いだ。ヒートを抑えるためとはいえ、一度だけ身体をつなげた時……自分はヒート症状が治まっただけでなく、この上ない幸福感に包まれた。

 クードはとても優しくて、あたたかくて。何度も自分のうなじにある昔の噛み跡を意味深に指でなでていて。


『オレは――』


 何度も何かをつぶやきかけては、やめていて。その先の言葉を聞いてみたい。このまま彼の元に行きたい、レースを見て優勝して、彼と共に道を歩めたら――。


「ここにいたね、レイ」


 後ろから声がした。振り返ると、そこにいたのはスーツ姿の紳士。


「マーチャードさん……見に来たんですか」


 当たり前なことを聞いてしまった、息子の舞台だもの。

 だがマーチャードさんは「私は見ないよ」と予想外なことを言った。


「クードは私よりも見てもらいたい人がいるだろう。そんな人がこんなところで何をしているのかな」


 マーチャードさんは優しい声で問いかけてきた。「でも」と自分が口を開きかけた時、マーチャードさんが先に「昔――」と声を発した。


「クードは自分が身体が弱くて走れないこと、みんなと遊べないこと、自分がもしかしたら早くに死ぬかもしれないことを深く嘆いていたいんだ。なんで自分はこんな身体なんだってね。荒れていて大変だったよ」


 突然語られたクードの幼少のこと。自分は視線を伏せたまま、それを聞いている。


「そんな時だ、たまたま連れていったレース会場で君の姿を見せた。君の走り抜ける姿はあの子にとっては願い事を叶える流れ星のようだったんだよ。きらめきながら瞬速で、前を突き進んでいく……カミリヤはあの子に生きる気力を与えてくれたんだ」


 そんな大層なものじゃないのに。自分はただラウチェが好きだっただけ。そしてその裏ではオメガの体質に悩み、全てをあきらめた。

 それを助けてくれたのはフェルンだった。フェルンのおかげで自分は前を向いていただけ、好きに生きていただけ。


「だから今度は反対に、あの子は君のことを守りたいんだよ。憧れの人が幸せをくれた分、憧れの人が悩み苦しんでいるのなら助けてあげたいと思っている。あの子は今、とても幸せだ。レイにとっては何が幸せなのかな?」


「僕は……」


「君のことはみんなが見ている。みんなが君の幸せを望んでいるんだ。それを忘れずに突き進むといい。君はレイ・カミリヤだ。小さな身体で何にも怯まない風のような存在なのだからね」


 マーチャードさんは肩を一つ優しく叩き、落ち着いた足音と共に去っていく。その気配が完全になくなり、遠くではレースの観客の声がにぎやかにレースを心待ちにしている。


(僕は……)


 自分の心など、わかっている。散々迷ってきたけど、やはり離れる勇気はない。

 ならば自分の心が望むままに。

 その先に何があろうが、何かがあったらアルグレーターに乗って全力ダッシュしてしまえばいい。


(だって僕の役目はひたすら突き進むことだもの……)


 深呼吸をしてから歩き出していた。レース会場の門をくぐり、人々でにぎわう長い通路を抜け、向かった先は観覧席の前に――。


「クードさん、いますか?」


 一般客の立ち入りを禁じた通路に並んだ部屋はレーサー達の控室だ。その中の一つのドアをノックすると驚いた顔のクードが出てきた。


「わっ、レイさん、珍し……というかレース前に来るなんて初めてだね」


「ごめんなさい、レース前なんですけど。少しだけいいですか」


「あ、うん、レースまでまだ時間あるし、入って」


 控室は本当に控えるだけの場なので、置いてあるのは簡単なイスとテーブル、あとは飲み物だけだ。けれどレーサー全員が落ち着けるように個室になっているから、それは当時の自分も使用していてありがたかった。

 今はクードと、二人きりで話もできるから。


「ごめんなさい、忙しいでしょうから手短に伝えようと思って」


 目の前のクードを見上げながら、いつも自分を隠してきた分厚いレンズの眼鏡を外した。

 気合いを入れるため、もう嘘偽りの自分をやめるため……。


「クードさんなら絶対に勝てます」


 そんな言葉を口にしてみると、自分は自然と笑みを浮かべていた。だって絶対にそうだと、思っているから。


「クードさんは僕よりずっと強くなりました。そして誰よりもラウチェレースを楽しんでいる……ラウチェレースは楽しんだ者が勝ちます。だからクードさんはこのレースに勝てます。そしてこれからも……きっと大丈夫です」


 クードの頬がみるみる赤くなっていく。頬を指でかきながら「うん……」と、いつもの調子の良さが嘘のように、しおらしい。


「僕はあなたのことを、待っています」


「レイさんっ……」


「クードさん、止まらないで、突き進んでください」


 かつては突き進んでいた僕だけど。

 今度は僕はあなたを待っています。

 一緒に進みたいから、これからを。


 クードは頬を染めたまま、ヘヘッと笑う。


「……今、めちゃくちゃレイさんを抱きしめたい気分だけど……今は我慢する。レイさん、俺、絶対に勝つから。待ってて」


 自分も笑みを浮かべ「はい」とうなずいた。

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