第8話 王太子の処遇 

「ホルエム、訊きたいことがあるんだけど、いい?」

「フィル、来るなら来るで先触れなりするつもりはないのか?」


 リネアと一緒にやってきたフィルに、ホルエムは、呆れたように応じた。

 庭園に面したテラスで剣の素振りをしていたため、上半身裸だ。そこへふらりとやってきたフィルは、ホルエムの姿を見ても平然としている。

 互いに名前を呼び捨てにしようと言い出したのもフィルの方だ。


「何?恥ずかしいの?じゃ、待っててあげるから何か着たら?」

 腰に手を当て、しょうがないわね、と言わんばかりに眉を寄せるフィル。

 着替えを手伝ってくれる侍女たちならばともかく、それなりの身分がある女性なら、女性の方が目を背けるものではないだろうか。少なくともメネスの王城ではそうだったのだが。


「こほん…失礼した。それで、訊きたいこととは?」

 軽く汗を拭ってシャツを着たホルエムは、すでに長椅子に腰を下ろしているフィルとリネアの向かい側に座った。


 ホルエムがアヴァリスに連れて来られてから5日。ホルエムは王城の一室にいた。もちろん牢獄ではない。部屋の入り口には見張りがいて勝手に出ることはできないが、部屋の中にいる限りは特に行動は制限されないし、食事も決して悪いものではなかった。


「わたしが先遣隊の連中を燃やした時、『魔術だ』って騒いでる声が聞こえたんだけど、『魔術』って何なのか、教えてもらえない?」

 フィルは単刀直入に尋ねた。


「…フィルが兵たちを燃やしていたあの青白い炎は、魔術ではないのか?」

「狐火は九尾の力だから、あなたたちが言う魔術とは違うと思う」

 フィルは、ポッと指先に小さな狐火を灯してみせる。


 フィルたちが、元の世界では神に連なる者だったと聞いたホルエムは、驚きつつも納得した。

 九尾の姿を見ている以上、神なのかはともかく、彼女たちが人ならざる者であることは信じるしかない。フィルの横に静かに控えるリネアもまた、フィル自身すら勝てないほど強いという。


 だがこうして話す限り、彼女たちは人と何ら変わりは無いし、ホルエムに対しても気さくに接してくれる。正直、多くの者にかしずかれて暮らすこれまでの生活よりも、ホルエムは心地よく感じていた。


「俺も魔術師ではないからあまり詳しい訳ではないが、魔術というのは神の力の一部を借り受けるものだと教わったな」

「神の力、ね……例えばどんなことができるの?」

「メネスが信奉するのは豊穣と再生の神オシリス。その力を借りるのだから、豊作をもたらしたり、怪我や病気を癒やしたりといったことが多い。主には神官団の仕事だ」

「なるほど。戦いに役立つようなものはないの?」

 フィルの質問に、ホルエムは困ったように眉を寄せた。


「数は少ないが、魔術師と呼ばれる者もいて、人を討つような術も使える。魔術師は要人の側近として護衛を兼ねていることが多いな」

「軍の所属じゃないんだ?」

「あぁ、我々が戦う戦場では魔術が使えないから、魔術師は軍には配属されていない。…ただ、一般の兵たちはそんなことまで知らないから、フィルの不可思議な力を見て魔術だと叫んだのだろうな」

「どういうこと?」

 戦場では使えない?フィルは首をかしげる。


「魔術は神の力を借りる。だから、力の源たるオシリス神殿に近いほど効果が強く、離れるにつれて弱まっていくんだ。今のメネス王国の場合、軍が出動する戦場は大抵の場合、神殿がある王都メンフィスから離れていて、魔術の使える範囲の外になる。だから、軍に魔術師の部隊はいない…例えば、敵の軍勢が王都メンフィスにでも攻め寄せてくるようにことがあれば、魔術での反撃も有り得ると思うが」


「なるほどね…でも、そんな弱点みたいなこと、わたし達に話しても良かったの?」

「何を今更。…フィルたちの力で攻められたら、魔術があっても無くても王国は負ける。フィルだけでも勝てそうにないのに、リネアはもっと強いんだろう?」

 呆れたように言うホルエムに、フィルとリネアも苦笑を浮かべた。


「神殿から離れすぎると、魔術が使えなくなる、か…」

 フィルは、指先を顎に当てて小さく唸る。


「正しく言えば、神殿自体ではなく、オシリス神殿にいる巫女長が魔術の要なんだ」

「巫女長?」

「あぁ、メンフィスにあるオシリス神殿の巫女長ネフェル。彼女を通じて神の力は地上に行き渡っている。オシリス神殿の代々の巫女長がその役目を継承するんだ。その代わり、巫女長は生涯、神殿を離れることができない」

