星を掴んだ夜

みやしろ

第1話

 金曜日にだけやってくる、名前の知らない『きみ』がいる。

 真っ暗な浴室にいるぼくのところに、『きみ』は勝手にやってきて、そうして好き勝手に話をして、また不透明な扉の向こうに消えていく。金曜日にだけ、だなんておかしな話だ。それに、勝手に来て勝手に帰るだなんて、随分と不作法だ。それでも『きみ』に文句を言わないのは、『きみ』は浴室に入ってくるとき、ドアノブに手をかけることを躊躇っているのだと、ぼくが知っているからだ。

 ねえ『きみ』、今日は何の話をしてくれるの? ぼくがそう問いかけると、『きみ』は切れかけの照明が気味悪く照らす床にどっかりと座り込んだ。ズボンが濡れることなんて、お構いなしだ。暗いブロンドの髪が一房、頬を通って首筋にかかって、『きみ』は鬱陶しそうにそれを払う。『きみ』はその色が嫌いみたいだった。沈みかけの夕陽みたいで綺麗だと言うと、見たことなんてないくせに、と『きみ』は薄く笑った。

「今日は君に、ひとつ質問をするよ」

 これを見てごらん、と『きみ』は握っていた右手をゆっくりと開いた。するとそこには、細いフレームの金の指輪。鈍く光沢を放つそれは、何の装飾もついていないけれど、どこか不思議な高尚さが感じられる。ぼくは言われた通りに指輪をじっと見つめて、そこになにかあるのかと隅々まで視線を巡らせる。なんだろう、わからない。少し古いけれど、普通の指輪に見える。助けを求めるように『きみ』を見ると、『きみ』は今までに見たことのない、すべての感情を掻き消してしまったような無表情でそこにいた。怖い、けれど、ぞっとするほどに綺麗だ。

「なにも、わからない?」

「……わからないよ、なにも」

 ぼくがそう言うと、『きみ』はふっと気の抜けたような笑みを仄かに滲ませた。怖い顔ではなくなったけれど、今の『きみ』はどこか歪な空気を纏っている。まるで、心臓から指先まで見えない仮面に覆われてしまったみたいだ。こうして『きみ』は、自分の心を消費して、いろいろなものを諦めてきたのだろうか。どうしてだかふと、そう思った。

 指輪を手のひらに握り込んだ『きみ』が、じゃあ、と無感動な声を落として浴室の扉を開ける。『きみ』はいつも少ししか扉を開けないから、その先は見えない。ぼくの知らない世界を、『きみ』は教えてはくれない。いつだって『きみ』は、ぼくの先にある何かを見ている。


       *


 神秘は人の創造だ。豪奢に飾り立てられ、目が眩むほどの光沢を纏った聖堂の内部に、デイビッドは静かに目を伏せた。隣にいる同居人は何の興味も見せずに、むしろ嫌ものを見た、とでも言いたげなうんざりとした顔をしている。一介の画家として、何かインスピレーションを刺激されたりしないのだろうか。ここまで来てその反応はないだろう、とは思うが、信仰を持たない人間にとっては所詮そんなものなのだろう。

 ここは、サン・ピエトロ大聖堂。ヴァチカンの南東端にあるこの教会は、カトリック教会の総本山であり、歴代のローマ教皇の多くが眠る墓所でもある。ローマ帝国時代に建造されたのだというこの世界最大の大聖堂は、歴史的価値も高く、日々大勢の観光客で賑わっている。せっかくヴァチカンを訪れたのだから、と初日に来てみたが、隣にいる同居人のことをもう少し顧みるべきだっただろうか。今にも死にそうな顔色をした彼は、気心の知れたデイビッドから見ても、不敬を通り越していっそ哀れだ。

「アイザック、もう出るか?」

「いや、俺だけ外にいるから、デイヴはちゃんと見てこいよ」

「そんなに教会が嫌なら言ってくれれば良かったのに」

「俺が嫌なのは、教会じゃなくてこの地下。お綺麗なおべべ着せられた死骸がこの足の下に横たわってるなんて、虫唾が走るね」

 アイザックはわざとらしく顔を顰めて、不敬極まりない台詞を吐き捨てると、早足に聖堂から出ていった。ただ一人残されたデイビッドは、彼の教会嫌いは今に始まったことではないので、構わず内部に足を向ける。ふと見上げた天井は神々しいほどのアーチを描いている。天窓から降り注ぐ光はまるで別世界のようで、どうしようもなく遠かった。


 アイザック、と形作ろうとしていた音を、咄嗟に飲み込んだ。

 彼は、司祭のような風貌をした男と話しているようだった。和やかな雰囲気とは到底言えず、時折声を荒げて口論しているように見える。踏み入ることを憚ってしまうほどの重い空気に、デイビッドは一歩後ずさった。

 アイザックがあんな声で人と話しているところなんて、見たことがない。デイビッドの前でさえ滅多に怒ることのない彼があそこまで凄むだなんて、あの男がよっぽどのことをしたのだろうか。それとも、あの男とアイザックは知り合いなのだろうか。デイビッドとアイザックの繋がりは脆い。お互いの存在を確立させている過去を、一欠片だって知らない。ほんの少し離れても近づいても立ち行かなくなるような、薄氷の上に成り立った関係だった。

 二人が話し終えるまで、別の場所で待っていようか。あれは自分が聞いてはいけないものなのだと、漠然とそう思う。踵を返して聖堂に向かおうとすると、その直前で不意にアイザックの視線がデイビッドとかち合った。

「デイヴ! いたんなら声かけろよ」

「話してたから、邪魔しちゃ悪いと思って」

 アイザックは男の横をすり抜けて、デイビッドに駆け寄った。つい先程まで話していた男なんて見えていないような態度で、デイビッドに軽く笑いかけた。いつも通りの、アイザックだ。先程の剣幕なんて、少しも感じさせない。

 デイビッドが伺うように男の方を見ると、男は呆れたように溜息を吐いて、アイザックの背中を見つめていた。白髪混じりの頭に被された赤いズケットと、不機嫌そうに細められた目。鮮やかなグリーンの虹彩が、誰かと似ている気がした。

「ほら、終わったならもう行こう。まだ行きたい場所があるんだろ?」

「え? ああ、そうだな」

 強く腕を引かれて、デイビッドは少しふらつきながらもアイザックに着いていく。男の睨め付けるような視線に後ろ髪を引かれる思いがしたけれど、デイビッドは彼と知り合いというわけではないし、二人の事情も知らない。胸の底にわだかまりを残しつつも男に背を向けると、落ち着いたテノールの声が鼓膜を揺らした。

