宿

ここはどこだろう?


無我夢中で走り続けた俺は、いつの間にか見知らぬ村にたどり着いていた。

日ももうすぐ暮れる。

泊まるところを探さなくては。


すると、道を歩いていた初老の男性が、俺の姿を見るやいなや、こう叫んだ。


弥平やへいなのか? いつ帰ってきた?」


「いえ、俺は弥平ではありません。与吉よきちと申します。京に向かう商人あきんどです」


「弥平……ではなかったか……ここから京はまだまだ遠い。与吉さん、今日はわしのところで泊まっていかんか」


「それはうれしいです。ちょうど宿を所望しておりました。ぜひ、泊めさせてください」


なんという渡りに船。

俺は男の家を訪れた。


すると、家から若い女性が飛び出し、俺の方に向かって走ってきた。


「弥平さん! また、会えたのね……」


そういうと、女性は俺に抱きついてきた。


「ちょ、ちょっと待ってください。俺は弥平ではありません。与吉といいます。人違いです」


「え? 何を言っているの? 弥平さん、やっとまた会えたというのに……」


俺は困惑し、男の方を見る。

男は気まずそうな顔をして、俺に言った。


「与吉さん。気を悪くしないでください。これは私の娘、ミヨです。弥平というのは、ミヨの旦那です」


「ミヨさんは、俺を自分の旦那さんだと勘違いしているということですか?」


「……弥平は行商をしておった。けれども、もう何年も帰ってきていない。おそらくは、山賊に襲われて、今はこの世にはおらぬのかもしれん。ミヨはそれで、気がおかしくなってしまった」


ミヨは、サトとは雰囲気が違うが、色は白く、すらりとした魅力的な女性だった。


家に入り、俺は経緯を話した。

また、俺はこれまでの商いのことも話した。


ミヨの旦那も行商だったということもあり、ミヨはすっかり俺のことを弥平だと思ったようで、真剣に話を聞いていた。


「弥平さん、もうどこにも行かないでね」


「……い、いや、そういう訳にはいかない」


すると、ミヨの父は言った。


「与吉さん、すまんが数日だけでいい。弥平のふりをしてくれぬか」


俺は考えた。

泊めてもらった恩がある。

数日でいいのなら、弥平のふりをしてあげよう。


「分かりました。ただ、俺は行商です。髪飾りを売りに行かないといけません」


「京の都は遠いが、この近くにいちが立つ町がある。そこならすぐ行って戻ってこられる。しばらくは、そこで商売をしてくれんか」


京であれ、隣町であれ、俺は商品が売れればそれでよかった。

そして、京に行けばあの藤次郎にまた会うかもしれない。

山賊の件もあり、俺は藤次郎には会いたくなかった。


「……はい、分かりました。しばらく、ここでお世話になります」


翌朝、俺は行李こうりを背負い、隣町のいちへと向かった。


「弥平さん、気をつけてね」


ミヨは心配そうに見送る。


「あ、あぁ……じゃあ、行ってくるよ」


俺は弥平を演じていたが、どうにも自分の妻サトに申し訳ない気がしてしまう。

それも数日の我慢だ。

市で髪飾りを売って、いくばくかの金を稼げたらこの村を出よう。



俺は、隣町に着いた。

新参者なので、市の末席にゴザを広げた。

隣の露店の商人が、俺の並べた髪飾りを見て、感嘆の声を上げる。


「これはいい品ばかりですな」


「ありがとうございます。本来なら、京の都で売るつもりでした。ひょんなことから、ここで売ることになりましたが」


この町は、京に比べると人が少ない。

やはり、京で売ったほうが良かったのか。

そんなことを考えていると、客の一人が俺の商品を見てこう言った。


「なんだ、この赤いかんざしは。くたびれているじゃないか。こんなものを売りつけるのか」


見ると、新品のかんざしの中に、サトの赤いかんざしが混じっていた。


「あ、いや、これは売り物ではなくて……」


まずいな。この赤いかんざしはしまっておこう。


商いはぼちぼちだった。

そろそろ日も暮れる。

俺は、隣の商人に挨拶をして、いちを去った。


「また、次の市でお会いしましょう」


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