第3話 アルファにイライラ

「マーチャードさん、もうすでに、しんどいのですが」


 その日の夜、仕事が終わってから執務室に乗り込み、オーナーに直訴した。


「悪い人ではないのはわかります。良くも悪くもただ純粋です。でも僕には彼の夢を後押しするだけの力はありません」


 椅子に座っていたマーチャードさんはいつもの苦笑いを見せる。それは息子の無茶振りに振り回して申し訳ない、と言いたげな笑みであり。

 次に見せた深い笑みは経営者としての自信に満ちたような笑みだ。


「レイなら大丈夫だ。あんな息子だが、レイならきっとできる」


 だがその自信に満ちた様子は今の自分には逆なでにしかならない。


「……なぜそこまで言い切れるんですかっ」


 相手は目上ということも頭から吹っ飛び、自分は声を荒げていた。


「あなたは息子さんの夢を応援したいんですよねっ、あの無謀でもあるルーキーチャンピオンになりたいという夢を、親としては叶えてあげたいんですよね!? 僕はもう何もできない身なのに。僕には無理なのに、なぜ大丈夫と言い切るんですかっ! 僕には、僕なんか……」


 息が苦しくなり、小刻みに呼吸をしてから(何言ってるんだか)と自己嫌悪……途端にむなしくなり、肩と視線を落とした。

 長い間、もう喜びも悲しみも抱くまいと、感情を起伏させることなく過ごしてきたのに。ここに来て増えた面倒ごとのせいで、つい感情的になってしまった。

 でもマーチャードさんは終始、優しくほほえんでいる。


「レイ、私はね、君にも幸せになってほしいんだよ」


 そんな慈愛を、自分はしかめっ面で「なんですか、それ」と反抗的に返してしまう。


「その言葉通りだよ。私は君のことを幼少の頃から見ているが君は笑顔で前に出ている時が一番素敵だった。君にだってまだまだ輝く権利はあるんだ、あまり自分のことを無下にするものじゃないよ?」


 その言葉に鼻の奥がツンとした。そんなの、もう望んではいないのだ。


「……とにかく、約束はできません。僕は本当に、もう何もできない。そして幸せになる価値なんかないのですから」


 それ以上、マーチャードさんは何も言わず、執務室から退室するのを許してくれた。

 退室したら、また一層むなしくなり、胸の奥がズキズキと痛むのを歯を食いしばって耐えるしかなかった。






「レイさん、レイさんってば!」


 晴れた空の下、風が吹き抜けて揺れる草を見ていたら。離れた位置からにぎやかな呼び声がして、ハッと振り返る。

 にぎやかな声の主は昨日からこの牧場に来たオーナーの長男。今日はスーツではなく、動きやすそうなブラウスとズボンという軽装だ。


「ラウチェ、到着したって! よかったじゃん、間に合っただろ?」


 ことの重大さを全く気にしていないクードを見ていたら、自分でもあからさまだと思うぐらいのため息が出ていた。


「よかったじゃん、と言われても。レースは今から数時間後ですよ。それまでにラウチェを環境に慣れさせる、あなたとの走り具合を合わせる。本当なら数日かけて行うコンディション調整を数時間でやるんですよ。あなた、完全制覇のチャンピオンになりたいのに、ラウチェが間に合わなくて出走できなかったらどうしてたんですか」