「いい加減、意地を張るのはやめたらどうだ。エマヌエーレ、お前は……」

「俺がここに戻ることは、絶対にない。どうしてもっていうなら、家名を畳むんだな。……それと、俺をその名前で呼ぶな。吐き気がする」

 アイザックは振り返ることなく、そう吐き捨てた。瞼をそっと伏せて、痛みに耐えるような顔をしている。傷ついた子供のような、そんな顔。デイビッドがアイザックに初めて会ったときも、彼はこんな顔をしていた。「デイヴ、早く行こうぜ」とアイザックの呼びかける声が、いつもより重く、頭を揺さぶった。


「あれさあ、俺の父親なんだ」

 アイザックはぽつりとそう呟いた。デイビッドが思わず咀嚼を止め、前に向き直ると、なんでもないような顔をしてダブルチーズバーガーにかぶりついている。アイザックの耳にごちゃごちゃと付けられた派手なピアスが、陽光を鈍く反射していた。

 アイザックはそれ以上何も話そうとしないし、デイビッド自身も深く聞く気にもなれなくて、ふうん、と気のない返事がこぼれた。少し前屈みになって、冷めかけのハンバーガーを口に運ぶ。その拍子に、シャツの内側に入れていた銀のチェーンが胸元に零れ落ちた。大衆向けに調整された無難な味を口いっぱいに感じつつ、まあいいか、とデイビッドはチェーンを曝け出したままに食べ続ける。

「それ、ずっと着けてるよな」

「うん、まあ。……これ、なんだと思う?」

「何って」

 デイビッドが指し示したのは、チェーンに通されてぶら下がった指輪だった。細いフレームのそれは、元は金色だったのだろうが、恐らく古いものなのだろう、所々がくすんで、光沢などとうに消えてしまっていた。

 アイザックはそんなガラクタを、ぐっとテーブルに身を乗り出して凝視している。そして、しばらく角度を変えながらじっと指輪を観察すると、結婚指輪じゃないか? と首を傾げながら呟いた。

「内側に、名前みたいなのが彫ってある。潰れてて読めないけど、同じようなのを見たことがあるんだ」

 アイザックのその回答に、デイビッドは虚をつかれたような表情を見せた。そうして、穏やかに目を細めて、ゆるりと口元に弧を描いた。懐かしむような顔で、デイビッドは口を開いて――違うよ。そう、静かに声を落とした。


       *


 今日も月は無く、切れかけの蛍光灯だけがぼくの灯りだ。けれど今日は金曜日だから、月光のような色をした『きみ』が、この浴室にやってくる。

 『きみ』はいつものようにここにやってきて、無造作に床に座り込んだ。ぼくより一回りも二回りも大きな身体をした『きみ』は、いつもよりもどこか陰った表情で、ぼくを見下ろしている。

「君にひとつ、謎かけをしようか」

「謎かけ?」

「そう、正解のない問いだ。難しく考えなくていい」

 『きみ』はそう言って、じっとぼくの目を見た。射抜くような視線は、波紋のない水面のように張り詰められている。なにかあったのだろうか。前に会った時から、『きみ』はこんな空気を纏っている。

 はあ、と薄く息を吐くと、『きみ』はゆっくりと目を伏せる。そうして、どこか躊躇うように、ぼくと合わせていた視線を逸らした。

「……たとえば、僕が記憶を失ったとして。家族のことも、友人のことも、君のことも忘れてしまって、性格すら真逆に変わってしまったら、それはここにいる僕と同一だと言えると思う? それこそ、魂ごと変わってしまったみたいに」

 ともすれば掠れてしまいそうなほどに繊細な声で、『きみ』は言った。息の止まりそうな空間で、お互いの瞬きの音すらもが聞こえてしまいそうだった。

 もしも『きみ』が全てを忘れてしまったら、と。そう『きみ』はぼくに問いかけた。記憶を失った『きみ』はきっと、静かに波打つような声も、優しくぼくを諭すような話し方も、たまに見せる綻ぶような笑い方も、そのすべてが今とは違ってしまっているのだろう。ぐるぐる、ぐるぐる、それらを想像してみると、どれもしっくり来なくて可笑しかった。そもそも、『魂ごと変わってしまった』時点で、答えなんて決まっている。

「それは、『きみ』ではないと思う」

「どうして?」

「……魂は人の不滅の本質なんだって、どこかで読んだんだ。死んだあとにも、魂は残るんだって。魂まで変わってしまったら、それはきっと、その人の本質まで変わってしまったということだと思うから」

 そう、と『きみ』は小さく頷いて、何かを確かめるように俯いて自分の手のひらに目を落とした。前髪が目元に影を落として、その表情はなにもわからないけれど、『きみ』はまた、この頃よく見せる、あのふとした瞬間にほどけてしまいそうな顔をしているのだと、どうしてかそう思った。


       *


 身支度を整え、最低限の手荷物をまとめていると、「今日はどこに行きたい?」と寝間着のままのアイザックが洗面所から顔を出した。まだそこまでしか準備できていないのか、と思いつつも、一旦手を止める。

「サンタ・マリア・デル・ポポロ教会だ」

 『土の礼拝堂』と呼ばれるキージ礼拝堂を保有するこの教会には、今にも動き出しそうなほどに鮮やかに描かれた、天使の彫刻がある。信仰の象徴である白い翼と純粋無垢な肢体は、しかし決して動くことはなく、聖なる教会に閉じこめられている。


 ルネサンスを生きた建築家・ラファエロは、サンタ・マリア・デル・ポポロ教会の建築を請け負い、またその内部に自身の墓を設計した。彼は、自身の墓を豪奢に飾りたかったのだろうか。美術館ともいえるほどに各時代の美術品が集まったこの教会は、シンプルな外観とは裏腹に、華やかな芸術作品が天井や壁に溢れんばかりに展示されている。

 どこもかしこも、己の信仰を鮮烈に描いた極彩色ばかりだ。壁や柱は無機質な白色のはずなのに、それさえもが色鮮やかに見える。デイビッドの視界に色が飛び交って、思わず目を細めた。隣にいるアイザックを見ると、彼はデイビッドよりもよっぽどひどい顰めっ面をしていた。そんなに嫌なら、どうして一緒に来たのだろう。今朝、来なくても良いと言ったのに。アイザックはどうしてか、このローマ・ヴァチカンでの巡礼において、デイビッドの案内人であるということに何か強い意味を見出しているようだった。

