サイダードロップ

 やってしまった、と思った。言葉にしていいことと悪いことの区別は、ついているつもりだった。何でも話すことができて、気分が良くなっていたせいかもしれない。咄嗟に口から滑り出て、自分ではどうしようもなかった。どうしようもないと気づいてから、後悔をした。

 それでも、三日後に、音楽室に来てくれることが彼にとっての慈悲だったのだろう。水曜日。私は、何度も手帳のカレンダーの、その日付をボールペンで囲んだ。

 次に会ったときは、ちゃんと謝ろう。

 そう決意をして、私は音楽室に向かった。彼がいますように、という都合のいいことを願いながら。音楽室に辿り着いた時、中からピアノの音色が聞こえてきたことへの安堵感はすさまじかった。


「あの……」


 分かっていながら、すぐに言葉にできないのは、私の悪いところだと思う。言葉にするよりも誠意のない謝罪をすることの方が多かった。


「……ごめんなさい」


 一思いに謝り、彼に見えていないことは理解しながらも頭を下げる。ピアノの音が途絶えたから、彼も手を止めたらしい。


「別にいいよ。君の発言はそんなに良い物だとは思わないけど、僕も僕だ」


 多分この場を客観的に見て、100悪いのは私だと思う。彼は何も悪くない。きっと気分を害しただろうに、私に何も言わなかった。


「……まぁ、会えるのは今日だけなんだし。1日くらいくさくさしないでさ」


 彼の言葉にハッとする。そうだ。この音楽室に来れるのも今日で最後。透明な飴をくれた場所は、もう無くなっていた。


「そ、それなら、現実世界でも一度会ってみない?」

「僕、オフ会はしない主義だから」

「おふかい……?」


 ピアノの音は依然として聞こえてくる。

 彼はえー、と呆れたように呟くと


「SNSとかでさ、実際に会ってみるってやつ。僕そういうの嫌いだから現実世界でも会いたいとは思わないかな」

「そっか……」


 私は、SNSなんてやったことがないからよく分からなかった。母親にも禁止されているし。

 だけどおそらく始めてみたら、私はオフ会なるものをすると思う。だって、何も知らない状態で打ちとけた人間なんて、貴重なのではないか、と思うから。

 どうやら本当に会う機会はないらしい。なければ、何をしたらいいんだろう。

 とりあえず、できる限りの質問をしたり、それとも何か共通の話題を見つけて、話してみたり。

 一体何を――


「そういえば君は、将来何になりたいと思ってるの?」

「え……」


 突然の質問に思わず声が漏れる。

 将来。考えたこともなかった。考えたことがないというよりも、多分母の言うことに従うんだろうと思っていた。

 公務員か、お堅い会社か、それか他の何かか――


「なんでもいいわ」

「何でも……?」


 彼が怪訝そうな声を出す。

 

「本当に何でもいいの。本当に何でも良くて、でも……」


 何となく、目線を落とす。彼が今、指を触れているだろう場所。最近教えてもらった、エチュード。彼のピアノは耳から離れなくて、何度も頭の中で奏でられた。


「将来、ピアノは習ってみようかしら」

「ピアノ?」

「だって貴方のピアノを聞いたら、そういうのもいいのかもしれないと思って」

「そ」


 素っ気なく返事をした彼の声には、ちょっとだけ嬉しさが滲んでいるように思えた。あまり自覚はなかったが、一度傷つけてしまった手前、少し安心する。


 ああやって良くない別れ方をしたのに、今夜は意外と和やかな空気で始まった。昼間に晴れていたせいか、空はいつもより少し澄んでいて、音楽室の空気の透明度も高い気がする。そんな空間に、私たちは溶け込むように、会話をした。

 ずっと、どちらかが感情的になることもなく、穏やかだった。最後にふさわしいような、そんな夜になった。


「じゃあ、僕は帰るから」


 彼が立ち上がる。いつもの流れだ。私は時間が許すまで、この場にとどまっていようと思っていた。

 別に何かが変わったわけでもない。たった一つの出会いで、この先こんな出会いはきっと沢山あるのだろう。でも彼との出会いは最初で最後であり、唯一無二なのだという予感がどこかしていた。


「あの」

「何?」

「下の名前だけなら、聞いて欲しいなって。あまりいない名前だから、この先何かあった時に気づくかなって」

「まぁ……」


 彼は少し口ごもる。彼も寂しさを感じてくれていたらいいなと思った。


「ミコトっていうの。別に覚えてなくてもいいけど」

「……まぁ、忘れとくよ」


 じゃ、と彼はさっさと音楽室を出て行ってしまった。たった3回の出会い。しかも、透明な飴が繋げた出会い。

 ――そういえば、私はあの飴をソーダ味の飴と呼んでいたけれど、彼はサイダー味の飴、という言い方を頑なに変えなかった。


 思い出しても泣く程じゃなかったし、泣く資格はない気がしていた。私はそのまま夜が明けるまで、音楽室で過ごし、少しだけ透明が消えてきた頃に、外に出た。

 空は白みはじめていて、太陽が眩しかった。朝焼けと夕焼けは、同じくらい赤いことを知った。


「教室でそのまま過ごそうかな」


 宿題は全部家に置いてきている。忘れてしまうことになるけれど、今日くらいいいだろう。

 私は、教室までの道を歩き始めた。体の中まで浄化されるような、そんな朝だった。













「美琴さんは、ピアノが趣味なんですか?」

「えぇ。大学の時から習っていて」


 私は、趣味である映画鑑賞のために、都内の映画館を訪れていた。インタビュー付きのもので、今は主演女優への質問が行われている。美琴は、最近売れてきている女優で、その美貌と上品さで人気を集めていた。


「ピアノを始めたきっかけとかあるんですか?」

「きっかけ、ですか……うーん、なんて言えばいいのか分からないんですけど」


 私は大学を出てから、教師になっていた。高校生の頃には医者になりたいと思っていたから、夢が叶ったわけじゃない。でも、教えることは意外と性に合っていたようで、別に充実しているわけでもないけれど、それなりに楽しい日々を送っている。

「僕」という一人称で過ごしていた時のことを思い出す。一種の反抗期のようなものだったと思う。大学生になってから元に戻して、何となく暮らしてきた。別に自分が好きになったわけじゃないけれど、極端に嫌でもなくなった。

 惰性で続けたピアノはもう今はやめてしまったけれど、私のピアノの音色が好きだと言ってくれた少女はいた。嬉しくて、度々思い出してはドキドキした。

 そういえば、あの子は今どうしてるんだろう。私は意地っ張りだったから聞けなかったけれど、せめて何か見つける鍵になることだけでも、聞いておけば良かった。

 過去のことをぼんやりと思い返しながら、映画を見つめる。この映画も凄く良かった。B級映画だったけれど話の構成がしっかりしていたし、美琴の演技はやっぱり光るものがあった。


「別れの曲っていう曲を聴いて、その音色が好きになったんです」

 

 何となく、本当に何となく気になって、美琴の名前を検索エンジンにかけてみる。二つ年上の二十五歳。女性。趣味はピアノ。好きな飲み物はアールグレイティー。好きな食べ物、


 サイダードロップ。

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サイダードロップ 時雨 @kunishigure

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