月を飛ぶ蝶のように

夜之 呟

月を飛ぶ蝶のように

その夜、僕は、真円の月に迫る、一条の眩い光を眺めていた。


耐え難い恐怖と後悔の中、赤く、妖しく輝くその流れ星に願う。


眼下に広がる東京の街は、同じように空を見上げる人々で路面が見えない。


この先に訪れる未来が予測できているとき、何もできない歯痒さ、もどかしさは、きっと他の何よりも苦しい。


そう、あの時もそうだった。


風に靡く白いレースのカーテンを背に、あの子は、自分がこの世でいちばんの幸せ者であると言い張っているようなとびきりの笑顔で僕を見つめていた。


その顔は、思い出の中でいつも逆光になっている。


自然とこぼれた雫が鼻先をくすぐる。


早く仕事に戻ろう。


何をしようと何にもならなくたって、今僕にできることをするんだ。


僕が追いかけた夢の終着点が、間違っていなかったことを証明する。


決意は固い。


起動したコンピューターの黒いスクリーンに、英文が表示されいく。


The flutter of a butterfly's wing can ultimately cause a typhoon halfway around the world._


意訳するならば、「目の前の蝶の羽ばたきが、地球の裏側で台風を引き起こす」となるだろうか。


エドワード・ローレンツによる、カオス理論における有名な思考実験、比喩表現であり、「バタフライ効果」と呼ばれている。


“観測誤差をなくすことができない限り、数値による長期予測は役に立たない”という提言が元になっているという。


これを僕は、「小さな夢が、いつか世界を変えるほどの大きな結果に繋がる」と解釈して、座右の銘として起動画面に設定しているのだ。


だから今、この言葉を信じるとするならば、現在の騒動のすべての発端は僕にある。


あれは、今から二十余年ほど昔。


僕は当時、急性の肺炎で都内の大学病院に入院していて、そこで、一人の少女と出会ったのだ——




***




ロビーで母と別れた後、僕は看護師さんに連れられて、精密検査の部屋に来た。


「はい、アキラくん、これからこの大きな機械で、君のお体のお写真を撮るよ」


まるでアニメで見たロボットみたいなかっこいい機械に、テンションが上がって来て、恐怖はすっかり忘れていた。


看護師さんの指示に従って、靴を脱いでベッドの上に横になる。


機械は、怪獣が唸っているような轟音とともに動き出した。

ヘッドホンから、安心させようとする看護師さんの声が聞こえてきて、大きな筒の中に、徐々に頭から飲み込まれていく。


熱で心も弱っているのか、痛くはないとわかっていても、このまま帰って来れないんじゃないかとだんだん不安になってくる。


それから、退屈で窮屈な、永遠かと思える検査を終えた。


「アキラくん、お疲れ様。じっとしていてくれたから、綺麗にお写真撮れたよ」


看護師さんが、お腹の上を覆っていたヘンな器具を外してくれた。

呼吸が楽になって、ようやくその器具が重かったことを思い出した。


「じゃあ、これで検査が全部終わったから、一度お母さんのところに戻ったら、お医者さんに呼ばれるまで待っててね」


開いてくれた重そうな金属の扉を出て、静かで殺風景な廊下を、看護師さんと一緒に歩く。

ロビーに続く道へと曲がっていこうとした時、歩いて来た方の角から一人の少女が現れたのを横目に見た。

その少女は、腕から伸びた管が繋がっている棒を掴んで、それを動かしながら歩いていた。


僕は、なぜかその子から目が離せなくて、その場で立ち尽くした。

すると、少女の体が急に傾いて、パタリと倒れ込んだ。

その子の周りには誰もいなかった。