「アイザックも、一応は画家として、この教会には興味があると思ったんだけど」

「残念ながら、宗教画は趣味じゃないんだ」

 アイザックはそう鼻で笑って、さっさと回って飯食いにいこうぜ、とデイビッドを追い越していった。朝食を食べたばかりなのに、もう腹が減ったのか。そう言うとアイザックは、この近くにティラミスが美味いカフェがあるんだ、と楽しげに笑った。

 石壁から浮き出るように彫刻された一対の天使たちは、ただただ無垢に戯れて、人間に目を向けることはない。

 

 浅いガラスの器に盛られたティラミスを苺と一緒に一掬いし、口に放り込むと、ぷち、と果実を噛み潰す音とともに、苺の酸味となめらかなクリームの甘みが口の中に広がった。ティラミスはあまり食べたことがないけれど、イタリアでの有名店ともなれば、格別な美味しさなのだろうと予想がつく。

 デイビッドの向かいに座るアイザックはヘーゼルナッツのティラミスを食べていて、この国に来てからどこか空元気で過ごしていた彼も、頬を少し綻ばせて穏やかな雰囲気を滲ませている。アイザックは粗野な性格をしているが、存外甘いものを好む。もしもここが彼の故郷なのだとしたら、もしかすると馴染みの深い店だったりするのだろうか。

「教会は楽しめたか?」

「まあ、ね」

「あんなものを見て楽しむなんて、気が知れないな」

 そう言ったアイザックに適当な相槌を打って、デイビッドは最後の一口を飲み込んだ。冬に近づき始めた風のせいか、口直しに喉に流し込んだコーヒーは苦味だけを残して冷めてしまっている。テラス席にしたのは間違いだっただろうか。

「君はどうして、そんなに教会を煙たがるんだ?」

「……だって、信仰は人の妄信だろう。そんなものを神聖視するなんて、正気とは思えない」

「僕も一応、キリスト教徒なんだけど」

「理解はできないが、お前の信条なら否定しないさ。悪趣味だと思うが」

 アイザックのその言葉に、デイビッドは一瞬面食らったような顔をする。どうかしたのか? と不思議そうな顔をしたアイザックに、なんでもない、と返しておくと、アイザックはなんの疑いもなく納得したようだった。

 アイザックは時折、今のように、デイビッドを過剰に信頼しているような物言いをする。多分それは、二人が出会ったときからずっとだ。お前の言うことなら信じる、全てを許容する、と、デイビッドには重すぎる信頼を、アイザックは抱いている。

「テセウスの船ってあるだろ。思考実験の」

「ああ、船の材料の全てを変えてしまったら、それは変える前と同一なのかっていう、生産性のない馬鹿げた問題提起」

「捻くれた言い方だな。それで……アイザック、きみはこれについてどう思う?」

 デイビッドがそう問いかけると、アイザックは一瞬驚いたように表情を固まらせた。散々その思考実験について扱き下ろした俺に聞くのか、とでも言いたいのだろう。けれど、面倒くさそうに顔を歪ませたアイザックのことなんて気にせず、返答を待つようにデイビッドは彼の目をじっと見つめる。ステンドグラスのようなブルーの色彩に、閉じ込まれてしまいそうな心地になる。

 アイザックは、テセウスの船なんて思考実験に興味はない。船なんてものは、修理の前と後とで同一かどうかなんてことに関わらず、使うことに価値があるからだ。人間に関しても同じく、アイザックは他人にそこらの石ころと同等程度の価値しか見出さないから、その外皮や中身がすげ替えられようが、どうでもいい。着眼点がこの問題の趣旨と反していることは自分でも承知しているが、それでもアイザックは答える気にはならない。

 それならば、興味のあるもの――つまり、デイビッドだったらどうだろう。アイザックの興味と関心は、出会った時からデイビッドだけに向けられている。画家として、明確に描きたいと求めたのは、後にも先にもデイビッドだけだ、と確信に近い何かを抱く。

 もしも、デイビッドの外側が変わってしまったら、それはデイビッドと言えるのか。また、その逆にデイビッドの中身が変わってしまったら、それはデイビッドといえるのか。なんて簡単な問題だろうと、アイザックはふっと笑みをこぼす。だって自分は、彼のすべてを切り裂いてしまいそうな鋭利な横顔に、彼の脆い内面にどうしようもなく惹かれているのだ。

「テセウスの船なんて知らないが、お前に関して言えば、お前の外面や内側が変わろうが、俺はお前をデイヴと呼ぶよ。どちらが変わろうが、もう片方が残ってる。半分欠けていようが、それはお前だから」

 当然とでもいうようなあっけらかんとした声音でアイザックがそう言い放つと、デイビッドは虚をつかれたような顔で固まって、そうして頬を緩ませた。


       *


「今日の『きみ』は、機嫌が良さそうだね。何かあったの?」

 浴室にやってきた『きみ』にそう問いかけると、君が気にすることじゃないよ、といつもよりも幾分か穏やかな表情で返される。教えてもらえないのは少し残念だけれど、『きみ』に良いことがあったことで、自分のことのように嬉しい気持ちになったのが、どこか可笑しかった。

 最近の『きみ』は、少し奇妙だ。ぼくに質問をしたり、時折無性に不安そうな顔をしたりする。前はただこの浴室にやってきて、僕が一方的に話すのを聞いているだけだったのに。どうしてだろう、とは思うけれど、『きみ』は秘密ばかりだから、きっと何も教えてくれないのだろう。

「ねえ、今日も謎かけをするの?」

「よくわかったね。もう慣れたのかな」

 そう言うと、『きみ』はゆるりと微笑む。そんな優しい顔は初めて見た。嬉しい、と思うけれど――どうしてだろう。『きみ』のその表情は、ぼくに向けられるべきではないと、そう思ってしまう。

「今日の質問は……そうだな。君は、愛ってなんだと思う?」

「愛?」

 鸚鵡返しに聞き返したぼくに、『きみ』はそうだよ、と肯定の言葉を返す。親愛とか、友愛とか、恋愛とか、そんなものをひっくるめて、「愛」とは何なのか。僕はそれを聞いているんだ。そう言った『きみ』の目は、凪いだ水面のようだった。

