音楽室

 とても個人的な考えだけれど、朝の学校と放課後の学校が、僕は好き。朝は誰もいなくて、教室がしんと冷たく、どこか寂しい気持ちがするのに、開放感がある。夜の学校に行ったことはなくて、でも非日常的な感じと、朝になれば全部リセットされる感じが、楽しいんだろうな、とずっと思っていた。


「透明人間になれる薬」っていうのを、もらった。





 お試しだからあげるね、と怪しい雰囲気のするおばあさんに貰った。明らかに変だったから、でも、断って何かされるのも怖くて、受け取るだけ受け取ってみた。

 家に帰ってからやっぱり気になって、舌先でつついたら案外美味しくて、あっ、これ本当にただの飴かもしれない、なんて、普段では考えられないようなことを思ったっけ。

 人間、開けないでと言われたものほど開けたくなると言うけれど、自分の心に、して欲しくない、と言われたこともしたくなるもんだと思う。自分の中の天使と悪魔の戦いなんてよく描かれるけれど、だいたい悪魔に負けてるし。

 そういうわけで、僕は自分の心にちょっと反抗して、飴を全部舐めてみた。

 透明人間がどうというのははなから信じてなかったから、自分の部屋で、勉強しながら舐めていた。舌の上で転がるそれは、サイダーの味がして、思ったよりも美味しい。コンビニとかで売られているよりも、少し高級な感じがした。

 そうやって全部を舐め終わる頃、僕は手がないことに気づいた。手がないというか、ペンが浮いているようになっていて、手があるはずの場所にある文字さえ、はっきりと見えていた。

 信じられない話だけど、透明人間になれるっていうのは本当らしい。

 手を止めて考える。僕は今、透明人間になれるとかいう意味不明な薬を持っている。僕の頭がおかしくなったわけじゃなかったらおそらくそれは現実であり、ということは僕は今かなり利用価値の高いものを持っている……ということになる。

 一体どうやって使うのが正解だろうか。


 例えば、僕は今大学受験で推薦を取りたいから、定期テストの点数はかなり気にしている。職員室に忍び込んで解答でも見れば、かなり高い点が取れるだろう。僕はいつも良い点数を取っているから、怪しまれることもない。別のことに使える時間は増えるはずだ。

 他にもきっとたくさんある。事件を起こしたって、証拠は揃いにくくなるだろうし、今までだったら入る勇気のない部屋に入ってみるとか、別に僕にはいないけれど、好きな人の部屋を覗いたりだとか。

 なんなら、そういう名目で他人に高値で売りつけることだってできる。

 ふむ、と僕は一旦出てきた案をメモ帳に書きつけ、検討してみた。定期テストの答えを見るのはかなりアリ。売りさばくのも結構アリ。

 だけど――


「うーん、もういっそのこと夜の学校にでも行くか?」


 これといって実行しようという気にはならなかった。よく考えてみれば、こんな小手先の道具で得られる利益なんてたかが知れている。僕はもっと人間として成長したいのだ。今まで勉強を頑張って、運動や読書に時間をつぎ込んできたのもそのため。なのに、こんな怪しげな薬を使うのは、何か今までの努力がふいになるような気がした。


 自分でも気付かぬうちに口に出した言葉が、案外脳にすっと溶ける。小さい頃から、自分の知らない学校というのが好きだった。幼稚園のときはよく遠くから地元の中学を眺めていたし、小学生になれば、習い事の帰りに見るのが好きだった。中学生では、自習するために早朝に学校に来ていたけれど、やっぱり教室に誰もいない朝というのはどこか神秘的な感じがした。

 もう目的の無くなった飴たちを机の引き出しに入れ、僕は立ち上がる。

 そんな風にして夜の学校に通い始めてついに何もすることがなくなった日、音楽室でピアノを弾いていたら、彼女と出会った。


「そういえば、いつもなんの曲を弾いているの?」


 彼女は、僕が夜の学校に来る日に合わせて、また同じように来た。僕は別に彼女のことを気にしてはいないから、適当にピアノでも弾いて、適当な時間に帰ることにしよう。

 ただ、こうやって会話していると結構面白かった。彼女は僕と全然違う。思考回路も、感性も、何もかもが違う。リアルで生きていたら、絶対に関わることのないタイプだ。

 SNSに近いんじゃないかと思う。顔も声も、体型や、時には性別さえ知らない人たちと会話をする。文字は思考を垂れ流しにして、人となりが分かりやすい。


「ショパンの別れの曲っていうやつ」


 別に思い入れがるわけではない。ただ曲調が美しいと思ったから、弾ける人間になりたいと思っただけだ。

 それなのに、彼女はさも関心があるかのように、感嘆の声を上げた。赤の他人である僕の趣味嗜好など知って、なんの意味があるのだろうかと思う。こういうところでも、僕と彼女はかなり違っていた。

  

「なんでピアノを弾いてるの?」

「特に理由はないけど」


 僕は基本、物心ついた時から、自分の選択はできるだけ自分でしてきたつもりだった。だけど、ピアノだけは別だ。ピアノに関しては、小さい頃、母親に強制的に習わされたものだった。今までの人生においてたった一つ、惰性でやってきたと言えるがこのピアノで、だけど、不思議とやめようとは思わなかった。