 フィルはホルエムの表情が少し曇ったことに気付いたが、今はあえて尋ねなかった。軽く微笑んで席を立つ。

 

「ホルエム、教えてくれてありがとう。お礼ってわけじゃないけど、なるべく早く国に戻れるようにするから、もう少し辛抱してね」

「いや、急がなくてもいいさ。…ここでの暮らしはメネスの王城よりも居心地がいい。今のメネスはとても良い国とは思えぬのだ」


「ホルエム、あなたはメネスの王太子なんでしょう?」

 冗談めかして言ったホルエムに、フィルは一転して厳しい表情を向けた。


「王太子ともあろう者が、国を見捨てるようなことを言ってはいけない。国の在り様が良くないと思うのなら、あなたが思う良い国になるように、できることをしなければいけない。それが民を率いる者の務めではないの?」


 自分と大して歳が変わらないように見える少女。だが、その静かな迫力にホルエムは息を呑んだ。

 それは神の力というよりも、フィルの内面。己の意思を実現するために戦い、それを成し遂げた者の揺るぎない矜持のように思えた。


「…すまない。それが王族の仕事なのだな」

 じっと見つめるフィルに、ホルエムは思わず謝っていた。


「わかればよろしい。…状況によっては、わたし達もホルエムに力を貸してあげる。わたしたちはヒクソスに味方しているけど、ヒクソスが人間を支配すればいいとは思わない。ヒクソスと人間が手を取って共に暮らせるようにしたいんだよ」

 フィルの言葉は、ホルエムの心に深く染みこんでいった。


 フィルとリネアがホルエムに会っていた頃…。


 メリシャはサリティス、シェプト、ウゼルと話し合っていた。議題はもちろんホルエムの処遇である。

「メリシャ様、シャレク王の仇に、王太子を処刑すべきという者もおります」

 シェプトは苦い表情で言った。

 長老格であるシェプトには、それぞれの部族長の意見をまとめてもらっているのだが、フィルたちがメネス王国軍を追い返したことで勢いがつき、強気の意見が目立つようだ。


「処刑はしないよ。降りかかった火の粉は払うけど、むやみに争いの原因を作るわけにはいかない」

「左様ですな」

 きっぱりと言うメリシャに、シェプトも頷いた。

「…全く、困ったものだ。自分達は戦場にも出ておらんくせに」

 ウゼルもため息をつく。彼は、自分達が戦ったわけでもない今回の勝利を、ヒクソスの勝利だとは思っていない。実際に戦ったメリシャたちの意向に従うべきと考えている。


「やはり王太子はできるだけ早くメネスにお帰り頂くのが良いでしょう。早々に使者を送り、送還の段取りを進めては?」

 サリティスは王太子を長くヒクソスに留めること自体危険だと考えていた。シェプトの言う通りメネスへの恨みから強硬な意見を持つ者は多い。手の内にメネスの王太子を留めておくと、恨みを晴らすべしという声が更に大きくなりかねない。本当に暗殺を狙う者でも現れたら厄介だ。


 それに、一度は追い返したとは言え、メネス王国はそれで揺らぐほどぜい弱な国ではない。王太子奪還を掲げて、先に倍する兵力をもって再び攻め寄せてくるかもしれない。


「サリティス、早くお帰り頂くのには儂も賛成だが、ただ帰すというわけにはいかんだろう?こちらはラニルを失ったのだ。相応の見返りがなければ国内を抑えきれん」

「と言いますと、身代金、或いはラニルの犠牲に対する賠償の支払いを求めるということですか?」

 顎を撫でながら言うシェプトに、サリティスが問うた。


「そうだな…必ずしも金品とは限らんが、王太子の処刑や厳しい処罰を求める者たちを宥めるだけの何かが必要だ。こちらには、先王を討たれた恨みもあるのだからな」

 反面、あまり強硬な要求をすれば、メネス王国が態度を硬化させる可能性もある、シェプトも落としどころを考えあぐねていた。


 三人の様子を黙って見ていたメリシャは、隣に座るシェシにそっと囁いた。


「シェシは、ホルエムをどうするのがいいと思う?」


「メリシャ様…?」

 シェシは、不思議そうにメリシャを見上げた。


「ホルエムをどうするのが、一番、ヒクソスのためになるかな?」

 ようやく、メリシャが自分に意見を求めているのだと気付いたシェシは、表情を曇らせる。


「…シェシには、わかりません…」

「自信がなくてもいいから、シェシが思っていることを聞かせてほしい。大丈夫、決めるのはボクだから、シェシは心配しなくていいんだよ。良くないと思えばダメだって言うから」