 漠然とした問いだ、と思う。愛が何かだなんて、はっきりと答えられる人はいるのだろうか。取り止めのない思考を振り払って、答えを探す。愛って、何なのだろう。ぼくはなにかで、この答えを読んだ気がする。愛、ぼくが知っている、愛は――

「……純粋で、慈しむもの」

 零れ落ちるように、言葉が転がり出た。純粋で、慈しむもの……口の中で反芻すると、これだ、とどこかしっくりと当てはまる感覚があった。ぼくは一体、これをどこで知ったのだろう。ぐちゃぐちゃの思考を重ねていくごとに、頭にずんと重石を乗せられたような痛みが走る。どうしてだろう、ぼくはこの感覚を、手放してはいけない気がする。


       *


「サン・ピエトロ大聖堂に来た時、ここにも寄ればよかったのに」

 巨大な壁画を見上げながら、アイザックは呆れたように呟く。そんな彼にデイビッドは、忘れてたんだ、なんて言い訳を目の前の友人に並べた。実際のところ、この審判の絵画を見ることを避けていただけなのだけれど。

 ここ、システィーナ礼拝堂は、二日前に訪れたサン・ピエトロ大聖堂のすぐ北側に位置する礼拝堂であり、ローマ教皇を選出する会議、コンクラーヴェの会場として使用されている、宗教的に重要な建物である。ルネサンスの芸術家たちが描いた装飾絵画によって飾られている内部でも特に目を引くのが、世界的に有名な壁画、『最後の審判』だ。デイビッドはこれと向き合う気持ちの踏ん切りがやっとつきかけてきたので、ようやくこの礼拝堂に足を運んだ。

 『最後の審判』は、イエス・キリストによる死者への裁きを描いた宗教画だ。左側に天国へと昇天していく人々と、右側に地獄へと堕ちていく人々という、四百人を超える人間と中央に立つイエス・キリストによって構成されている。壁一面に描かれたこの壁画は、その一筆々々に信仰心が詰まっているようで、直で目にすると圧巻だ。

 この壁画を避けていたのはただ単に、デイビッドに消えない罪の意識があったからだった。本でこの絵画を目にしたとき、漠然と、自分がいるのはきっと右側なのだろうと確信した。拭えない罪悪感は、いつだってデイビッドの根底に燻っている。その罪悪感こそが、今のデイビッドを形作っているのだから。


「愛って、なんだと思う?」

 デイビッドがこぼした独り言のようなその問に、ベッドに寝転がってスマホを弄っていたアイザックは、どうかしたの、と彼の顔を見上げた。いきなり哲学的なことを言い始めた友人にアイザックは怪訝な顔をするも、デイビッドがいつもとさして変わらない無表情でいることに、ひとまず安堵する。

「いきなりどうしたんだよ」

「別に、ただ聞きたくなっただけだよ」

 ふうん、とアイザックは興味なさげな相槌を打って、隣のベッドに座っているデイビッドに向けていた目を閉じる。瞼の裏側に透けて見える電球の光が、どうにも煩わしかった。ひとつ寝返りを打って、光から目を逸らす。

 返事をしないアイザックに、デイビッドは会話を諦めたのか、自分もベッドに身体を寝転ばせる。背後にその動きを感じながら、アイザックは少し考えて口を開いた。

「致命傷、だろ」

 一度その感情を抱いてしまったら、弱点にも重しにもなる。きっと、その方向がどんなものであれ、その感情を抱いたという事実はきっと、銃創のように残り続ける。愛するということは、そういうことなのだろうと思う。そして今、アイザックにとっての致命傷は、デイビッドのかたちをしている。

 アイザックの返答を聞いて覇気のない相槌だけを返したデイビッドに、意趣返しとでもいうように、アイザックはそちらに身体を転がして、「お前はどうなんだ」と同じ質問をする。するとデイビッドは、狼狽えることもなく、すうっと奏でるように言った。

「――あんなもの、破滅以外の何者でもない」


       *


 『きみ』は最近、頻繁にこの浴室にやってくる。以前は、やって来たとしても扉に手をかけたまま躊躇って、そのままどこかへ行ってしまうことも少なくなかったのに。毎回ぼくに出す謎かけも奇妙だし、ここ最近の『きみ』は、まるで何かを急かしているみたいだ。

 そして今日も『きみ』は、当たり前のようにここにやってきて、ぼくの前に座った。一人でいるときは寂しいくらいに隙間を感じてしまうのに、『きみ』がいると窮屈にさえ感じる。きっとこれは、幸福なことなのだろうと思う。このぬるま湯みたいな関係がずっと続けばいいのに、なんて馬鹿なことを考えた。

「今日も謎かけをしようか」

「また? 最近、そればっかりだ」

「……どうしても、必要なことなんだ」

 『きみ』はそう、なんだか疲れたような顔をして言った。少し心配だけれど、ぼくにはどうすることもできないから、そう、と曖昧な返事をするだけにとどめる。『きみ』といるとき、こうして会話が途切れてしまうことは珍しくないけれど、こんなに居づらさを感じるのは初めてだ。伺うように『きみ』を見ると、『きみ』は俯いて、握りしめた拳に目を落としていた。しばらくすると『きみ』は、想像しながら聞いてほしい、と低い声で話し始めた。

「暴走するトロッコの軌道上に、五人の作業員がいる。君の前にはスイッチがあって、それを押せば、トロッコの軌道を変えることができるけれど、変えた軌道の先には、一人の作業員がいる。ただし、五人の作業員は全く知らない人間、一人の作業員は君の最も大切な人間としよう。……君は、ボタンを押す?」

 がらんどうのブルーが、試すようにぼくの目を覗き込んだ。

 『きみ』の質問は、前とは違って明瞭だ。要するに、五人の命と一人の命、ぼくがどちらに重きを置くのか、ということ。どうして『きみ』はそんなことを聞くのだろう。正しい答えなんて、『きみ』ならわかっているはずなのに。

「ぼくは、ボタンを押すよ。人の命の価値は平等だから、それが五人分もある方が、価値は重い」

「一番大切な人が死んでしまっても?」

「それでも、命の価値はみんな等しいから」

 君はやっぱり、それを選ぶんだね。『きみ』がかすかに呟いたその言葉が、とても小さな声のはずなのに、頭の中で痛いくらいに反響した。そして、『きみ』はそれだけを言って立ち上がる。そのとき不意に、襟元からチェーンが覗いた。銀色のそれは、ネックレスのように使われているらしく、先には金色の何かがぶら下がっているようだった。照明に反射して鈍く光るそれは、どこか濁って見えた。