 気づけば、かなりの腕前まで上達しているような気もするが、コンクールに出ようとも思わなかったから、ただ家での練習を続けた。


「そうなのね」

 

 納得していないような声を出しながら、彼女は依然として質問をする。彼女との会話では、こういうことがよくあった。彼女が僕に質問をして、僕が答える。彼女はきっと僕の話に対しては納得も理解もしてなかったけれど、満足したようなふりをして、会話を続けようとする。


「貴方はどこに住んでるの?」

「言いたくない」


 だって相手は、赤の他人なのだ。今情報を渡したとして、どんな風に利用されるのか、分かったものじゃない。

 なのに、彼女はそこら辺の警戒心がまるでなく、何も気にしていないようだ。自分から個人情報を話すことはなかったが、きっと尋ねれば答えただろう。逆に、それが嫌だったから、僕から聞くことはなかったけれど。

 

「貴方のことに関しては何も教えてくれないの?」


 どうしてそんなに僕のことを知りたがるのか。僕からしたら、最初から理解できないと分かっている人間のことを分かろうとするほど、意味のないことはないのに。


「だって君は、SNS上の人間に個人情報を教えられて素直に答えるの?」

「別に私たちは、SNSで繋がっているわけではないわ」

「似たようなもんだろ。僕も君も、お互いのことを知らない人間なんだ。そして、それを確かめるすべがない。実際の世界でも証拠を集めるのは大変なのに、こんな虚構で繋がった世界なんて、なおさら」


 はぁ、とため息をつきつつ、言う。ピアノを弾く手は止まっていた。だから、彼女と話すのは嫌なのだ。僕自身のペースを乱される。

 

「貴方は、普通に生活していても、証拠を集めているの?」

「そんなの、当たり前だろ」


 即答した後、自分の失態に気づいて思わず口元を抑えた。もちろん、それが彼女に見られることはないけれど。

 そうだ、当たり前じゃないんだ。僕のこの人間不信に足る行動は普通じゃない。分かっている。でも、やめられない。

 誰かが発言すれば、その理由を知りたいと思って、推測する。推測に、その人の行動が合致するのか、いちいち確かめる。誰かに悪意を向けられたくなかった。

 今の世の中は、かつてに比べて共感を求めるという話を聞いたことがある。

 自分の存在を認めることが難しい時代になったんだろうか。僕も普遍的な若者として、その波に吞まれていた。

 

「貴方のこと、初めて話した時は、自分に興味がないのか、それともやたら意識が高い人間なのかと思ってた。でも今考えてみたら違うのね」


 彼女の言葉は、どんどん遠慮がなくなってきていた。普段は言えないだろうことを、何も知らない僕には存分にぶつけることにしたらしい。


「貴方、自分のことが嫌いで嫌いで、仕方ないのね」


 彼女はいつも、僕の後ろに立っていた。ピアノを弾くのに邪魔にならないように、後ろからそっと、声をかけるのだ。

 でも今僕は、ピアノを弾いていなかった。だから、はっきり聞こえてしまったのだ。自分でも、ずっと蓋をしていたことが。気づいていながら、放置していたことが。彼女は言い当ててしまったのだ。


 中学三年生の時、一度死のうと思ったことがある。海を求めて、なけなしのお小遣いをはたいて、隣県まで行った。自分じゃどうにもならない感じとか、なんとも言い難いけど、とにかくこの世界から逃げたかった。

 実際に見たら、怖くてやめてしまった。そして、思ったのだ。自分が逃げたかったのは、世界なんて壮大なものなんじゃなくて、自分からなんじゃないか、と。

 自分のことが嫌いなら、自分が好きな自分になればいい。

 努力した。いや、正確に言えば、今までも努力はしていた。でもそれは、そうするのが正しいと思っていたからで、自分の意志なんて関係なかった。

 自分の嫌いなところなんていくらでも見つかった。それを一つ一つ、丁寧に潰すように、僕は努力をした。最終的には、全部が気に入らなくなって、性別さえも気になった。

 僕は、高校に入ったタイミングで、一人称を変えてみた。別に納得はしていない。でもそれだけで、なんだか自分が確立された気はした。


「あの飴って、あとお互い一個だけだったっけ。あの、サイダー味の飴」


 飴がなくなれば、お互いに会う必要などなくなるのだ。

 急に関係ない問いかけをしたからか、彼女は戸惑っているようだったけど、それでも肯定の返事をくれた。

 聞き届けて、立ち上がる。


「僕、もう帰るよ。次は、今週の水曜日に来るつもりだから」


 子供じみていると分かっている。でも、歩き出した足は止められなかった。一刻も早く、彼女の元から立ち去りたかった。音楽室にとどまれば、自分の嫌いな自分を彼女にたくさん見せてしまう。見せてしまうような自分が嫌だったから、僕はまた、逃げたのだ。

 帰り道、苛立って仕方がなかった。近くにあった缶を、力任せに蹴飛ばした。

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