第32話 だまして勝ったら

 サータは、つかんだ手に力を込めた。


「勝ったら、レイさん、再び輝くと、約束してください」


 予想もしなかった言葉に目を見開く。サータの目には、つい最近まで存在した戸惑いや嫉妬など、よどんだものはなく。以前の彼が持っていた澄んだ青い光を再び宿していた。


「俺もあきらめずに進み続けます。だからレイさんも前に進むんです。レイさんだって立ち止まっているべき人じゃない。もっと前に出るべき人なんだ」


「ちょ、ちょっとサータ……」


 それは自分に再び表舞台に立てということか。一度は退いた、あきらめた。それなのに全てに再び向き合えと?


「……できませんよ、そんなの」


 それに向き合えるほど、自分は強くない。あの時は若いこともあったし、支えてくれるものもあった。

 だが自分の尻込みを、サータは首を横に振って許さなかった。


「ほら、レイさんの悪いところはそこだ。きっと年だからとか、オメガだからとか、そんなことを考えているんでしょう。そんなこと関係ないです。レイさんは自分のやりたいことに挑むべきだ。だから“勝ったら”です。賭けですよ賭け。賭けには時の運が一番でしょう」


 そうだけど自分には乗れるラウチェがいない……と考えた時。お湯に浸かっていたラックルズがザバッとお湯を切って立ち上がり、同意するように鳴き声を上げた。


「ダメだよ、ラックルズ。君はまだ昨日レースをしたばかりだ。こんなことでケガをさせたら」


「レイさん、ラックルズだってそう言ってます。ラックルズもレイさんが好きなんです。好きな人には頑張ってもらいたいものです。自分のつらさとか苦しさ、そんなの関係なく、役に立ちたいと思うものですよ」


「ダメだよ、ラックルズ、君は――」


 自分も立ち上がり、ラックルズを止めようとした。

 しかしラックルズは羽を広げ、怒ったようにそれを拒否した。


「ラックルズ!」


「レイさん、お願いします」


 二人――いや一人と一頭からの強い後押し。そんなことを言われても、こんなくだらないことでラックルズを走らせたくはないが、ラックルズが言うことを聞いてくれない。それほどまでにラックルズも、サータも。自分をレースに出させたいのか。


(僕は……)


 自分が、本当に望んでいること……わかっている、だって自分のことだ。

 けれどそれができるのか、再び自分が。一度は捨てた身、不安が大きいのだ。


(やるべきか、やらざるべきか)


 賭けてみる……か。自分で決められないから、サータの言う時の運に。


「……わかりました、ただし、一周だけです」


「はい、じゃあ、この温浴施設の隣の敷地、トラックがありますから、そこに行きましょう」


 サータの青い瞳の輝きが意志の強さを感じさせた。彼のこの輝きを灯ったままにするためには手は抜けない。本気でレースをしなければ。

 サータと共に隣の敷地に移動し、ラックルズに手持ちの手綱をつけながら「ラックルズ、本当に、やるの?」と今一度確認する。ラックルズは「キュイ!」と力の入った鳴き声を上げた。


「全く……あきらめの悪さはご主人似だね」


 ため息をついてから覚悟を決めた。自分の姿を隠していた眼鏡を外し、長い金髪を後ろで結い、ラックルズにまたがった。


「おっとと……ラックルズ、元気だね」


 乗り心地はアルグレーターよりもソワソワしていて揺れる。それだけラックルズが体力にあふれ、闘争心があるということ。同じく自身のラウチェに騎乗したサータは「わぁ」と声を上げた。


「すごい、数年前に見たカミリヤ選手だ……やっぱり、かっこいい……」


「でも僕、本気で走るのは数年ぶりです。ラックルズにも慣れていないから、かなりサータさんが有利ですよ」


「そんなことないですよ、レイさんには実力がありますからね」


 そんな会話をしながら、トラックのスタートラインに横並びになり、ソワソワしているラウチェ同士を手綱を握ってその場に留める。久しぶりの感覚に身体が震えそうだ、でも心の中では風を感じるほんの少し前の緊張感に、心身が喜びを感じているのがわかる。