       *


「サイダーとスプライト、どっちが好き?」

 アイザックがそんな質問を投げかけたのは、デイビッドがホテルの部屋のドアに手をかけたときだった。ちらりと振り返ると、ベッドに寝そべったままにこちらを見上げるアイザックと目が合う。

 今日、デイビッドは一人で行動する。アイザックはついて行きたがったが、行き先と目的をアイザックに伝えることが憚られた。だから、アイザックは今日、ホテルに一人で残ることにしたらしい。一人で観光でもしてくればいい、と言ってはみたものの、「お前の案内ならともかく、一人でこの国を回るなんてごめんだ」と一蹴されてしまった。

「サイダーかな。スプライトは飲んだことがないんだ」

「うわ、もったいないな。あれ美味しいのに」

「じゃあ、君はスプライト派?」

「いや、俺はモンスターエナジー」

 さも当然のように選択肢外の回答をするアイザックに、デイビッドは深く溜息を吐く。仕事だと言ってエナジードリンクを片手にキャンバスと向き合っている姿はよく見かけるが、制限を決めた方が良いかもしれない。エナジードリンクは寿命の前借りなのだと、どこかで聞いたことがある。

 呆れたようにアイザックがデイビッドを見ていると、不意に、アイザックの笑みを浮かべられていた顔から、すうっと表情が消えた。なあ、と緊張感を孕んだ声が、デイビッドの鼓膜を揺さぶる。

「俺との約束、忘れてないよな。お前の巡礼が終わったら――」

「覚えてるよ、ちゃんと」

 抑揚もなく言うアイザックに、デイビッドは窘めるような響きを持って、その声を遮る。するとアイザックは、ぱっと柔らかな笑みを顔に貼り付けて、それなら良いんだ、と快活に言った。


       *


「――懺悔を、します」

「僕は、決して許されない罪を犯しました」

「赦されたいわけではないけれど、それでも、償う前に懺悔をしたい」

「主よ、どうか、僕の罪を聴いてください」

「僕は――母を、殺しました」


       *


 何かが、おかしい。

 ずっとこの浴室にいるけれど、こんなことは初めてだ。まるで、一夜のうちに何年も経ってしまったみたいだ。怖くて、不安で、寂しい。どうか、どうか早く来てくれ。『きみ』の冷涼な気配を、たまらなく求めている。

 カーテンを挟んだ先にある浴槽から、ゴボ、と液体が泡立つような音がした。引き攣ったような音が喉から漏れて、けれどそれを聞く人は、ぼく以外に誰もいない。どうして『きみ』は、こんなときにいてくれないんだ。

 そんな時、ふと扉の向こうに馴染みのある気配を感じた。『きみ』だ。間違いない。ぼくが間違えるはずがない。ぼくにはその気配がまるで救いのように感じられて、扉に透けて見える『きみ』の影に追い縋る。

「ねえ、どうして入ってこないの? なんだか、おかしいんだ。空気が冷たくて、浴槽から変な匂いがするんだよ」

 足先に、どろりとした生温さを感じた。ひっ、と思わず短く悲鳴を漏らして振り返ると、浴槽から赤い液体が溢れ出ていた。つんとした鉄臭さが鼻を刺す。なんだ、何が起こっている? 息が荒くなってドンドンと扉を叩く。

「助けてよ、浴槽が真っ赤なんだ。怖いよ、ねえっ——」

「まだ、わからない?」

 苛立ちの滲んだ声だった。初めて見せる『きみ』の怒りの感情に思わず肩を震わせた。どうして『きみ』はこんなにも怒っている? 

「君は、知っているはずだよ。もうそろそろ、自分の罪を思い出すべきだ。何も知らずにここに閉じこもるだなんて、僕は許さない」

「何を言ってるのか、何もわからないよ。ねえ、助けて、助けてよ、『デイビッド』!」

 その名前は、するりとこぼれ出た。デイビッド、なんて名前、ぼくは知らない。『きみ』の名前なんて、ぼくは知らないはずなのに。

 浴槽から溢れている赤色は、もう床の全てを覆っている。それが止まる気配はなく、しまいには、ぼくを呼ぶ声まで聞こえてきた。なんだ、この声は。ぼくはこの声を、どこかで聞いたことがある。

 何もかもがわからなくて、頭がパンクしてしまいそうだ。怖くてたまらなくて、ぎゅうと固く目を閉じる。すると、最後の質問をしようか、と普段と変わらない落ち着いた声音が脳を揺らした。

「あの指輪を覚えているね。あれは、何だと思う?」

「……あれは、」

 あの、綺麗な金色の指輪。『きみ』に見せられた時、指輪はきらきらと光を反射していたけれど、あれは確かに錆び付いて、汚れていた。そして、内側には名前が彫られている。どうしてかわからないけれど、そうであることを、この脳が覚えていた。

 あの指輪は、ぼくの――『デイビッド』のものだ。


       *


 幼いデイビッドの世界は、古いアパートの一室と、その中にあるもの、そして母親の存在で完結していた。物心がつく前からずっとそうで、自分のそんな閉鎖的な環境に疑問を抱くこともなく、ただ彼女から与えられるものを享受するだけの日々だった。

 母は優しかった。いつも穏やかに微笑んでいて、仕事から疲れて帰ってきた後も、美味しい食事を作って一緒に食べてくれた。家の外に出たことはないけれど、それでも、彼女と過ごす生活が、デイビッドにとっての幸せだった。

 デイビッドはとても大人しい子供だったけれど、母が仕事に行っている一日の大半は、退屈に過ごしていた。もうとっくに読み終えている数冊の本を繰り返し読んで、彼女が朝早くに作り置いていった昼食を食べて、気まぐれに微睡んだりと、同じようなことを毎日繰り返してばかりで、本の暗唱までできるようになった。そんなデイビッドが、タンスの奥に隠すように置かれていた一冊の本を見つけたのは、八歳のある日のことだった。

 ネイビーの背表紙をしたその本は、聖書だった。ページは日焼けで黄ばんでいたり、ところどころが縒れていたりと、大分古いものに見えた。幼く無知なデイビッドには、聖書というものがなんなのかわからなかったけれど、目新しいものに飢えていたデイビッドが、何時間もかけて聖書を読み終え、またもう一回と何度も読み直し、そうして信仰心を抱くまでに、そう時間はかからなかった。