僕が立ち止まったのに気づかず前を歩いていた看護師さんを慌てて呼び止めて、倒れた少女に駆け寄る。


「アキラくん、一人でお母さんのところまで帰れるかな?ごめんね!」


言うや否や、看護師さんはすぐに少女を抱き上げて去っていってしまった。


取り残された僕は、何か大変なことが起こったに違いないと理解して、誰もいなくなった静かな廊下を、一人で歩き始めた。


診察が終わって、僕はロビーで母と二人、お会計を待っていた。

母は、ひどく不安そうな顔で俯いている。

結論から言うと、僕は重い肺炎と診察されて、明日から入院することになった。

「アキラ、ごめんね」「どうしてうちの子が」と、何度も何度も繰り返し呟く母の横顔が、すごく切なくて、かなしくなった。


翌日から、入院生活が始まった。

初めはひどく辛かったけれど、薬が効いているおかげか、かなり楽になった。


ノックの音がして、見覚えのある看護師さんが現れた。

あの日、検査を担当してくれた看護師さんだ。

アカネさんというらしい。


「アキラくん、調子はどうかな」


「少し熱っぽいけれど、かなり元気だよ」


アカネさんは、明るく微笑んだ。


「よかったら、少しお散歩に行かない?君に会ってほしい子がいるんだ」




「ナギサちゃん、アキラくんを連れて来たよ」


僕は、アカネさんに連れられて、四階のとある病室に来ていた。

「どうぞ」というくぐもった声が聞こえて、アカネさんは、そっと病室のドアを開ける。

そこには、風に揺れる真っ白なレースのカーテンの下、丸く膨らんだ毛布があった。


モゾ、と、その膨らみが動いた。

それから、少女は目元までを毛布から出す格好で起き上がった。


「アキラだよ。君、大丈夫だった?」


「あ…あの時はどうもありがとう。急にふらっとして、転んじゃったんだ」


ナギサと呼ばれた少女は、そう言って恥ずかしそうに微笑んだ。

そんな気がした。

実際には、毛布に包まれた彼女の表情は見えない。


「アキラ…くんも、入院してるの?」


僕が頷くと、ナギサは、「そっか…」と悲しそうに俯いた。


しばらく沈黙が流れて、アカネさんは、気まずさを払うように、「何かあったらすぐにナースコールしてね」と笑顔で言い残し、部屋を後にした。


「ねえ、」と、ナギサが沈黙を破った。


「アキラくんはさ、星、好き?」


「なんでさ」


「私、今は体が不自由で動けないから、ベッドで丸くなっていることしかできないけど、夢があるの」


ナギサは、顔を覆っていた毛布を下ろして、天井を見上げた。

僕も、釣られて同じように上を見上げる。

そこには、まるで本物の星空があるかのように、一面に星図が広がっていた。


「私、いつか自由になったら、宇宙に行きたい。どこまでもずっと広がっている、あの星空に、行ってみたいの」


ナギサは、えへへとはにかんで、再び毛布にくるまった。


「さなぎみたいだな」


僕は、大好きな昆虫図鑑を思い出していた。

いつか、自由に大空を舞うことを夢見て、静かにその時を待つナギサの姿は、どこか儚くて、すぐにでも消えてしまいそうで、なぜか、胸がきゅっとなった。


それから、僕は、毎日のようにナギサの病室を訪れた。

たまに会えない時もあったけれど、心配しながら、何度も通った。

彼女はもう、毛布で顔を覆ったりしない。

僕が部屋に入ると、全力の笑顔で笑いかけてくれた。


会うたびにナギサの星の話を聞いていたら、いつの間にか僕も、星に詳しくなってきていた。


「最初に月に降り立った、アームストロング船長の言葉が大好きなの」


ある日、ナギサが言った。


「『一人の人間にとっては小さな一歩でも、人類にとっては大きな飛躍だ』でしょ?気になって、本で読んだんだ」


僕はそう言って、鼻を擦る。

