第37話 悲しみ

 レイは走っていた。狭い通路を、行き交う人々の間を抜け、雨で湿った空気が漂う通路を脇目も振らずに走った。

 頭の中は真っ白で何も考えられない。自分の心臓が緊張と不安でものすごく早く動き、酸素を欲しているが息をするのも忘れていると思う。苦しいのさえわからない、ただ足が進む、息を乱しながらも足は動く。


 だが残念ながらたどり着いたレース会場の医務室は救護員や関係者で慌ただしくなっており、中に入ることは許されなかった。ベッドで誰かが横たわっている……誰かなんて、誰のことかはわかっているけど、それが自分の知る人物でなければ良いのに、なんて不謹慎なことを願ってしまう。


 結局、医務室の中にいた人物との面会はかなわず、ベッド上の人物はすぐさま担架で外に運ばれ、馬車で病院に運ばれた。そこは急患を受け入れてはいるが一般外来もある大きな病院。担架で運び込まれた人物がラウチェレーサーの服を着用しているのを見た患者達は「ラウチェでの事故だ」と理解し、苦しそうな面持ちになるのだ。


 運ばれた人物の関係者ということでレイは手術室前の小さな待合室で待つことが許された。閉じられたドアの向こうの様子はすりガラスで中を伺うことはできないが、数人の医療関係者がやはり慌ただしく動いているようだ。


 声もよく聞こえない。ボソボソと話しているんじゃなくて、どうか「よかった」とか「おー」とか歓喜の声を上げてはくれないだろうか。それを聞いたら、この不安で潰されそうな心が落ち着いてくれるのに。


 今さっきまで元気に会話をしていた。絶対勝つと豪語していた。その笑顔に自分はどれだけ救われてきたか。その笑顔で目覚めて「落ちちゃった〜」とのんきに言ってほしい。別に腕や足の一本が折れたぐらいなら自分が介抱してあげるから、どうか言葉をつむいで笑ってくれさえすればいい。そばにいて「大丈夫だ」と言ってほしい。


 どれぐらい時間が経ったかもわからない。ただ早く終われ、早く顔を見せてと願っていた。ただドアや天井をジッと見つめるしかできなくて、気がついたら手術室内が静かになっていた。


(あれ、手術は終わった……?)


 中からガタンガタンと何かが運ばれ、どこかに行く音がする。多分手術室とどこかの部屋がつながっていて、その部屋に運ばれていった感じか。あっという間に手術室内から音は消え、代わりに別の部屋からガタガタという物音だけがした。


(お、終わったの、終わったの……?)


 しばらくすると手術室のドアが解放され、中から全身白衣で身を包んだ医師が現れた。マスクで顔がよく見えないが、眉間にしわが寄っているようだ。


『ご関係者の方ですね、こちらへ……』


 声が重い。やめてほしい、そんな声を出すのは。終わったらならもっと明るい声を出してほしい。安心させるのも医者の務めでしょ……。

 レイが案内されたのは手術室から二部屋ほど離れた場所だ。そこのドアは開かれており、中にはベッドの足側が見える。


『こちらです』


 医師は廊下に立ち、先に入れと手で促してくる。やめてよ、なんでこの部屋、なんも音がしないの。機械が動いている音すらないの、無音なの?


 レイは垂れた両腕に力が入らないまま、何も考えずに室内に一歩ずつ入る。そこはガラス窓がある広い部屋だ。あいにくの雨天だから見える景色は暗いが、壁にかけられたライトが明るくとまでは言えないが、室内が見えるよう照らしてくれていた。

 多分明るすぎると“よく見えすぎて”つらいから、かもしれない。だから控えめにした明かりなんだ。


 室内には廊下からも足側だけが見えたベッドがある。白いシーツに白い薄手の掛け物。白い枕。

 そこに横たわる人物は目を閉じていた。先程ラウチェから落下してしまったせいで頬や額にはかすり傷がついているが、出血や汚れはきれいにされていた。レース用のスーツはすでに脱がされ、白い衣のようなものを着ている。


 レイは横たわる人物に近づき、掛け物の上に置かれた手に触れる。その手は雨に濡れたからなのか表面が冷たい。でもきっと奥の方にはまだあたたかみが残っているはず。そのうちにまたあたたかくなってくれる、はず、なのだ。


『ねぇ、起きてよ?』


 いつもだったら「ん〜」と寝ぼけながら目をパチパチとして。伸びをして「おはよう」と言ってくれるのだ。

 でも今は、何度声をかけてもそれはなく、手を揺さぶっても反応はなく。まぶたは開かず、唇は微笑を浮かべたまま動かず、手も足も動かず、胸は呼吸のために動いておらず、あたたかみは一向に戻らず。


『やめてよ、そんなの……起きてよ……』


 自分の身体が、自分の思う通りにはならず、くずれ落ち、ベッドに寄りかかる。何も言葉が出てこず、ただ、ただ息ができない。

 なんなの、この苦しさは、こんなの、身が千切れた方が楽なくらいだっ。


 起きてよ、起きてよ。ねぇ、起きてよ。

 勝つって言ったじゃない。

 結婚記念日、お祝いしようって言ったじゃない。


『フェルンッ……!』






 ふと、五年前のことを思い出した。

 そう、あの時も今と同じ状況だった。こうして手術室前の待合室で待たされ、自分はただ何もできずに彼の無事を願っていた。

 どうしていつもこうなのだろう、何かできたらいいのに、自分の命と引き換えに、この手術室の中にいる人が助かるとか、そんな希望があればいいのに。


 あの時と同じようにいつの間にか手術は終わり、中から医師が現れて「こちらへどうぞ」と言われて自分は別室に連れて行かれた。


 開かれたドアの向こうにはまたベッドの足側だけが見える。

 あぁ、また来てしまったのか。

 見なきゃダメ? このまま何も見ずに逃げ出したりしてはダメ? あぁ、いくらなんでも失礼だよね、一緒に頑張ってきたんだもの……。


 レイは垂れた両腕に力が入らないまま、室内に一歩ずつ入っていった。

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