「お母さん、おかえりなさい!」

 聖書を見つけたその日、聖書を読んでいたデイビッドは、ドアが開く音に気がついて玄関に駆けていった。母はそんなデイビッドを、ただいま、と疲れた顔を穏やかに緩ませて、デイビッドを優しく抱きしめる。

「今日の夕ご飯はなあに?」「今日はどんなお仕事をしてきたの?」はしゃいだ様子で話しかけるデイビッドと連れ立って、二人はリビングに向かう。そんな和やかな雰囲気だった母親が硬質な空気を纏ったのは、テーブルに置いたままにしていた聖書を見つけたときのことだった。

「……ねえ、デイビッド。これ、どこで見つけたの?」

「あのタンスの中だよ。今日はね、これを読んでたんだ。ぼく、こんな本を読んだのは初めてだけど、この『聖書』って本、すごく——―」

「そんな話をしないで!」

 パンッ、と乾いた音が響いた。デイビッドは赤くなった右頬を呆然として押さえた。デイビッドの目の前にいる母親は、手を振り上げて荒く息をしている。母が自分を叩いたのだ、ということにデイビッドが気づくのに、時間はかからなかった。

 目に滲んだ涙のせいで、目の前の母の顔が歪んで見える。どうして母が自分を叩いたのか、わけがわからなくて、ただ恐ろしかった。彼女はただ、熱を持った自分の手のひらをぼんやりと眺めている。デイビッドをその目に映すことは、ない。

「……ちゃんと愛するって、決めたのに」

 耳に届いたか細い声が、まるで泣き出しそうな子供のようだったことを、デイビッドは一度も忘れたことはない。


 寝苦しさに目を覚ました。

 汗で肌に張り付いたパジャマに少しの不快感を覚えて、デイビッドはすっかり目覚めてしまった身体を起こす。時計は、午前三時過ぎを指していた。

 デイビッドはふと、隣で眠っていたはずの母の気配がないことに気がついた。こんな時間にいないだなんて、仕事が入ったのだろうか。そこまで考えて、デイビッドは顔を曇らせる。母が自分を叩いたということを、鮮明に思い出してしまったからだった。

 不意に、ガタン、と物音が聞こえた。浴室の方向からのようで、扉を開けた音のようだった。もしかして母だろうか。けれど、そうでなかったら。不穏な予想が頭の中を駆け抜けて、ドクンと心臓が嫌な音を立てる。不安を抱えたままに、デイビッドは立ち上がった。

 ペタペタと板張りの床を歩く自分の足音が、暗闇の中で嫌に響いている。恐怖に息が浅くなりながらも、やっと浴室の前に辿り着いたデイビッドが、その扉に手をかけて、ぐっと力を込めたとき——むわりと、不快な鉄臭さが、辺りに広がった。

「お母さん……?」

 返事はない。小さく開けた扉の隙間から、デイビッドは中を覗き見る。心臓が、まるで警告をするかのように、早鐘を打っていた。そうしてデイビッドは、浴室に広がる、痛々しいくらいに鮮明な赤を見た。

 はらりと、首にかけていた紐の結び目が緩んだ。あっさりとほどけたそれは、重力に従って床に落ちていった。からんと音を立てて落ちた、紐に通されていた金色の指輪が、飛び散った赤色に汚れていく。

「――あなたのせいで、」

 震える声で母が言ったその言葉の続きを、デイビッドはずっと恐れている。


 その先は、デイビッドの記憶には薄らとしか残っていない。ただ自分の周りがずっと騒がしかったことを覚えている。たくさんの大人たちがやって来て、冷たくくずおれている母と、それに縋りついて泣き喚くデイビッドを見つけた。警察署や病院など、色々なところに連れて行かれて、今までの生活について質問をされた。デイビッドは怯えながらも全ての質問に正直に答えていった。けれど内心では、もう母には会えないのだろうと、そう直感していた。

 デイビッドの周りがある程度の落ち着きを取り戻し始めた頃、デイビッドは五十代半ばほどの夫婦に引き取られた。二人は、母親の両親らしかった。デイビッドを引き取りに来た時、彼らは酷く苦しそうな顔をしていた。祖父がデイビッドの手を初めて引きながら発した、「すまない」という言葉には、ぐちゃぐちゃに混ざった感情の色が滲み出ていた。

 デイビッドが十二歳のときに聞かされたことだが、デイビッドは望まれていなかった子供だったらしい。大学生のときにできた、年上の恋人との間の子供で、けれどその男は、子供ができたのだと知ると、どこかに行方をくらましたのだという。

 それを信じたくなくて、反対する両親を押し切り、母は勘当同然に家を出てデイビッドを産んだ。それからの生活は苦労の連続で、元々敬虔なキリスト教徒だった母は、自分の置かれている状況の厳しさに、どんなに祈っても消えてはくれない苦しさに、神はいないのだと、救いなんてはなからなかったのだと、信仰を捨てた。聖書を読んだデイビッドに過剰な反応をしたのは、恋人が自分を捨てた瞬間、自身が神に見捨てられた瞬間を思い出したからだったのだろう。

 母親は、デイビッドを愛することに対して、強迫観念じみた愛情を抱いていた。自分はちゃんとこの子を愛せる、一人で育てていける。両親への反発やかつての恋人への恨めしさから生まれたその切迫した感情は、確かに母の精神を蝕んでいった。きっと、デイビッドの名前を彫った指輪を贈ったのは、自分はちゃんと子供を愛せているのだと、そう思い込むためだったのだろう。

 そう理解するようになってから、十数年。デイビッドはずっと、自分が母を殺したのだという罪を、胸の柔いところに刻みつけ続けている。


       *


 深夜0時を過ぎた頃、デイビッドはサン・ピエトロ広場を訪れていた。平和の象徴である鳩をテーマに置いて作られたこの広場は、騒がしい昼間とは打って変わって、水を打ったような静寂に包まれている。耳元で吹く風の音だけが、この空間に響いていた。

 広場の中央にある塔のような建造物、オベリスクの前まで歩いて行き、デイビッドは固い石畳に片膝をついた。しばらくの間、固く目を閉じ、そっと目を開けると、デイビッドは鞄の中から小瓶を取り出した。手のひらに収まるサイズの瓶の中には、透明に波打つ液体が入っている。

