第9話 メネス王国へ

 青い空の下、大河イテルを進む一隻の船があった。

 船首と船尾が高く跳ね上がった意匠をもち、船体中央に立てられた1本のマストに葦の茎を編んだ四角い帆が張られている。

 追い風に押されて川の流れに逆らいながら、ゆったりと進む船は、大河イテルの上流にあるメネス王国の都、メンフィスへと向かっていた。


「どうして、俺たちが護衛に選ばれたんだろうな」

「メリシャ王を殺そうとした罰なんだろ…いざって時には盾になれってことなんじゃないか?」

 船尾近くに設けられた貴賓用の天幕。その入り口の両脇に立つ双子の戦士、セベクとセケムは浮かない表情で会話を交わしていた。


 彼らは、ウゼルの部族の戦士である。フィルとの決闘でウゼルが負けたのを見て、思わずメリシャに斬りかかったのだ。

 むろん、ヒクソスにとって決闘が神聖なものであることは重々承知している。

 しかし、神官長サリティスがセト神の現身だと言って連れて来た若い女は、どう見ても人間にしか見えなかった。憎むべき人間を王に据えるくらいなら、死罪も覚悟で…というのが彼らの心情だった。


 後で、ウゼルから彼女たちが人間ではないと聞かされたものの、やはり信用しきれてはいなかった。

 そこに起こったのがメネス王国軍の侵攻である。ウゼルの護衛を外され、兵舎で謹慎していた彼らは、王城から南へと飛び去る金色の獣と赤い巨竜の姿を見た。


 フィルたちは、その日のうちに王国軍の先遣隊100人を全滅させ、更に王国軍の本隊を追い返し、メネスの王太子を捕らえて戻ってきた。そして今回は、メネス王国に属国解消を叩きつけに行くのだという。

 彼女たちが姿を現して、まだ10日ほどしかたっていない。それなのに、これまで何十年もの間、ヒクソスの王も戦士たちもできなかったことを易々とされてしまっては、もはや認めるしかない。


 彼女たちは、神官団が召喚し本物の神の現身なのだ。

 そんな彼女たちに誤解とは言え刃を向けてしまったことを、彼らも後悔し始めていた。


 ウゼルから、メネス王都に向かうメリシャ王の護衛に指名されたと聞いた時は、信じられない思いだった。だが、護衛として付く戦士はセベクとセケムの二人だけだと聞かされ、これは罰なのだと思った。

 王が外国に赴くのに、最低限の体裁を整えるだけの随行、そして何かあった時の捨て石。重罪を犯してしまった自分たちの立場はそんなものだろうと思った。


「…メリシャの護衛は不満なのかな?」

 いつの間にか、二人の後ろにフィルが立っていた。

「いえ、決してそのようなことは…」

 慌てて姿勢を正す二人に、フィルはくすりと笑った。


「ところで…セベクとセケムだったわね。二人はメネス王国軍と戦ったことある?」

「はい。たった一度ですが…」


 セベクは悔し気に顔を歪めた。

 メネスの属国にされて以降も、メネスからの過大な要求に耐えかねたヒクソスが反乱を起こし、王国の軍勢と戦になったことは幾度もある。

 だが、結果はいずれも敗北。王国の要求はより過酷となり、今では反乱を起こす余力さえない。先王が殺されたというのに、その報復すらできなかったのは情けないの一言に尽きた。


「どうして、ヒクソスは勝てないと思う?たぶん、一人一人の戦士としての力量は、王国の兵よりヒクソスの方が優れていると思うよ。でも勝てない。それはどうして?」

「王国軍は卑怯です!一騎打ちを挑んでも多くの兵に取り囲まれ、討ち取られてしまいます」

 セケムが言った。うん、とフィルは頷く。


「卑怯、か…そうだね。でも、ヒクソスは獣人としての能力がある。元々身体能力は人間より高い。そんなヒクソスが人間に一騎打ちを挑むのは卑怯じゃないの?一人では勝てない相手に勝てるだけの人数で当たるのは卑怯なの?」

 批判するではなく、淡々とフィルは言う。


「戦争は試合や決闘じゃない。戦士の後ろには守るべき民がいる。戦争に負ければ民を守れない。だから、勝てない戦争はしてはいけないし、より確実に勝つ方法を考えなくちゃいけない。わたしはそう思う」