ナギサは、目を輝かせた。


「じゃあじゃあ、人類で最初に有人宇宙飛行をした、ガガーリンの言葉は?」


「『地球は青かった』だよね。あの一言に、言葉以上にたくさんの意味が込められている気がするよ」


僕らは、時間を忘れて語り合った。

本当に、本当に。

心から楽しいと思える時間だった。


僕の病気は落ち着いて、退院の日が近づいてきたけれど、ナギサは、少しずつ元気を失っているように見えた。


「ねえ、アキラ」


ある日、ナギサは急に問いかけた。


「地球最後の日が来たとしたら、何がしたい?」


僕は、真剣に考えた。

ナギサの言葉には、全て、真剣に応えたいと思っていたから。


考え込む僕を見兼ねてだろうか、ナギサは先に口を開いた。


「私は、きっとその時まで生きていないけどさ——」


そう言って、彼女は目を瞑った。




「一度、お別れだね」


退院の日。

ナギサは、出会った頃と同じように毛布で顔を覆っていた。


「また、会えるよね、アキラ」


くぐもった声で、彼女は言った。


「元気になって、宇宙に行くんでしょ?」


モゾ、と動いた毛布の塊は、「うん」と頷いたように見えた。


「僕は、いつか、ナギサが乗るための船を作る。僕が、君に自由の羽をあげるんだ」


「うんッ!」


勢いで出し切ったようなその声は、嬉しそうに弾んでいた。




僕が退院して一ヶ月後、病院から電話がかかって来た。

母が取って話していた。

慎重に受話器を置いた母の顔は、僕が肺炎と診断されたあの時とよく似ていた。

電話の相手は、ナギサの母親だった。


ナギサが、亡くなった。


未だ蒸すような暑さが続く。

そんな九月のことだった。


その日は、涙が止まらなかった。

涙を止めておく関所が壊れてしまったみたいに、いつまでも、とめどなく流れ続けていた。


さなぎは、夢を見たままに眠りについてしまった。

本当の空を知る前に、美しい羽を得る前に、自身の固い殻に阻まれて、その生涯を閉ざされてしまった。


たぶん、そのせいだろうか。

きっと、そのおかげだろう。

僕は、僕の夢に、彼女の夢を重ねていた。




***




あれから長い時が過ぎた。

今年もまた、あの時と同じ、蒸すような暑さが続く九月の上旬。


僕は、地獄の通勤ラッシュに挑んでいた。


冷蔵庫かと思うほど効いているはずの冷房も、触れ合う人肌で意味を為さない。

その暖かさでみんな余計に汗をかくから、窓は全面真っ白に曇っている。


職場の最寄りに到着して、ようやく人混みからは解放されたけど、息苦しさはあまり変わらない。


そんな中、乗って来た電車が去り行くホームで元気いっぱいに笑い合う少年たちの姿を見かけた。


夏休みが明けた子どもたちは、大きく分けて二種類に分類される。


それは、久々に会った友のやけ焦げた姿を見てはしゃぐものたちと、ギリギリまで宿題に追われ続けて目をこするものたちだ。


僕は、学生だった頃、夏休みの宿題とは、夏休みが始まる前に終わらせるものだったから、おそらく後者ではないと思う。


ただ、肌が黒くなるほど外で遊びまわった覚えもない。

涼しい部屋に篭って、大きな図鑑を広げていた記憶ばかりだ。


となれば、前者でもない。


もしかしたら、二分する方法を誤ったかもしれない。

だって、僕のことをどちらにも分類できないから。


僕は近頃、毎日が楽しくて仕方ない。

ご機嫌なのだ。


そりゃあ、地獄のような満員電車に乗りこみ、くだらないことで一人で楽しめるわけだ。

そうでもなければ、気が狂ってしまう。


というのも、これから、ついに僕の夢が一つ叶うのだ。


どんな夢だったかというと、その答えは、ここ、僕の職場にある。