 デイビッドはその液体を見ると、淡く笑みを滲ませた。自分の信仰はここで終わるのだと改めて自覚すると、なんだか可笑しくなったのだ。あの日、タンスの奥に聖書を見つけた時から続いてきた自分の信仰は、今ここで、自身の手によって終わる。寂しいような、そうでないような、不思議な心地だ。

「……やっと、罪を償うときがきたんだ」

 首から下げた指輪を、左手で握りしめる。母から貰った、最初の贈り物。指輪の内側には、『デイビッド』と彫られている。一緒に過ごした日々の中で、母から貰った愛がすべて仮初だったとしても、デイビッドは確かに幸せだった。

 小瓶の蓋を開けて、口元で傾ける。……ふと、アイザックの顔が頭をよぎった。腹が立つくらいに整ったパーツのついた、緑目の画家。行きずりのような関係のまま同居を続けて、もう七年ほどになるのか。結局、約束――巡礼が終わった後、彼に自分の絵を描かせるという約束は、果たすことができなかった。最初から、守るつもりもなかったけれど。

 小瓶の液体——即効性の毒は、この巡礼を始める前、アイザックと約束をするよりも前に手に入れたものだ。巡礼の終わりは、贖罪で閉じようと、ずっと決めていた。喉に流し込み、デイビッドはゆっくりと目を閉じる。これで、本当に終わる――

「……甘い? なんだ、これ」

 舌先に感じたのは、痺れでも苦味でもなく、香料の匂いが染み付いた甘さだった。思わず口を押さえて、瞬きを繰り返す。なんだこれ、炭酸飲料のような味だ。でも、どうしてこんなものが中に入っている? 僕は確かに、毒を入れたはずなのに。

 その時、不意に足音が聞こえた。弾かれるようにデイビッドが振り返ると、そこには、見慣れた茶髪と緑目。薄らと笑みを浮かべながら、本来ならここにいるはずのなかったアイザックがデイビッドに歩み寄ってくる。

「よ、デイヴ。初めてのスプライトの味はどうだ?」

「君、なんで……いや、気づいてたのか」

「ああ。酷いじゃないか、デイヴ。俺との約束を破るだなんて」

 アイザックは、明るく笑っていた口元を歪ませる。怒っている、とはまた違う、刺すような感情を肌に感じて、ぞくりと背筋が粟立つ。俯いて動かないデイビッドにアイザックは近づき、その手から小瓶を取り上げる。そして、ぐっと半分ほど残った液体を飲み干した。

「お前がスプライトを飲んだことがないっていうから、一旦ホテルに帰ってきたとき、瓶を入れ替えておいたんだ。大変だったよ、同じ瓶を探すのは」

 そう鷹揚に笑うアイザックに、デイビッドは呆然としながらも、ふつふつと怒りを感じ始めた。どうして、何の権利があって、アイザックは自分の贖罪を邪魔したのか。いくら友人だとしても、これは許容できない。

 デイビッドが怒りを堪えるようにぐっと拳を握り締めると、アイザックはデイビッドの手をそっと握った。そうして、デイビッドの思考を読み取ったかのように、薄ら笑いを浮かべたまま、話し始める。

「約束しただろ。お前の巡礼が終わったら、お前の絵を描かせてくれって。ちゃんと俺は約束通りに案内をした。それならお前も、ちゃんと約束を果たすべきだろう」

「それは、でも……」

「お前は理解してないんだ。俺がどれだけ、お前をキャンバスに描くことを渇望してきたのか」

 底の知れないグリーンの瞳が、まっすぐにデイビッドを見据えている。ゆらゆらと、透き通るような緑色が揺らめいていた。


       *


 エマヌエーレは、聖職者の家系に生まれた少年だった。

 物心つく前から寝かしつけに読み聞かされるのは聖書だったし、文字を読む学習も聖書によって行われた。母親はエマヌエーレを産んだ際に亡くなり、司祭をしている父親一人に育てられたため、その極端に厳しい育て方を咎める者はおらず、そんなエマヌエーレが父親に反発し始めるのも、不自然なことではなかった。

 ハイスクールに入学するときにはもう、父親との確執は埋めようのないものになっていた。父親がエマヌエーレに話しかける時は、お前が後継者なのだ、ということを口酸っぱくして言うことくらいだったし、エマヌエーレはそれに対して反抗するだけだった。親子関係は、もう既に破綻していた。

 エマヌエーレが芸術にのめり込み始めたのは、ハイスクールの二年生、カトリックという宗教自体に嫌悪感を覚え始めたころだった。エマヌエーレは元々、美術科目が得意だった。特に絵画という分野では才能を発揮し、教師からも一目置かれていた。教師からの頼まれごとでエマヌエーレが美術教室を訪れたのは、夏季休暇中に用事で学校にやってきたときのことだ。

 美術教室の扉を開けると、そこには、美術の担当教師であるマリアがキャンバスに向き合って座っていた。ドアを開ける音に気がついたのか、マリアはエマヌエーレを振り返り、こんにちは、とにこやかに挨拶をした。エマヌエーレもつられて挨拶を返し、頼まれた荷物を適当な場所に置くと、彼女に近づいていく。

「何、描いてるんですか?」

「何って、ただの油絵だよ。君、興味があるの?」

 それなら、少し描いていかない?

 そう言って画材を指差した彼女は、教師というよりも気安い友人といった雰囲気だった。エマヌエーレは思いもしなかった提案になんとなく頷き、それから彼は毎日のように美術教室を訪れるようになった。


 マリアは毎日いるわけではなかったが、エマヌエーレが絵を描いているのを見つけると、アドバイスをしてくれ隣で自分も絵を描き始めたりした。油絵、水彩画など、エマヌエーレは指導を受けながら様々な絵を描いた。元々才能があったということや、家に自分の居場所がないということもあり、エマヌエーレはすぐに、絵を描くことに人生の意味を見出し始めた。大学で絵を学びたい、ということをマリアに相談したのは、絵を描き始めて半年ほどが経ったころだ。

 マリアは、エマヌエーレの相談を否定することなく、親身になって一緒に考えてくれた。父親に言いたくないのだというエマヌエーレの気持ちも尊重してくれて、この時点でもう、マリアはエマヌエーレにとって特別な存在となっていた。

 けれど、いくら父親に言いたくないとはいっても、進学に関わることとなると、いつまでも黙っているわけにはいかない。気が進まないけれど、マリアの後押しもあって、エマヌエーレは今までに自分が描いた絵の詰まったスケッチブックを持って、父親のもとに話をしに行った。

