サイダードロップ

時雨

ソーダ味の飴

「透明人間になれる薬」なるものを手に入れた。

 

 それは、いかにもな風貌の怪しげな露天商で売られていた。店番をしていたしわくちゃなお婆さんは、「お嬢ちゃん」というあまりにも昭和じみた声かけをして、透明な飴を5つ、私の手のひらに乗せた。

 塾の帰りだった。私は疲れていて、あまりにも怪しげなものなのに、美味しそうだな、となぜかそう思った。「お金はいい」というまたあまりにも怪しい文句にいつの間にか頷いていて、私は飴を握り締めて帰った。

 

 ――そして今現在。蛍光灯で明るい部屋の中で、改めてコロンとした可愛らしい飴を見つめている。ベッドに座り込み、手のひらに並べてみた。

 法律など何も介さないであろうあの露店。「透明人間になれる薬」という言葉通り、この飴は非常にまずいものだろう。ドラッグの類か、はたまた別の何かか。分からないが、舐めるとまず良くないことが起こることだけは分かる。

 だけど。

 だけど、私は心底疲れ切っていた。学校生活に勉強、そして家庭での振る舞い。「いい子になってね」という言葉で育てられてきた私は、「いい子」でいる以外のことを、今まで考えたこともなかった。正確に言うと、考えたことはあったが、それを実現しようという意思がまるで生まれなかった。

 自分の考える限りの「いい子」で生きてきたが、こんなに怪しいものを舐めるなんて「悪いこと」をしたら、どうなるんだろう。

 好奇心が、胸の中で大きくなっていく。脳裏には、田舎のおばあちゃんの家に行った時の入道雲が浮かんでいた。目を離す度に膨らんでいたそれ。一日中気が向けば見つめていたが、最後には大雨が降って、そして、消えて無くなった。

 ひとつだけ。ひとつだけなら、きっと何かあっても大丈夫だと信じて、口の中に放り込む。

 透明だった飴は、ソーダの味がした。口の中で溶けていき、形を失っていく。何も考えずに舐めて、噛んで、じゅわりと広がる味を舌で押し潰す。

 意外と美味しいそれを無心で味わっていたから気づかなかった。不意に視線を落として、仰天する。膝から下にかけてが、既に見えなくなっていた。注意してよく見ていると、飴が溶けるのにしたがって、じわじわと透明は這い上がってくる。慌てて鏡の前に立ち、じっくり観察をしてみた。透明に蝕まれた体は不安定で、自分でも見つめていてあまり気持ちのいいものではないように思える。

 口の中で欠片になる頃には、既に体のほとんどの部分が見えなくなっていた。現実だとは思えないが、実際に起こっていることなのだ。

 試しに、母親の前に行ってみよう……しばらく透明な姿を眺めたあと、そんな考えが浮かんだ。

 今頃はきっとキッチンに立っているはずだ。いそいそと階段を降り、何かを刻んでいる母の前に向かう。

 かなり近くの距離まで寄ったが、気づいている様子はない。母の目の前で手も振ってみたが、何事もないように料理を続けている。

 体が自然と震えた。母には今、確かに私のことが見えていない。


 叫び出したい気分だった。家から飛び出し、夜の町を駆け回る。誰も私に気づかない。誰も私を知らない。何をしても、どこに行っても私だって分からない。

 私は、今、自由だ。










 青臭い考えだと知りながら、非日常な開放感の虜になっていた。いつの間にか手元にあった飴は一つ、二つと減っていき、気づけば三つだけ。

 残り三つをどうやって処理しようかと考え、最終的に思いついたのは、夜の学校に忍び込んでみる、ということだった。

 おそらく普段でも、夜の学校に忍び込む、というのは可能ではあるのだろう。体を持った時の方が、もっとカタルシスも得られるはず。

 だが、それに伴うリスクを考えると、実行することは出来なかった。私は多分どこまでも「いい子」であることを気にしてしまうから、自分の思う一線を超えることができない。

「夜の学校」というのは、小さな時からの夢でもあって、私はすぐに決行する日を決めた。夜通し動くわけだから、翌日には寝不足にもなるだろう。これまでの経験上、透明になれる時間は長くて六時間程度だった。

 学校の七不思議なるものでは、音楽室でベートーベンの絵画が動くだとか、理科室の模型が踊っているだとか噂されているが、本当だろうか。誰にも言っていないが、ホラーがそれなりに好きな私は、そんなことにさえワクワクしていた。

 決行日にもなると朝から込み上げてくるようなソワソワした感じが無くならず、母親にも友人にも指摘された。楽しみにしている本が図書室に届いたのだ、と優等生ぶった回答をし、母親を安心させ、クラスメイトには呆れたような顔をされた。

 放課後を示すチャイムが鳴るなり私は学校を飛び出し、その衝動に任せるように早足で家に帰った。高校生にもなって、こんなことでいちいち沸き立つ自分にはほとほと愛想が尽きる。だが、どんなに落ち着こうと思っても、できなかった。

