第7話 敗走と人質

 国境からややヒクソス側に入った平原に、メネス王国軍一千が布陣していた。

 その前列中央のにある天幕の下に、やや浮かない表情を浮かべている少年の姿があった。


「殿下、伝令によれば、先遣隊によるラニルの襲撃は成功したそうです」

「見せしめに町をひとつ皆殺しにするなど、本当に必要なことなのか?」

 喜々として報告する幕僚に、やや不服そうな声でホルエムは言った。


「ヒクソスが無謀な反抗を企てぬようにするためです。連中は蛮族。我らの力を見せつけ、反抗が無駄だと分からせることが、ひいては連中のためというものでございます」

「…うむ」

 ホルエムは短く唸る。それでホルエムが納得したと思ったのか、幕僚は一礼して天幕から出て行った。


 ホルエムは、メネス王国の国王ウナスの長子、つまり王太子である。16歳になったばかりのホルエムは、次代の王として実績を上げるため、軍司令としてこの場にいた。

 とは言え、実質的な指揮は幕僚たちが行っており、ホルエムはお飾りと言って良かった。国境近くにあるヒクソスの小さな町を先遣隊に襲わせるという作戦も、彼自身はあまり乗り気ではなかったが、幕僚たちの手前、強く反対することもできず、モヤモヤとした気持ちを抱えていた。


 伝令が報告に戻ったということは、先遣隊もほどなくしてこちらに戻るだろう。個人の感情としては戦士でもない女子供まで虐殺した者たちなど罰したいところだが、軍司令としては任務を果たした者は称賛しなくてはならない。ホルエムは重いため息をつく。


 太陽が真上に差し掛かる頃、兵たちが騒がしくなった。

「何かあったのか?」

 ホルエムは、天幕を守る護衛兵に尋ねる。


「いえ、先遣隊の者らしき兵が戻ってきたようなのですが…」

 護衛兵の答えは歯切れが悪い。直感的に何か良くない事が起こっていると感じた。


 ホルエムは、自ら状況を確かめようと天幕を出て歩を進める。慌てて護衛兵が周りを固め、幕僚が駆け寄ってくる。

「殿下!お戻りください!」

「先遣隊が戻ったと言うではないか。労ってやらねばなるまい」

 そんな気は無いが、前に出るための方便だ。居並ぶ兵たちの先頭に出てみると、10人ほどの兵がよろめきながらこちらに向かってくるのが見えた。


「…少ないな」

 ホルエムはつぶやく。確か先遣隊は百人規模だったはずだ。今見えている兵たちの後に後続がいる様子もない。


「見苦しい真似をしおって……」

 幕僚が苦々しげな表情を浮かべた。先遣隊の兵たちは隊列も組まず、バラバラになっていた。時折後ろを振り返っては、もはや力の入らない足を無理矢理前に出す。それは、まるで何かから逃げているような…


「殿下、彼らは疲労している様子。労いは改めてといたしましょう。さぁ、天幕へお戻りください」

 幕僚がそう言って、前に出ようとするホルエムを押しとどめた瞬間、青白い閃光が走った。


 ホルエムは見た。ボッと短い音がして、一人の兵が火柱に変わった瞬間を。周りの兵たちからもどよめきが起こった。

 幕僚も驚愕の表情を浮かべたまま固まっている。


 そして次の瞬間、また一人、兵が青白い火柱に変わった。運良く逃れた兵は悲鳴を上げ、足をもつれさせて転ぶ。それでもこちらに向かって這いずってでも逃げようと必死の様子だ。その隣で、火柱となった兵の体が地面に崩れ落ち、燃え尽きていく。