 やはり、自分は好きなのだ、これが。


「レイさん、行きますよ!」


「はい!」


 息を合わせ、お互いの準備が整ったのを肌で感じ「ゴー!」の合図でスタートした。

 ラックルズは想像以上にやんちゃな走りだった。とにかく前に前にと突き進み、風の抵抗が半端ない。自分の髪はすごい勢いで後ろに流れている。


(ラックルズ、無理はしなくていいから)


 これは本番じゃない。そう思いつつも、ラックルズはスピードをグングン上げている。そしてサータも今回は負けていない、ラックルズの速さに合わせ、横に並んでいる。サータをチラッと横目で見ると、メットをかぶっていない丸見えの表情は笑っていた、とても楽しそうだ。彼のそんな表情は初めてで、サータがやっと走ることを心底楽しんでいるということが感じられた。


(いいね、サータ、良い顔だ……そう、ラウチェは楽しんだ者が勝つんだよ)


 クードはずっと楽しんでいる。今までも、きっとこれからも。自分はそれについていきたい、見守りたい、それが本当の気持ちだ。


 カーブを曲がり、最後の直線。ラックルズにスピードを出さなくていいとは言ったが彼は全力で走り出していた。その風のすさまじさ、自分の身体に伝わる振動、ラックルズのぐんと上がる体温。全てが久しぶりの感覚で、自分の身体も燃えているような感覚を味わっていた。


(すごい、すごいよ!)


 横に並んでいたサータのラウチェが少しずつ距離を取り、気づけば斜め後ろに。


(ラックルズ、いけ――いけぇっ!)


 ラックルズの手綱を握りしめていた。勝てるという高揚感で、自分がいつの間にか笑っているのがわかった。

 やっぱりラウチェが好き、なんだなぁ……。


「あはは、やっぱりすごいや、カミリヤ選手は!」


 ゴールを通り過ぎ、ラウチェのスピードをゆるめてサータが大笑いした。


「最高っ! やっぱりプロってすごい! レイさん、全然イケてますよ! 俺、興奮しちゃった! すごい楽しかった!」


 はしゃいでいるサータを見ていたら、こっちまで楽しくなってしまった。

 けれど約束したから、そこは告げておかないと。


「サータさん、勝負は僕が勝ちました、だから――」


「はい、だからレイさんは前に進むんです」


 サータの言葉に「はい?」と語尾が上がった。


「ごめんなさい、レイさんを、ちょっとだましたような形になったかな……俺はさっき“勝ったら”としか言ってないんです。その“勝ったら”には俺かレイさん、どっちも含まれているんです。レイさんが“勝ったら”前に進む。俺が“勝ったら”レイさんに前に進んでもらう……どっちにもかけちゃいました」


「なっ、そ、そんなのずるいっ!」


 抗議したがサータは舌をペロッと出してイタズラをした子供のように振る舞った。なんだかクードみたいだ。


「それはレイさんがちゃんと聞かなかったし、言わなかったからですよ〜。ダメですよ、大人なんだから約束、ちゃんと守ってくださいね。じゃないとガイアさんにチクリますから」


 ラックルズから降りたら途端にため息が出た。十歳も年下に、してやられてしまったようだ。

 だが「わかりました」とは言えない。言いたいけど口が震える。


「レイさん」


 それを察しているサータは、もちろん後押しをしてくる。


「いいんですよ、レイさん。心のままに」


「サータさん……」


 その言葉に、全てが許されたような解放感を感じた。もうすでに、なんだかんだ言いながらも姿をさらしているし、ラウチェにも乗ってしまっている。

 ならば何も隠す必要はないのでは。

 誰も自分を責める者はいないのでは。

 そんな考えが心の中にふわりと浮かんできた。


『頑張れ、レイ!』


 記憶の中の、フェルンも――。


「僕は……」


 答えを口にしようと思った。

 だが次の瞬間、サータの身体がぐらつき、彼は地面に倒れた。

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