「父さん。俺、大学で絵を学びたいんだ。今、学校で絵を描いてて……」

 震える声で、絵の具で縒れたスケッチブックを差し出す。父親は、何も言わない。不安げにエマヌエーレが父を見上げると——ああ、無理だ、と。そう確信してしまうくらいに、怒りを全面に表した父親が、そこにいた。

「主に仕える者として、お前は――」

 父の怒号が、頭を殴りつけているようにがんがんと響く。自分を否定する声だけが、脳内を支配する。進学したいだなんて、父親に言わなければよかった。自分と父が分かり合うことは決してないのだと、今になってやっと理解した。

 ――ビリ。スケッチブックが破かれていく音が、エマヌエーレの感情は瓦解していく引き金だった。

 破れたスケッチブックと、画材の入った学校用のリュックを背負って、夜のヴァチカンの街を走る。どこか、ここじゃない場所に、遠くに行かないと。俺の芸術が、否定されない場所に――。


 ロサンゼルスの街は、ヴァチカンよりもずっと明るかった。眠らない街というのは、こういうことなのだろうと思う。

 エマヌエーレは本当に、ロサンゼルスにやってきていた。不安と興奮が半分ずつ。いや、不安の方が少し大きいだろうか。財布の中身は、旅費で大半を随分と削られてしまった。とりあえず、今日泊まる適当な場所を探さなければならない。手頃なホテルなどが見つかればいいのだが。

 疲れに今にも沈み込みそうな身体で、喧騒の中を歩き続ける。眠気と疲労のピークはとうに迎えていた。そんな限界に近い状態のエマヌエーレが、喧騒の中に虚のような瞳を見つけたのは、歩き始めて一時間が過ぎた頃だった。

 縛られた黒髪が、風に遊ばれて揺れていた。そのすべてがスローモーションのように感じられて、吸い寄せられるように振り返る。そうして、ぐらぐらと揺れる視界の隅に、エマヌエーレは自分の、自分だけの一等星を見つけた。少なくともエマヌエーレにとっては、そんな心地だった。思わず振り向いて、黒髪を揺らす青年の後ろ姿を視界に収める。そして、ほとんど本能的に、その青年の腕を掴んだ。

「僕に何か――」

「あの! 俺の、絵のモデルになってくれませんか」

 相手の言葉を遮り、叫ぶように言葉を弾き出す。自分が何を口走っているのか、頭で理解ができない。でも、それでも、この男を引き止めないといけない。そうじゃないと俺は、この男を、失ってしまう。

 青年はしばらく呆然としていたが、少し考えたのち、いいですよ、とするりと肯定の言葉を返した。思いもよらなかったその返答に、エマヌエーレは口を半開きにしたまま固まり、え、と意味をなさない母音を零す。

「僕は、デイビッドといいます。あなたの名前を、教えてくれませんか」

 働かない頭で、とにかく自分の名前を訊かれているのだと理解した。反射的に『エマヌエーレ』と形作りそうになる口を無理やり止めて、この名前は捨ててしまおう、という思考が頭の片隅で生まれた。だめだ、この名前を告げてしまったら俺は、ヴァチカンにいたときの、教会の一人息子のエマヌエーレのままになってしまう。縛られたままの自分なんて、もううんざりだ。

 不思議そうに自分を見つめるデイビッドの顔を黙って見つめる。俺の、新しい俺の、これからの名前は――

「……アイザック。アイザックって、呼んでほしい」

 初めて名乗るその名前は、不思議と舌に馴染んでいた。


       *


「運命的だと思ったんだ。空っぽなお前を見つけた時、俺は、俺だけの星を見つけたような心地だったよ」

「……取り繕ったような言い方するなよ。君は、僕を絵に描きたかっただけだろ」

 睨みつけるようにこちらを見るデイビッドの目には、困惑の色がありありと浮かんでいた。アイザックがロサンゼルスにやって来た経緯なんて、これまで知らなかった。アイザックが自分を求める気持ちの、重さだって。

 整理のつかない気持ちのままに、デイビッドは振り絞るように声を出す。純粋な欲の色を浮かべるアイザックの顔を正面から見据えるのが、少し怖かった。

「……君は、僕が知っている他人の中で、一番純粋なんだ。だから僕は、君の側が息苦しい。純粋な君の隣に僕がいることが、苦しくてたまらない」

 アイザックは普段の彼からは想像もできないような静謐な表情で、じっとデイビッドの目を見つめていた。そうして、アイザックが震える唇を閉じると、少しの間目を閉じて、そうしてまた開き、静かに話し始めた。

「俺はお前が、今まで見た人間のなかで一番美しいと思ったんだよ。俺は、お前の側じゃないと息苦しくてたまらないんだ」

 アイザックはデイビッドの両の手を強く握り、目を伏せて深く息を吐く。デイビッドはそんな、何かを堪えるようなアイザックの姿を、ただ見上げることしかできなかった。この男はずっと、そんな凶器のような感情を隠し持っていたのか、と。まさしく猛獣のようなこの男は、ずっと自分の側で牙を隠し持っていたのだ。

 そんな男が、自分のためにたくさんのことを諦めて、堪えてきただなんて――。アイザック、とデイビッドが落ち着いた声音で語りかけると、アイザックは恐る恐る顔を上げた。そうして、穏やかな顔で自分を見ているデイビッドの表情に、息が止まるような感覚を覚える。

「いいよ、アイザック。君がそこまで言うなら、この先ずっと、君の隣で生きてあげるよ。だから、君の隣を僕だけにちょうだい」

 そう言い切ったデイビッドは、心底幸せそうな顔をしていた。アイザックだけに晒されたその表情は、今までにアイザックが見たデイビッドの表情のなかで一番美しくて、思わず息を呑む。

「……なあ、ありのままのお前を、とびきり神聖に描いてやるよ。油絵の具をたくさん重ねたって、水彩絵の具で宝石みたいな透明色を描いたっていい。お前の好きなように、お前を描いてやる」

 まだ明けない夜の中で、二人は弾かれたように笑った。過去の罪も、わだかまりも、何も解けてはいないけれど、それでも、今だけはどうだってよかった。ただ、お互いが側にいるだけで、それが一番の幸福なのだと、理解していた。

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星を掴んだ夜 みやしろ @mao031530

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