第7話 甘えるんじゃない!

 第二レース開始は一週間前に迫った。

 あれから毎日、クードには朝から晩までラックルズの世話をさせ、だいぶラウチェの扱いも慣れて信頼関係もできていた。ラックルズがクードを見ると、くつろいだ状態でも立ち上がるのがその証拠、クードが来るのを楽しみにしているのだ。


(これなら二回戦目も大丈夫だな……多分、あの感じなら地方選はクリアできそうだ)


 牧場内にある広いトラックをラックルズに騎乗し、走り回る姿を見ながら正直な気持ちでそう思った。クードの知識のなさ、楽天家さ、浅はかさ……全てがどうしようもないと最初は思ったが、やはり慣れるのも上達もひときわ早く、目を見張るものがある。


(こんなこと言ったら『オレ、アルファだからさ!』とか、同じ回答しかしなさそうだけどね)


 一緒にトレーニングをしているサータは、それは落ち着いてトレーニングに励み、時折ラウチェの手綱の引き方などをレクチャーすると、すぐに飲み込み、技術を上げていた。

 サータもアルファだ。アルファはやはり、どんなことにも素質があるのかもしれない。天性の素質、うらやましい限りだ。


「レイさぁーん!」


 呼び声に反応して顔を上げると。クードがラックルズを走らせながら手を振っていた。


「オレさー! 結構、いい感じでしょー? だからお願いが、あるんだけどさぁー!」


「ダメです」


「えー! まだ、なんも言ってないのにー! あ、ちょっと、ラックルズ! どこ行くんだよー⁉」


 ラックルズが空気を読んでくれたのか、クードの手綱さばきに歯向かい、遠ざかっていく。クードが言いたいことは言われなくてもわかっているが、それをさせるわけにはいかない。


 少しするとクードがラックルズから降りた状態でフラフラしながら戻ってきた。ラックルズは牧場の結構端までクードを連れ去ってくれたようだ。


「へぇ、ひぃ……全く、なんだよぉー、ラックルズ……向こうまで、走っといて、あとこっちに、戻って、くんねぇの……はぁ……」


「……クッ」


 クードの汗だくでグダグダな様子を見たら笑えてしまった。ラウチェに振り回されているのに、クードも怒ったりはしない。能天気なんだろうが意外と大らかなところは良いと思う。


「へぇ、はぁ……レイさん、ラックルズに、指示したろ……」


「そんなの、してないですから――うわっ、ちょっと⁉」


 フラつきながらやって来たクードがいきなり肩をつかまえ、体重を預けてきた。体格の良い彼の体重のせいで今度はこちらがフラついてしまう。


「ちょっとクードさん、重いっ!」


 よほど遠くから歩いてきたのか、たくさん汗をかいていて汗の匂いがふわっと香る。それに混じってくるのは彼の服についた甘い石鹸の香りだ。別に意識するものでもないはずだが初めてクードがこんな間近に来たから、つい慌ててしまった。

 クードは「へへ~っ」と怪しく笑っている。


「な、何を笑ってるんですか」


「いや、レイさんでも笑ってくれるんだな〜って思って。レイさん、ずっとオレに対して怒ってばっかりだったからさ」


 そう言われるとそうだが、でもそれは彼が悪いからだ。


「変なこと言ってないで、重いからそろそろどいてください」


 腕を押し退け、どかそうとしたが。彼はガシッと肩をつかんで離れない。久しぶりに感じる他者の体温、圧力……いささか息が詰まる、つまり緊張する。

 それなのにクードはわざと耳元で話しかけてくる。


「レイさんって、こんなに身体小さいのにレーサーだったんでしょ、どれぐらい記録いったの?」


 それは前も聞かれた質問だ、その時はごまかしたけど。

 その前に、距離が近い、近すぎる。耳に息がかかって身体がゾワゾワする。それを悟られないように腹に力を入れる。


「そ、それは昔のことだから覚えてないし……大した記録じゃ、ありません」


「そうなの? でもさ、サータがレイさんはすごい人だってずっと言ってるよ。まぁ確かにラウチェと会話ができる時点ですごいもんね?」


「ちょ、ちょっと……」


 近すぎると思って身体をずらそうとしているのに、クードは離れてくれない。なるべく彼の存在を意識しないように。頭の中でラウチェが走る姿を想像しながら、リラックスを試みる。早く話してクードを納得させなければ。


「そ、それは、まぁ、どうしてできるようになったかはわからないですけど。僕は幼少からラウチェのことが大好きで、しょっちゅう話しかけていました。そうしているうちに言葉がわかるわけじゃないけど、なんとなく気持ちがわかるようになった……それだけです」


「それだけって、でもすごいよな、それって。すごいと、オレは思うよ」


 最初は『瓶底眼鏡は嫌だ』とか文句言っていたくせに。まぁ、それは自分もだ。彼に対する嫌悪はひどかった。今は……少しは真面目に取り組む彼は良い感じだ、とほめることはできる。


「ねぇ、レイさん、下の名前なんて言うの?」


「えっ」


 まだ質問してくるのか、この距離で。

 しかもその質問か。


「レイさんがレーサーだったなら多分知ってるかも。オレ、小さい頃からレースは見てたから。せっかくだから知りたい」


「それは……」


 レーサーの登録は下の名前でするのが基本だ。レース中のアナウンスも下の名前で呼ばれるから上の名前を知られることは余程の知り合いでない限り、ほとんどない。下の名前を言えばどんな活躍していたのかは、まず間違いなくわかる。

 だがそれを知られるのはよくない……自分にとっては忘れたいことだから。


「レイさん、教えてよ」


 それでも、わざとかと思うくらい、クードは耳元で甘えるような声で話しかけてくる。

 全身を震わせるゾワゾワと、まともに呼吸できない酸欠寸前で、さすがにもう耐えられなかった。


「い、いい加減にやめてくださいっ! そんな甘えた声出したってアルグレーターには乗せられませんよ!」


 無理やり身体を離すと、クードは目を見開き、きょとんとした顔をしていた。


「やっぱりバレたか」


 悪びらないその態度に、次にはイラッとしてしまった。


「絶対ダメです!」


 彼が駄々をこねているのは、ずっと彼が言っている“お願い”についてだ。

『アルグレーターに乗ってみたい』

 それはかつてカミリヤ選手が乗っていたラウチェの名前だ。

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