 それから日が暮れるまでの五時間ほどを、上の空で本を読むなどして過ごした。ページを目が滑り、何も頭に入ってこなかったが、夜の学校に入るという事実だけで満足した。あまりにも楽しみにしていたから、日が暮れたのを確認するなり、私はまた家を飛び出した。母親にバレないように、自室のある二階のベランダから、つたうようにして。

 誰も見ていないのを良いことに、学校まで全力で走った。息が切れたが、それさえ気にならなかった。透明になっている間、人に私が発する物音や声が聞こえないことは確認済みだ。

 自分の吐息を耳元で聞きながら、校門をよじ登る。夢だった。小学校の時、同じクラスだったやんちゃな男の子がよくこうやって脱走していたが、あれは今振り返ると、憧れの対象だったように思う。当時はありえないなどと言って、嫌な顔をしていたが。

 

 夜の学校、というのは思ったよりも暗く、人影がなかった。学校の七不思議を最初に提唱した人は、どんな気持ちだったのだろうか。しかし、もし夜の学校を実際に見たのなら、理科室の模型がどうのだの、ベートーベンがどうのだの、言いたくなるのは分かる気がする。たくさんの人の気配が残っているのに、しんと静まり返っている、というのはどこか不気味なのだ。

 閉め忘れられた窓から吹く風の音さえも、鳥肌を立てる一因になった。ホラーは好きでも、実際に体験すると案外怖いものなのだと知った。

 自分の通っている教室に始まり、理科室、理科実験室、美術室、体育館などを順々に回っていく。

 期待していたような、期待していなかったような展開はなく、残りはなぜかひとつだけ別棟にある音楽室だけになっていた。

 芝生を踏みしめるサクサクという音に耳を澄ませ、音楽室を目指す。

 近づくに連れ、なにか自然には発生しない音が聞こえてきた。ここに来て何か恐ろしい体験に巻き込まれるのではないかと、ドキドキしながら歩を進める。

 音楽室まで二メートルほどになって、やっと分かった。ピアノの音だ。

 こんな時間になってまで残っている人はいないだろうから、やはりベートーベンやショパンの霊か何かが集まり、演奏会でも開いているのだろうか。そう思うほど、音色は美しい。

 どんな曲が演奏されているのかが分からないのが残念だ。小さい頃から母親にはクラシックを聞かされていたが、どれとしてちゃんと聞いたことはなかったし、曲名を覚えようという努力をしたこともなかった。

 たとえばの話ではあるが、もしこの曲の名前と背景を覚えていたら、もっと感動を得られたのだろうか。もっとも、今は感動と言うよりも、恐怖や困惑の方が勝っているが。


 音楽室の外で人の動く気配がしていないか確認してから、ゆっくりと扉を開けてみる。たとえ中に何がいたって、私自身が透明人間なのだから、同じようなものだ。

 いつもと同じ埃っぽい室内だったが、中はなぜか明かりがついていた。ピアノの鍵盤の方へと回ってみると、人はいない。本当に幽霊かもしれない。

 私はほんの傍まで寄ると、そっと鍵盤に触れてみた。曲が終わったタイミングで、深くまで押してみる。どうやら低い方の音だったらしく、不気味な音が鳴り響いた。

 音色の持ち主が、悲鳴を上げる。直接脳内に文字として送り込まれているようで、男性か女性かさえ判別できない。体感だが、目の前にいる幽霊なるものは、透明人間なのだろう。あんな露店で薬が売られていたのだから、私以外に透明人間がいたとして、少しも不思議ではない。

 なるほど、透明人間の会話とは、声も聞こえず、ただ思考を媒介するものらしい。

 不安そうにしている彼(僕、という一人称だったので、とりあえず男性だと仮定することにした)に、本当に透明人間なのかと尋ねてみると、混乱から少し落ち着いたのか、肯定の返事が返ってきた。

 思考の媒介が行われているようなので、細心の注意を払い、余計なことを考えないようにする。私は赤の他人にも「いい子」だと思われたいがために、思考の切り分けは人よりも得意な方だ。

 どうしてこんなところにいるのか、という質問には、特に理由はなく、ただ薬を消費するためであるという答えが返ってきた。もっと自分が使いたい時のためにとっておいた方がいいのでは無いか、ということを伝えると、彼はこんな飛び道具は、将来のために残しておくのも気が引けるのだと首を振る。

 全ての思考があまりにも私と違って、彼のことを理解するのはかなり難しそうだ。

 普通の人間であれば、表情や仕草などで感情が分かるからまだやりやすいが、そのままの思考を理解する、というのには大変な労力がいるのだということを初めて知った。

 ただ、人の顔色を伺わないでいいと言うのは、あまりにも面白い。赤の他人にもフィルターをかけて見せる私ではあったけれど、ここに来て初めて彼が本当に何も知らない他人だということをはっきりと意識した。


 残り二つの飴。彼の手持ちもそれだけだということは、さっき聞いて知った。

 二つの欠片で、彼のことを、もっと知りたいと思った。

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