 メリシャも、フィルから度々『どうしたらいいと思う?』と訊かれたものだ。

 もちろん、未来視の能力は使わないように言い聞かせられていたから、メリシャはフィルの問い掛けに自分で考えて答えるしかなかった。

 色々とダメ出しもされた一方で、フィルはメリシャの意見をそのまま採用してくれることもあった。…結果、うまくいかなかったこともたくさんある。

 しょんぼりして謝るメリシャを、フィルはいつも優しく撫でてくれた。


 最終的に決めたのは自分だから、メリシャが謝る必要なんてない。でも、いつか王様になったら、メリシャが決める役目と責任を背負わなければならない。だから、今のうちにたくさん失敗しておけばいい。うまくいかない時は、わたしが何とかするから。

 フィルはそう言って笑っていた。

 …ボクもシェシにそんなふうにしてあげたい。メリシャはそう思った。


「…はい…」

 シェシは少し目を伏せて黙り込む。そして緊張した表情で口を開いた。

「王国には身代金を要求せず、ホルエム様には、そのまま王国に帰って頂いた方がいいのではないでしょうか」

「どうしてそう思うの?」

 メリシャの表情は動かない。じっとシェシを見つめて理由を問う。


「ホルエム様を処刑したり、お金を要求したりすれば、メネスの人たちはヒクソスを憎むと思います。父を殺され、メネスを憎む今のヒクソスと同じです」

 ホルエムがヒクソスに殺されることを願っている者もいるだろうが、メネスの国民や末端の兵たちは、シェシの言うとおり、ヒクソスへの感情を悪化させるだろう。

 シェシはそれをヒクソスと同じと言ったが、感情の悪化はより激しくなるとメリシャは考えている。


 もちろん、前王シャレクを暗殺されたヒクソスでも、メネスへの怒りと憎しみは燻っている。

 しかしその反面、これまで過酷な支配から、メネスから理不尽な扱いを受けるのは仕方ないという諦めの感情もどこかしらにある。それが憎しみの感情を、ある程度抑制していた。

 だが、メネスは逆だ。自分達の下に見ていた者たちが反抗した、飼い犬に手を噛まれたと受け取れば、感情的な怒りや憎しみは一層激しくなる。

 メネスの国民感情がヒクソス憎しに傾けば、人間とヒクソスの融和など、夢のまた夢だ。


「ホルエム様は、ヒクソスに悪い感情をお持ちでないように思いました。ホルエム様は王太子です。王国の中でヒクソスの味方をしてくる人たちの中心になってもらえたらいいと思います」


 ヒクソスと人間が手を取り共に生きられる国にしたい、メリシャたちが目指すものを、シェシも理解している。

 相手を殲滅するのでない以上、相手の中にも味方を広げていかなくてはならない。その中心になってくれそうなホルエムを害するのは、ヒクソスにとって致命的な悪手なのだ。


「そうだね。ボクもそれがいいと思う」

 シェシの意見に、メリシャは微笑んだ。


 ただ、それだけではヒクソスの内部に不満がたまる。理想はともかくメネス王国への恨みは深い。それを抑えるには、多少の賠償をもぎ取るよりも、もっと大きなものが必要だ。だが、それはホルエムと引き換えでなくても手に入る。


「ボクは、ホルエムをこのまま王国に帰そうと思う」

 メリシャは、議論が行き詰まり、黙り込んでいたサリティスたちに提案した。


「メリシャ様、しかしそれでは…!」

「シェプトの言いたいことはわかってるよ」

 シェプトを制し、メリシャは話を続ける。


「ただ帰すわけじゃない。メネス王都メンフィスにホルエムを送り届ける時に、ボクとフィル、リネア、シェシも同行する。ヒクソスの新王として隣国の王に挨拶しておく必要もあるしね。そして、その場でボクからメネスの王に属国関係の解消を宣言するというのはどうかな?」


『それは…!』

 発した言葉は同じだったが、ウゼルは喜色、シェプトは困惑、そしてサリティスは不安、それぞれの表情を浮かべていた。


「属国関係は解消するけど、直ちにメネス王国と戦争をするとか、関係を絶つつもりはないよ。適正な対価を支払うなら交易も認めようと思う」

「しかし、メネス王国が素直に応じるでしょうか…」


「王太子を無事に返すのは、こちらから敵対するつもりはないっていう意思表示でもあるんだけど…同時に、こちらは王太子の身柄を利用しなくても、メネス王国の支配を撥ね退けられるんだぞっていうアピールでもある。武力による脅しはもう通用しないって悟ってくれればいいんだけど…」