「しかし、代々ヒクソスはそうやって戦ってきました!」

 思わず声を大きくするセベクに、フィルは少し眉を寄せた。


「セケムもそう思う?」

「はい。ヒクソスの戦士は、ひたすらに己の武技を磨いてきました。それが誇りです」

「…そう」

 フィルは二人をじっと見つめる。


「セベク、セケム、これから行くメンフィスで、王国の姿をよく見ておきなさい。戦う相手の姿を正しく知っておくことは大事なことだよ」

 そう言って天幕の中へ入っていくフィルに、二人は顔を見合わせた。


「メリシャ様、見えました。あれがメンフィスです」

 船縁からシェシが指さす先、そこには石造りの壮麗な都市が広がっていた。


 河岸には大きな切石が積み上げられた船着き場があり、多くの船が荷の積み卸しを行っていた。かつてのサエイレム港の賑わいを思い出し、メリシャも思わず身を乗り出す。


 船着き場の向こうには、黄土色の街が広がっていた。もちろん緑も多いが、多くの建物が茶色のレンガや白っぽい石材で造られているため、全体として黄色っぽく見える。

 比べては悪いが、ヒクソスの都アヴァリスから見れば立派、サエイレムから見れば簡素な街。メリシャの目にはそう見えた。

 立ち並ぶ家々の奥には、白く輝く石造りの高い城壁がそびえている。あれが王城なのだろうか。サエイレムのように街全体を囲む城壁はないが、王城の防備は厳重なようだ。


 メリシャは、あらかじめメネス王国の政治体制についてホルエムから話を聞いていた。

 現王の名はウナス。王国において王は『ファラオ』と呼ばれ、神の現身、神の子とされる。ファラオの下には、王政府、軍、神官団の3つの組織があり、王政府が立法と行政、軍が国防と治安維持、神官団が信仰と司法を担っている。


 ホルエムの話では、ウナスは穏健な人物ではあるが、神殿などの大規模な建築物の造営に熱心で、政務には感心が薄いらしい。実質的に政務を取り仕切っているのは、宰相のケレスだということだった。

 とすれば、属国関係の解消を宣言した時、最も難色を示すであろうのはケレス。軍事を束ねる将軍アイヘブもヒクソスの戦力を見極めようとするだろう。


 本人には悪いが、ホルエムを無条件に帰すという手札がどれくらい効果的なのかは未知数だ。

 父であるウナスは喜ぶだろうが、ケレスあたりは、そのまま処刑してくれたほうが都合がいいと思っている可能性だってある。

 さて、王国の首脳がどんな反応を示すか。その時にどう立ち回るのが効果的か…。メリシャは近づいてくるメンフィスの街を眺めながら、考えていた。


 シェシとメリシャから少し離れた船縁では、フィルがホルエムと並んで景色を眺めていた。

「街は川の東岸にしかないの?西岸にも大きな建物はあるけど…ずいぶん差が激しいのね」

 不思議そうに尋ねるフィルにホルエムが答える。

「メネス王国では、大河イテルの東岸は生者の土地、西岸は死者の土地と考えられている。だから、メンフィスの市街は東岸に、神殿や墓所は西岸に造られているんだ」


「ふーん…」

 フィルは巨石で造られた列柱や石像が建ち並ぶ西岸の様子を眺める。それなりに人の姿は見えるが、皆粛々と行き交うのみで静けさに包まれている。


「ホルエムが言っていたオシリス神殿は、あっちにあるの?」

「あぁ。…あそこに大きな石の柱が立っているだろう?あそこがオシリス神殿だ」

 魔術の中心、ホルエムからそう聞いた場所だ。フィルは少し目を細める。


「なるほど、そこに巫女長がいるのか…彼女がいなければ、メネス王国の魔術は使えなくなるのよね…」

「フィル!頼むからネフェルには何もしないでくれ」

 ぼそりとつぶやいたフィルに、ホルエムは慌てて言った。


「しないわよ!」

 心外だと言わんばかりにフィルは頬を膨らませる。


「…なに?ホルエムは巫女長…ネフェルと親しいの?」

「う、うむ…ネフェルは乳母の娘で、幼い頃は一緒に育った…だが、巫女長になってからというもの、ネフェルは神殿に閉じ込められているようなものだ。…何とかしてやりたいんだが」

 少し顔を赤くするホルエムに、フィルは意地悪そうな笑みを浮かべる。


「そうなんだ、ホルエムはネフェルが好きなんだ」

「…っ!」

 ホルエムは赤面して黙り込む。ちょっとカマをかけたつもりだったのに、あまりにも直球の反応でフィルの方が逆に驚いた。


「ごめんごめん。…でも、巫女長っていう立場だと、たぶん、婚姻とか、そういうのダメなんだよね?」

「あぁ、フィルの言うとおり。巫女長は神に身を捧げたとされる。会いに行くのさえ簡単じゃないんだ…」

 寂しそうに言うホルエムを、フィルは見上げた。


「わたしをネフェルに会わせてくれない?」

「…なっ!」

 思わず声を上げてしまい、ホルエムは慌てて声のトーンを落した。


「無茶を言うな。いくら俺でも、ヒクソスの者をオシリス神殿に連れて行けるはずがないだろう!」

「そんなことわかってるわ。こっそりよ、こっそり。わたしが九尾になれば、空から直接神殿に忍び込めるし、夜ならまず見つかることもないでしょう。ホルエムは、ネフェルの所までの案内と、わたしの紹介をしてくれればいいよ」

