第34話 レースは延期でいい
言葉が出なくなった。ただ全身がこの上なく安心できるものに包まれ、思わず息をついてしまう。でも頭の中は真っ白だ。ただ目がジリジリしていて、気を抜くと涙があふれ出しそうな気がした。
「……サータに言われた。レイさんから、もう絶対離れるなって。あんたはどこかに行ってしまうだろうからって。レイさんのことだから今回のことは全部オメガの不運のせいだって思ってるんだろ。それは違う、ただの偶然っていうか、自分が不運だって思ってると余計に運気悪くなるんだよ?」
クードは一度深く息を吸い、ゆっくり吐きながら腕に軽く力を入れる。
「だからレイさんのせいじゃない、もう逃げなくていい。オレの憧れのレーサーは常に前だけを突き進んでいたはずだ。そうだろ、レイさん。あんたがオレをここまで連れてきてくれたんだ、今度はオレがあんたを連れていってやるんだ」
その言葉は僕に言ってるのか、それとも憧れのカミリヤ選手……?
「医者にさ、もうレースはやめた方がいいって言われた」
耳を疑う言葉が聞こえた。
「心臓への負荷が大きい。せっかく新しく授かった命なのに、レースをしていたらそれを削ってるようなもんだってさ」
ではクードもあきらめなければならないのか。大好きなラウチェレースを志半ばで、自分のように。あれだけカミリヤ選手のようになりたいと強い憧れを抱いていたのに。
だが聞こえてきたのは「でもオレ、あきらめないよ」という力強い言葉だった。
「オレはあきらめない。たとえ心臓が動かなくなっても無理やり動かしてやるんだ」
レイはクードの腕を押さえ、顔を上げて彼を見た。
「で、でも、そんなことしたらクードさんは死ぬ可能性だってあるんでしょう。そこまでして、あなたはレーサーになりたいんですか」
「なりたいよ、というか、なる」
「なんで、そこまで」
「好きだから」
クードは自信に満ちた笑みを浮かべた。
「オレはラウチェレースが大好き。オレに生きる希望を与えてくれたものだもの。それで死ぬなら本望だし、何よりそんなことぐらいでオレの心臓は死なない……あ、元はオレのじゃないのか。でもオレの中にいる時点でオレの心臓でオレの一部だ。それにこの心臓の持ち主もラウチェ好きだったんじゃないかなって、オレ勝手な想像だけど思ってるよ」
「心臓の、持ち主……」
その言葉を聞いた瞬間、レイの脳裏にはなつかしい人の笑顔が浮かぶ。そう言えばクードが心臓移植の手術を受けたのも五年前だ。自分が最愛の人を失ったのも。
「な、なんでラウチェが好きだって思うんです?」
「ん? ん〜、なんつーか、オレは元からラウチェが好きだけど。手術受けてからさらに好きになったっていうか、レースとか見てるとドキドキが止まんないの。だから前よりもさらにマシマシでラウチェレースが好きだなぁって」
クードの笑顔がまぶしい。その裏には誰がいるのか。それは公表はされないことだからわからない。わからないけど、もしかしたら、ここにいるのかもしれない、あの人が。
「わ、レイさん……⁉」
レイはクードの胸に耳を当て、その鼓動に耳を澄ます。彼の中で、しっかりとした動きの脈動を感じる。クードが生きていると感じられる音。心臓が動いている音。ドクンドクンという音、心地良い音。
「……止めないで、この心臓」
「レイさん?」
「止まらないでください、クードさん……いつまでも、止まらないで……」
クードは恥ずかしそうに「わかった」と返事をする。その直後、廊下を誰かが歩いてくる足音がして慌てて身体を離した。近づいてきたのはサータを検査した医師だとわかり、話を聞いた。
サータは頭部に外傷を受けたが大丈夫だそうだ。ただ縫合はしているので抜糸するまでは激しい運動はできない。ラウチェレース七回戦目は残念ながら無理だと思われたのだが。
ここに来てさらなる事態が発生した。大会関係者からの通達があり、今回レーサーが負傷したという事件を受けて七回戦目の実施が無効となった。
次の八回戦目の準決勝と九回戦目の決勝は開催予定だが、始まるのはここから約二週間後とのこと。それならサータは復帰できる可能性があるが、クードが残念なのではないかとレイは気がかりだった。
しかしそんな心配はなかった。
「んあ? 七回戦目がなくなったからオレががっかりしてる? とんでもない。七回戦目は仕方ないけど、まだ準決勝と決勝が残ってる。それに勝利できれば晴れてオレがルーキーカップ制覇チャンピオンってわけじゃん。ものは考えようだよ、レイさん」
クードはあくまで陽気だった。それは自分を心配させないためのものなのか。
「それにサータとは、やっぱり最後まで一緒にやりたいしな」
とりあえず王都にいても気が休まらないということで、一度マーチャード牧場に戻ることにした。牧場で練習を積んで準決勝に備えるのだ。
「レイさん」
「なんですか」
クードはラックルズに、レイは牧場から借りてきたラウチェにまたがり、牧場への帰り道を進んでいた時、クードが企みのある笑みを浮かべて言った。
「準決勝に勝ったら、またお願い聞いてくれる?」
「またですか……今度は前みたいに悪目立ちすることはしないでくださいね」
「わかってるよ〜」
本当にわかっているのかと思うほど、クードは笑顔だ。レイは苦笑いするしかなかった。
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