一つ目の自動ドアが開き、キンキンに冷えきった軽い空気が肌をさらりと撫でた。

呼吸が楽になって、思わず大きく深呼吸をする。

鼻から喉を通って肺に流れ込んでくるひんやりと冷たい空気が、体全体を瞬間的に冷却してくれる。

後ろで一つ目のドアが閉まると、すぐに次の自動ドアも開く。


館内一階の、資料館を兼ねたロビーを抜け、関係者以外立ち入り禁止のドアの前に立つ。


カードケースから【日本宇宙航空研究機関】と書かれた顔写真付きのIDカードを取り出し、セキュリティマシンにバーコードをかざして、カメラの前で顔を認識させる。


三階のオペレーター室には、既に何人か来ていた。

集合の時間までは、まだ二時間ほどある。


「お、今日の主役の登場だ。昨日はよく眠れたか?」


同僚の一人が、冗談混じりに挨拶をしてきた。

笑いながら「まあね」とだけ返して、インスタントコーヒーの元にポットからお湯を注いだ。

家でも飲んできたから、これで二杯目だ。


そのあと、さらに三杯目のコーヒーを飲んだあたりから、誰と何を話したかをあまり覚えていない。


ぞくぞくとプロジェクトのチームメイトたちが集まってくる中、僕は何度も何度もトイレに行ったり、イメージトレーニングを繰り返していた。


時刻は十時三十分。

いよいよ、その時は来ようとしていた。


「打ち上げ、十分前」


中継されている現地のスタッフからも、高揚感と不安感をひしひしと感じる。


発射プロトコルが始まる。


各自、予定された通りの行動を、タイマーが示す時間に合わせて実行していく。


「五秒前—」


ついに、メインエンジンがスタートする。

中継映像に映る発射台は、ごうごうと巻き上がる煙に隠されて、ほとんどが見えなくなっていた。


「—ゼロ」


轟音と共に、我らがH-IIAロケットは徐々に宙へと浮き上がる。

この場にいる全員が、固い唾を飲み込んで見守っていた。

僕たちの心配を他所に、そいつはぐんぐんと高度を伸ばしていく。


「機体、軌道に投入され、安定しました。月周回軌道衛星「あげは」、打ち上げ成功です」


部屋中に拍手と歓声が響き渡る。

みんな、スタンディングオベーションだ。

僕も、同じように盛り上がろうと努力はしたけれど、どうにもうまく立ち上がれなかった。

安堵と、達成感と、疲労。

それら全てが僕の体を椅子へと押し付けていた。


約五年間の開発プロジェクトをまとめ上げ、ついに打ち上げを成功させた。


あの子は、天国から見守ってくれているだろうか。

殻に閉じ込められた君の夢に、羽を与えてみせた。

僕はやったんだ。


もちろん、ここで終わりではない。

これから、「あげは」を月の軌道に乗せて、先輩衛星である「かぐや」との距離を安定させる必要がある。


視界が歪み出して、意識が遠退く。

さすがに、無理が祟っただろうか。

少しだけ、仮眠を取ろう。




***




—1ヶ月後、米国某所。


「諸君、突然の招聘しょうへいに応じていただき、感謝する。先の連絡の通り、NEAs地球近傍小惑星のうち、二つが衝突したと、観測衛星の記録によって明らかになった」


豊かに髭を貯えた男性が、厳格な面持ちで錚々たる面々を見渡す。

米宇宙開発機構の長官である。


「ここで俎上に上げたい議題は、これにどのように対処をするべきかということだ。ここでは、あり得る限り最悪の事態を想定するべきであるだろう」


「迎撃システムの準備を進めるべきではないだろうか」


「しかし、急な兵器の稼働は、各方面を刺激してしまう。我が国はそれだけの影響力を持っている」


「戦争の心配などしている場合ではないだろう!星が降ってくる可能性があるのだ!万が一にも無防備なままで事が進んでしまえば、我々人類の戦争など、もはや問題ではなくなる!」