 呆れたように腰に手を当てて、フィルは言う。


「俺も一緒に行っていいのか?」

「嫌なの?」

「いや、そんなことはない!ぜひ頼む!」

「なら交渉成立ね。よろしく」

 にこりと笑って、フィルはホルエムの肩を軽く叩いた。


 ほどなくして船はメンフィスの港に到着した。

 王国兵が乗った小舟が近づいてきて、付いてこいというようなそぶりを見せる。ここは相手の港、素直に従う事にする。

 広いメンフィスの港は、大河に面した船着き場の他に、掘り込まれた水路が奥へと続き、街の中まで船が入れる構造になっていた。小舟に先導され、船は水路の奥へと進んでいく。


 メンフィスの市街地は、アヴァリスよりも石造りの建物が多く、街路にも石畳が多く用いられている。一般市民の住居と思われる建物は石ではなく日干しレンガのようだが、壁面はきちんと漆喰塗りで仕上げられていた。

 船が進む水路は、遠目に見えた王城の城壁に向かって伸びていた。どうやら、このまま王城の近くまで船が入れるようだ。


 城壁が近づいてくると、水路沿いに立ち並ぶ建物の質も変わっていく。建物に使われている白っぽい石材の表面に、鮮やかな色彩の壁画が目立ち始めた。壁画のモチーフは、メネス王国が信仰する神オシリスを中心とする神話であったり、歴代の王の業績など。赤、青、緑、黄、黒、様々な顔料がふんだんに使われているところに、王国の豊かさが見て取れた。

 

 城壁を目前にしたところで水路は大きく広がり、湖のような風景が広がっていた。手前の市街に面した部分と奥の城壁に面した部分は石積みで整えられているが、両岸は砂浜になっており、立ち並ぶナツメヤシが波打ち際に木陰を落としている。

 少し離れた岸辺にはテラス状に水面に突き出した四阿のようなものもあり、貴族や王族がここで舟遊びに興じたりするのかもしれない。

 

 船は湖を横切り、城壁に開けられた水門から城内へと進む。入ってすぐのところが船着き場になっていた。

 船が着岸すると、岸壁との間に板が渡され、セベクとセケムを先頭に、メリシャとホルエム、そしてシェシ、フィルとリネアの順で船を下りる。


 船着き場には、王国軍の兵が整列して待ち受け、物々しい雰囲気が漂っていた。その中から、立派な革鎧を身に着けた初老の男が進み出た。

 ホルエムが前に出、その後ろに立つメリシャの両脇にセベクとセケムが付く。フィルとリネアはシェシとともに、一番後ろで成り行きを見守っていた。


「殿下、よくぞ無事にお戻りくださいました。…この度は配下の不手際、お詫びのしようもございません」

 男はホルエムの前に跪き、頭を下げる。

「その件は改めて話すとしよう。まずはヒクソスの新王を紹介したいのだが」

「あぁ、ファラオに挨拶したいとのことでしたな」

 思い出したように男は言う。王太子さえ戻れば、後はどうでも良いと言わんばかりだ。

 これがメネス王国におけるヒクソスの立ち位置なのだ。セベクとセケムは怒りの表情を浮かべるが、周りは王国兵だらけ。小さく震えながら感情を押し殺す。


「ホルエム殿、この男は仮にも王国の重臣なのですか?隣国の王にまず挨拶もしないなんて、少々礼節をわきまえぬようですが?」

 さらりとメリシャが言った。王太子に対して目上の口調で話すメリシャに、今度は王国の兵たちが色めき立つ。身体を固くするシェシをリネアがそっと抱き寄せた。


「アイヘブ、こちらは新たなヒクソスの王、メリシャ殿だ。礼を失することがあってはならん。俺も丁重な扱いを受けたのだ」

 …この男が将軍アイヘブか…メリシャはアイヘブを見下ろす。


 アイヘブは、メリシャを紹介するホルエムに信じられないような目を向け、そして悔しげに口元を歪める。それでもアイヘブは、メリシャに向き直って頭を下げた。本心はどうあれ、兵たちの前で王太子に逆らう気は無いようだ。


「申し訳ございません。メリシャ王。我が名はアイヘブ。メネス王国で将軍職に任じられております。王太子殿下を無事送り届けて頂いたこと、お礼申し上げます」


「アイヘブ将軍、出迎え大儀でした。ボクは、この度ヒクソス王に即位したメリシャ。ホルエム殿をお送りするとともに、即位のご挨拶に参りました。ファラオへの取り次ぎを」

 メリシャは、周囲の王国兵が剣呑な視線を向けているのを気にもせず、涼しい口調でアイヘブに応じる。

「承知しました。ご案内いたします」

 アイヘブは固い表情を浮べて一礼した。

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