「魔術だ!ヒクソスの連中も魔術を使うぞ!」

 兵の誰がが叫んだ。ざわりとどよめきが広がり、兵たちに恐怖が走るのがわかった。それに気付いた幕僚が慌てて叫んだ。


「ち、違う!あれは魔術ではない。あんな魔術は存在しない!…火矢、そうだ火矢だ!ヒクソスの連中が背後から火矢を放っているんだ!」

 だが、その直後に幕僚の発言は全くの見当外れだと証明されてしまう。逃げ惑う兵の後ろから、身体の周囲に青白い狐火を幾つも浮かべたフィルの姿を現れたからだ。


 目の前の兵をまた一人火柱に変え、フィルは布陣するメネス王国軍に気が付いた。

「道案内、ご苦労様」

 もう用済みとばかりに、フィルが腕を一振りすると残りの兵全員が一瞬で火柱に変わる。

 そのまま王国軍の陣へと歩みを進めるフィルの姿を、王国兵たちが呆然とした表情で見つめていた。


「ば、化け物!」

 ついに耐えられなくなった兵が、手にした弓を引き、フィルに向かって射かける。ビュンと音を立てて山なりに飛んだ矢は、フィルの周りに浮かぶ狐火に触れ、燃え尽きた。

「撃ったわね…?」

 にぃっとフィルの口角がつり上がる。その身体が金色の光に包まれ、九尾の姿に変わった。


 小柄な少女の姿が一瞬にして大きな獣へと姿を変える。それは、先遣隊の兵が一瞬で焼き殺されるのを目の当たりにし、すでに怖気づいていた兵たちの心を折るには十分だった。

 顔を引きつらせて後ずさりしたかと思うと、手にしていた盾を投げ捨て、後ろにいた兵を押しのけるようにして走り出す。


「う、うわぁぁぁ!」

 数人が逃げ始めると、隊列は一気に崩壊した。

 それを好機と、フィルはメネス王国軍の陣営に向かって猛然と走り出した。それが更に逃げる兵達をパニックに陥れる。もはや身分など関係ない、ホルエムの側にいた幕僚は、自分も逃げようとして転倒し、兵達に踏み付けられていた。


「…なんなんだ、あの獣は!」

 そんな中、兵たちの隊列より前に出ていたホルエムは、自軍の崩壊に巻き込まれずに済んでいた。

 だが、金色の獣はすでにホルエムの間近に迫っている。こみ上げる恐怖に耐えながら、ホルエムは腰に下げた剣を抜いた。


 気が付けば、自分の周りには誰もいない。兵たちにとっては、自分の命の方が大事なのだ。王太子の地位などそんなものかとホルエムは滑稽になる。自分がここで死んでも、宰相あたりが王家の血を引く者の中から適当な者を見繕い、代わりの王太子に据えるのだろう。

 だが、それでもホルエムは剣を正面に構え、迫り来る獣の姿を睨み付けた。


 崩壊していくメネス王国軍に、フィルは少し拍子抜けしていた。サリティスたちから聞いた話で、それなりに精強な軍なのだと思っていたのだが、フィルの姿を見た途端に総崩れになった。

 先遣隊の兵を目の前で焼き殺すという演出が効いたのかもしれないが、それでも脆すぎる。陣営の中に飛び込んでもう少し暴れてやろうと思っていたのだが、その必要もなさそうだ。


 …と、フィルは逃げ出す兵たちに混じらず、こちらに向けて剣を構えている少年に気が付いた。兜は被っていないが、要所要所に金を使った豪華な鎧を身に着けているところを見ると、身分は高そうだ。

 おそらくは、王族か高位の貴族。それなのに、九尾の姿を前にして一人で踏み止まるというのは、なかなかのものだ。フィルは少年に興味を覚える。


 王国軍を追うのをやめ、フィルは少年の前で立ち止まった。


 悠然と9本の尻尾をなびかせた金色の獣の姿に、ホルエムは剣を握りしめた手が震えているのを感じた。正直言えば逃げ出したい。だが自分は王族だ。無様に逃げ出せば王国の威信に泥を塗る。それに自分の無事を祈ってくれたネフェル…いや、巫女長にも申し訳が立たない。首から提げた護符の重みを感じつつ、ホルエムは前を睨み続ける。


 間近に迫った巨大な獣は、しばらくの間ホルエムをじっと見つめていたが、不意に金色の光に包まれた。光はすぐに消え、そこに立っていたのは先程の少女。

 髪の間からはピンと尖った獣の耳が伸び、人間でないのはわかる。だが、金色の髪や紅い瞳はヒクソスの特徴ではない。それに、ヒクソスの民があのような巨大な獣に姿を変えるなどとは思えないが…


「わたしはフィル。あなたの名は?」

 フィルは、両手を広げて敵意がないことを示しながらホルエムに近づく。


「俺はホルエム。メネス王国王太子ホルエムだ!」

 獣人の少女の姿とは言え、あの巨大な獣が変じた姿。ホルエムは油断なく剣を構えたまま答える。緊張と警戒のあまり怒鳴るような答え方になってしまったが、フィルは気にした様子もなく微笑んだ。


