第38話 待っててね

「あれ……」


 五年前にも見たガラス窓がある室内。五年前は雨で暗い景色だったのに。

 外はいつの間にか雨はやみ、雲は消え、青空が広がっていた。あまりの変わりように自分は何日もここにいたのだろうかと考えた。いや違うよな、それはない。


 それにしても空がきれいだ。曇っていた胸のうちもなんだか澄んでいくようだ。

 でも視線を変えた時、自分の目に映ったのはあの時と同じようにベッド上に横たわる人物だ。同じように全てが真っ白になり、目を閉じた存在。何度も調子のいいことばかり言って、出会ってから今まで自分を散々振り回してきた人物。


 アルファだと自慢したり、何事も「大丈夫だ」だけで片付けたり。でもオメガを見下したりはせずに色々なことを励ましてくれ、本当に大丈夫にしてくれた。

 最初はなんだこいつと思っていた。十個も年下なくせに生意気なことばかり言ってラウチェのことも全然知らなくて、そのくせチャンピオンになりたいとか、どうしようもないなと思っていた。


 今ではその陽気さに自分は惹かれている。

 だから、できたら、一緒にいたかった。

 番になることはできなくても、一緒にいられたらな、なんて。かわいい子ぶるつもりじゃないが、そう思っていた。


「クードさん……」


 クードに近づき、白い掛け物の上に置かれた手に触れる。


「……準決勝、一位でしたね、転んじゃったけど。すごいです、慣れないアルグレーターに乗って一位を取るなんて。普通の人なら絶対にできない……ということは、できたあなたは相当な変わり者なんでしょうね。それともアルファだから? あと一勝で僕の記録に並べますよ。あなただったら、やってしまうんでしょうね、僕のラウチェに乗って」


 クードの手をギュッと握った。

 その手は、とてもあたたかい。


「だから、寝てる場合じゃない。起きて。あと一週間でアルグレーターとの信頼関係を結んでルーキーカップ制覇するんです――クードッ!」


 そのあたたかな手の甲に、自分は親指に力を入れ、爪を突き立てた。その途端、手がビクンと飛び跳ねた。


「いたたたたっ、レイさんっ、レイさん! イタイ、イタイ、イタイ」


 ベッドから飛び起きた彼は痛みから解放されるべく、手をつかんだ。


「ちょっと〜、ひどいよ、レイさん! オレ、一応怪我人よ? いたわってくんないの?」


「狸寝入りしてる、あなたが悪い。そしてこのイタズラは非常にタチが悪い。というかあなたが生きてんのか死んでんのかぐらい、顔色見ればわかる。それよりあなたの顔がもう最初からニヤけている。バレバレでレベルも低い最悪なイタズラだ」


「レイさん、しゃべり方が変わってるよ……わ、悪かったよ〜そんなに怒らないでよ」


 怒りたくもなる。こちらとしては五年前の悲しい出来事を思い出してしまったのだ、最悪だ……心配したのに。


「え、え、レイ、さんっ⁉」


 クードが慌てだした。なぜなら色々なものが込み上げてしまったせいで目頭が熱くなり、涙が止まらなくなってしまったからだ。

 依然、片手がクードにつかまれているので、反対の手で涙を拭う。だがまたすぐ出てきてしまう、止まらない。


「あなたのせいだっ、あなた、がっ……」


 違う、責めたいわけじゃない。無事で良かったと心から思っているのに言えない。クードが変なイタズラをするから、ふざけるから。触れた時のクードの手があたたかくて安心したから。


「レイさんっ」


 クードがつかんだ手を引っ張った。力の入らなかった自分の身体はベッド上に体重を預け、クードの腕に収まる。


「ごめん、レイさん、ごめんね。きっとつらいこと、思い出しちゃったんだよな。ごめん」


 自分の身体は彼の両方の腕で優しく包まれる。あたたかさは彼が無事だという証だ。ごまかすようにこんなことをして、本当にどうしようもないレーサーだ。


「でも大丈夫だよ、レイさん。オレはこの通り、大丈夫だ。次のレース、決勝戦も絶対に大丈夫。オレ勝つから」


 どこまでも自信過剰。でも彼が言うと大丈夫だと思えてしまうのが不思議だ。アルファだから?


「……アルグレーターの世話しなきゃダメ」


 鼻をすすり、そう言うと。クードは耳元で笑った。


「はいはい、全くもう、レイさんって会った時からずーっとラウチェのことばっかり……オレのことも見てよね」


「……見てるから、こうなっちゃったんじゃないですか」


「あぁ、それも、そう、かな?」


 こんなふうに抱きしめられ、安心できるなんて。調子の良いことを言うその口が喜びを与えてくれるなんて。自分が彼に惹かれているからこそ、起きている状況だ。

 ……クードはどう思っているのか、知らないけれど。


「ねぇ、レイさん」


「なんですか」


 彼は恒例のお願い事をしてくる時、必ずそうやって自分を呼ぶ。


「準決勝、勝ったから。お願い聞いてくれる?」


「……なんですか」


「こっち、向いて」


 クードが腕の力をゆるめたので、少しだけ身体を離し、顔を上げた。

 その時、クードの顔が近づくのがわかった。何をされるのかもわかった。

 でも自分はそれを拒まず、受け入れた。唇に誰かの唇が触れる感触……年甲斐もなく緊張してしまった。


「……レイさん」


 優しく名前を呼ばれ、顔が熱くなる。胸が苦しい。


「待っててね」


 何を、とまでは言わない。優勝するのを、か。もしくは退院するのを、か。どちらでも、待っているつもりだ。


 不意にクードが「あ」と短い声を上げる。何かと思ったら「退院するまで……ラックルズとアルグレーターのお世話、お願いします、ごめんなさい」だった。

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