 言いたくもないのに小言がクドクドと出続けてしまう。自分、こんなに愚痴っぽかっただろうか、年のせいかな。


「えーでもさ、オレ、運は結構あるよ。今までも運で乗り切ってきた感あるし。だから大丈夫だろうって思ってた」


 さすが親子。大丈夫と思っていればなんでも乗り切れるらしい。


「運で全部が乗り切れるわけないでしょう」


「あー、あと素質もあるから平気だよ」


「またアルファだから、とでも言う気ですか」


 なんなんだ、この人は。

 昨日、ちょっとだけ彼に良い方に気持ちが傾いたのは撤回する。よくこんな適当な調子で養成学校も卒業できたものだ。

 確かにアルファはどんなことでも器用にこなす、頭も良い、運動神経も良い。だからといって全てが素質と運だけで片付くものではない。本人の努力もあってのことだ。

 ……努力もしてこなかった人に、簡単に高みを目指すと思われるなんて本当に腹立たしい。

 アルファだからって。


「ねぇ、レイさん。レイさんって普通?」


「普通って何が」


「だから、ベータ?」


 デリカシーのない質問。だから、なんだと言うのだ。


「そんなことはラウチェに関係ありません。いい加減にしないとコーチ、やめますよ」


 そんな脅しでクードはやっと「わかったよぉ」と納得した。くだらない会話をしている場合ではないのだ。

 クードに連れられた先、牧場の片隅には初めて見るラウチェが柵の中にいた。背丈は二メートルぐらい、七色の尾が元気に揺れる、まだ若いラウチェだ。


「じゃじゃん、これがオレのラウチェ、ラックルズだ」


 クードは得意げにラックルズを紹介すると頭をなでようとした。

 しかしラックルズは頭を振り払い、クードに触れさせようとしない。低い鳴き声は怒りを表している。


「……全く、だから言ったでしょう」


 初めて来た環境。どんな生き物でも緊張と不安を抱くもの。

 だがその気持ちを持っていてはレースには出られない。レースにはリラックスできるよう、ラウチェが楽しめるようにしてやらなければならないのだ。


「はじめまして、ラックルズ。僕はレイだよ」


 とりあえず安心させなくては。柵に近づき、握手を求めるように下から手の平をラックルズの顎下に向けた。


「長旅で疲れたね。ここの牧場には君の仲間もいる。だから怖くないよ」


 ラックルズは「キュイ?」と高めの声を上げ、首をかしげる。こちらの様子を、敵ではないかと伺っているのだ。


「うん、大丈夫だよ。慣れるまではお手伝いするから。あとでおいしい果物をあげるね」


 同意するようにラックルズが鳴くのを聞いてから、そっとラックルズの首に触れる。ふさふさの白い毛に手が埋もれ、ラックルズの熱い体温が手の平で感じられる。

 そばで様子を見ていたクードは「すげぇ」と声をもらしていた。


「な、なんでそんなすぐに近づけるんだ? ラックルズ、なかなか懐かないのに」


「それは懐かせようとするからですよ。ラウチェだって生き物です。生き物には好き嫌いがあります。僕はラックルズにリラックスしてもらおうとしているだけです。懐かせるとか、無理に仲良くしようなんて思っていない……それにあなたはこの子の世話をしていないから、この子はあなたを信じていないんです」


 好きなら自然に寄ってくるし、まめに世話をしてくれれば好きになってくれる。生き物はそういうものだ。ラックルズは気持ち良さそうに目を細め、身体を触らせながら「キュイキュイ」と鳴いている。


「ふふ、ラックルズはお話が好きなんだね。うん、そうか、走るのも好きなんだね。じゃあさ、ラックルズにお願いがあるんだ。もう少ししたら仲間と一緒に走るレースがある。それに出て、思いっきり走ってくれるかい」


 ラックルズは返事をするように、ひときわ大きく鳴いた。よかった、とりあえず大丈夫そうだ。


「クードさん、ラックルズ、走ってくれるそうです。よかったですね、優しいラウチェで」


 クードは何度もまばたきをしていた。別に驚くことをしたつもりもないが呆気に取られているようだ。


「っていうか、レイさん。ラウチェと会話できてるって、すごくない? ラックルズを説得したの、マジ?」


「すごいかどうかはわかりませんけど。僕がラウチェに話しかけるとちゃんと返してくれるだけです。ほら、とりあえず少しでも乗る練習。ラックルズを慣れさせる。そうしたらご飯と水とブラッシング、あとレースに行く支度する」


「なんかラックルズに対するより冷たいなぁ……」


 クードがブツブツ言っているが無視した。やることはたくさんあるのだ。

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