 そしてメリシャは、まだ難しい顔をしているシェプトに尋ねる。


「まぁ、王国のことはとりあえず置いておくとして、…シェプト、属国関係を解消できたら、ヒクソスの不満は落ち着かせられると思う?」

「大多数は大丈夫でしょう。しかし、王国に対してより強硬に行くべきと主張する者はどうしても出てくるでしょうな」


 属国関係が解消されたことで、メネス王国恐れるに足らずと勘違いする者がいるということか。

 だが、実際には国力で王国の方が優位なのは変わりないし、戦力においても、王国軍を追い返したのはフィルであってヒクソスではない。


「すぐには王国も手を出して来ないと思うけど、決して王国が弱くなったわけじゃない。まともに戦ったわけでもないのに、慢心が広がるのは良くないね」


「メリシャの言う通り。たった一度追い返したからと言って、王国はそれで揺らぐような国じゃない。それはシェプトやウゼルもわかっていると思うけど?」

 そこへ、ホルエムに面会しに行っていたフィルとリネアが戻ってきた。


「はい。この度のことは、フィル様方のお力添えがあってのこと。ヒクソスの手柄でないことは我も重々承知しております」

 ウゼルは、神妙に頭を下げた。


「そうね。今はまだ、ヒクソスだけでメネス王国に勝つことは難しいかな」

「はい。王国の人間とも共存したいというメリシャ様たちのお考えは承知していますが、王国がヒクソスに手を出して来るなら、国を守らなければなりません。今はフィル様方のお力に頼らねばなりませんが、いずれ我ら自身の手で王国に勝てるようになりたいと存じます」


「王国に勝ちたい…か」 

 腕組みして聞いていたフィルは、厳しい視線をウゼルに向けた。だが、ウゼルの言う事も理解できる。

 ホルエムは穏健な考えをもっていたが、それが王国の総意ではないだろう。ヒクソスが王国に攻め込むことがなくても、王国がいずれまた攻めてこないとは言いきれない。


「……前に言った通り、王国に勝つためには、これまでのヒクソスの戦い方を否定することになる、それは覚悟してもらうわよ」

「はい。儂らがこれまで王国軍に勝てなかったのは事実。どうか、ヒクソスの戦士たちを鍛え直してくだされ」


「わかった。戦士の訓練は引き受ける」

 頷いたフィルは、思い出したようにポンと手を打った。


「そうだ、ウゼルとの決闘の時、メリシャに斬りかかった戦士が二人いたわね。確か、処罰保留にしてたと思うけど…その二人、連れてきてくれない?」

 ウゼルは心配そうに表情を曇らせる。

「フィル様、大変身勝手なお願いですが、どうか死罪だけはご容赦頂けないでしょうか?…あの二人はいずれも優秀な戦士です、必ずメリシャ様のお役に立たせます故」


 ウゼルは随分とあの二人に目をかけている様子だ。フィルは、クスッと笑ってパタパタと手を振る。

「死罪になんてしないから、安心して」


「は、はぁ…では、どうなさると?」

「二人には、ホルエムを連れてメネス王都メンフィスに行く時に、わたし達の護衛として一緒に来てもらうわ」

 フィルの提案に、ウゼルは呆気にとられる。


「それは…どういうことでしょうか?」

「言葉のとおりよ。…ウゼルも二人は優秀な戦士だと言ったじゃない。何か心配でも?」

「しかし、メリシャ様にはフィル様とリネア様がおられます。お二人よりも弱い護衛など必要ないのではないかと」


「あら、か弱い女二人で王を護衛するなんて、とてもとても…」

 頬に手を当ててわざとらしく言うフィルに、ウゼルは微妙な表情になる。


「ウゼル様、ヒクソス王にヒクソスの戦士が同行するのは当然だと思いますが」

 振り返れば、ひやりとした微笑みを浮かべたリネアが立っていた。

「それは、その…ヒクソスにはお二人よりも強い者など…」


「強いかどうかはどうでもいいのです。ヒクソス王が外国に赴くのに、自国から護衛の戦士が一人も付いていないとなれば、メネス王国の方々にどう見えるでしょうか。…メリシャに恥をかかせるおつもりですか?」


「っ!…決してそのようなことは…!仰せのままに!」

 微笑みの中で目だけが笑っていないリネアに、ウゼルは慌てて返事をした。

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