 向かい合う二人の側に、リネアに守られたメリシャとシェシが追いついてくる。

「…ホルエム様?」

「シェシ殿、なのか…?」

 互いの顔を見たホルエムとシェシが同時に驚きの声を上げた。


 メネスの王太子であるホルエムと、ヒクソス前王の娘であるシェシは、宗主国と属国の関係ではあるが、一応は王族同士。式典などの際に何度か顔を合わせたことがあった。

 だが、まさかこんな場所で出会うとは思わず、互いに呆気にとられる。


「シェシが知ってるなら、本当に王太子殿下のようね……ホルエム、あなたと戦う気はないから、剣を下ろしてもらえない?」

 フィルの言葉に、ホルエムは警戒しながらもゆっくりと剣を下ろした。


「シェシ殿、この者たちはヒクソスの手の者なのか?」

「こちらは、メリシャ様、フィル様、リネア様です……メリシャ様は父シャレクの死を受けて、この度、新たなヒクソスの王になって頂きました」

 シェシの答えに、ホルエムは軽く眉をひそめた。

 ヒクソスで新王が即位したという報告は受けていない。しかも、ヒクソス王は確か武勇に優れた者がなるのではなかったか。どうしてこのような女性が…王となったのか。それに、彼女は他の者たちのような獣の耳や尻尾がない。見た目は完全に人間としか思えないが。


「シェシ殿…ヒクソスは我が国と敵対するつもりなのか」

 お飾りの将とは言え、ホルエムも今回の出陣がヒクソスに圧力をかけ、従属する立場であることを認識させる目的であることくらいわかっている。

 だが先遣隊は全滅し、本隊も逃げ去った。本国がこの事態を知れば、ヒクソスが王国に反抗したと見做すだろう。


「それは…」

 シェシは、一瞬口ごもったが、キッと顔を上げて答える。

「王国軍に襲われたラニルでは、誰一人生き残ってはいませんでした。ラニルの民は戦士ではありません。王国に対して何も害をなすようなことはしていません。それなのに、王国はどうしてあのような酷いことをなさったのですか?!…フィル様がお怒りになったのも当然だとシェシは思います!」


「…そうだな…シェシ殿の言う通りだ…」

 シェシの剣幕に驚いたホルエムだったが、数瞬の後、目を伏せてつぶやくように言った。


「シェシよりも小さな子まで、冷たくなっていました…!王国はどうしてそんなことが平気でできるのですか?!」

 自分はそんな蛮行を望んではいなかった。しかしそれを言ったところでただの言い訳だ。将の立場にあったのは自分であり、麾下の兵達がしたことは自分に責任があるのだ。

「すまない。ラニルの民には本当に申し訳ないことをした」

「…っ!今更謝罪されても、もう取返しはつかないのですよ!」


「シェシ、今はそれくらいで許してあげなさい」

 ホルエムを庇ったのは意外にもフィルだった。

「フィル様…」


「ホルエム、ラニルを襲った兵には、その蛮行に見合う報いを与えた。けれどわたしは、やられた以上の報復をしようとは思わない。だから、あなたが率いていた王国軍の本隊まで全滅させるつもりはなかった」

 王太子である自分に対等…というより目上のような口調で話すフィルに、ホルエムは少し驚く。だが、さほど不愉快とは思わなかった。あの巨大な獣の姿といい、きっと彼女は人間ではないのだ。だとすれば人間の身分など気にしないのも当然…ホルエムはそう思った。


「まぁ、わたしが何かする前に王国軍が総崩れになっちゃったから、手出しする気が失せたのも事実だけど…」

 フィルはそう言って周囲に視線を向ける。王国の兵は全て逃げ出し、残っているのはホルエムだけだった。ホルエムもそれに気付き、剣を鞘に収める。もう抵抗しても無駄だ。


「フィルとやら、俺の負けだ。好きにするといい」

 ホルエムは腰の剣を外してフィルに差し出した。だがフィルは剣を受け取らない。


「それは持ってていいわ。どのみち、そんな武器じゃわたしには傷をつけられないし」

「では、俺をどうする?」

「…そうね、王太子殿下にはこちらの捕虜になってもらおうかな。一応、王国に対しての人質ってことで。…もちろん、酷いことをするつもりはないから安心して。遠からず、王国にも帰してあげるから」

 フィルは王太子がそう悪い人間ではないと感じていた。シェシに部下の蛮行を責められても言い訳しなかったし、フィルを前に一人で踏み止まった勇気もある。


 王国が軍を動かすのに、体のいい神輿として担ぎ出されたのだろう。しかし、同じくらいの歳でサエイレム総督となり、帝国本国を相手にしていたフィルからすれば、神輿に甘んじてしまうあたりはまだまだ…と思ってしまう。

 …さすがに、そこまで求めるの酷か…。


 フィルは再び九尾の姿となった。ホルエムがが思わず息飲むのを、面白そうに見やる。

「さ、全員わたしに乗りなさい、アヴァリスに帰りましょう」

 

 王国軍を追い返した上に、王太子を捕虜として連れ帰った。それはヒクソスにとって宿願とも言える勝利である。

 だが、アヴァリスに帰ってきた一行を出迎えたサリティス、シェプト、ウゼルは、王太子ホルエムの扱いに困り、思わず頭を抱えるのだった。

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