「生態系の保護が気がかりだ。恐竜が絶滅した時と同じ轍は踏みたくない。できる限りのことはするべきだ」


「こちらとしては、落ちて来た破片を回収することができれば文句はない。破壊するならするで一向に構わない」


各界の重鎮らの意見はまとまらない。

もちろん、それぞれが持つ違う視点を求めての招聘である。

そもそも、意見の一致など端から要していなかった。

長官は、やれやれ、とでも言うように首を振る。


「何かが落下するのならば、その規模にもよるが、放っておけばどこに落ちたとしても多大な影響が出ることは間違い無いだろう」


「長距離ミサイル迎撃用のミサイルを用意するべきだ。少しでも落下物の質量を削減できれば、被害を分散することができるだろう」


やはり兵器による迎撃の声が大きいようだ。

方向性は見えて来た。


「まずは、落下物の軌道予測が必要だ。結果は出ているのか?」


長官のそばに控えていた秘書が、手元に届いた書類を手渡す。

そこには、詳細な状況が記載されていた。


二つの小惑星が衝突した結果、片側が砕けた。

その破片に、地球方面から飛来したスペースデブリが衝突し、結果として、砕けた破片が、地球への軌道に乗ってしまったと言う。

大まかな質量は、月の二割程度と予想された。


物体の速度と距離から計算すると、地球への落下は、これから約三ヶ月後になるとのことだった。


「準備は十分に間に合うだろう。この情報は一部公開し、世界の宇宙開発組織に知らせる必要がある。今やるべきは戦争ではないと、各国に伝えるのだ」




***




11月下旬。


『近頃、世界中で停戦協定が結ばれています。いったい、何が起こっているのでしょうか。専門家にお話を伺って参ります——』


「あげは」を打ち上げてから、二ヶ月が経とうとしている。最近のニュースは、各国で起こっていた紛争や戦争の停戦の話一色だ。


こんなにたくさんの国や地域が戦火の中にあったのかと、初めて知った。

このまま世界中が平和になれば、どんなにいいことだろうと、強く思う。


僕らのプロジェクトも順調に進行していて、現在、「あげは」は地球の周回軌道から月の周回軌道へと移行しているところだ。

月までの距離は、おおよそ三分の一の地点まで来ている。

あと一ヶ月ほどで、プロジェクトは次のフェイズに入っていく。


しかし、気がかりなのは、先月告げられた、米宇宙開発機構からの不穏なメッセージだ。


NEAs地球近傍小惑星どうしの衝突と、破片の軌道予測の結果は、未だ憶測の域を出ないため、世間には公表されていないが、十分に危惧すべきものだった。


『——はい。資源の不足や環境問題は、それほどに深刻なものです。戦争を続けていられなくなったということですよね。これからも動向を見守る必要がありそうです』


画面の向こうで、専門家がペラペラと世界情勢の解説をしているが、資源不足とか環境問題よりも深刻な問題を知るものとして、その解説に違和感を覚えていた。


戦争云々の話ではないのだ、これから起ころうとしていることは。


今朝未明、日本の人工衛星の一つが、ようやくくだんの物体の姿を捉えたと連絡が来ていた。

これから、そのデータを分析して、物体の軌道予測と最悪の場合、地球との衝突の時刻、さらには、それが地球軌道に乗る原因となったというスペースデブリの正体まで突き止めたい。


誰もいないオフィスで、インスタントコーヒーを片手に、机に向かう。

パソコンの黒い起動画面に、英文が表示されていく。


僕は、その文を目で追っていく。

誰もいないオフィスで、「よし」と気合を入れて、届いたデータと計算ソフトを起動した。


施設内のスーパーコンピューターに数値を投げて、待つこと数時間。

結果として分かったことは、物体の軌道が、緩やかな曲線を描きつつも地球へと向かって来ていることと、地球に衝突する時刻の予想が、JST日本標準時の1月4日、5時50分32秒であることだった。


この事実は、当然、米宇宙開発機構も把握していた。

そしてそれは、先方の意向によって一般の人々には公開しないことになった。

あくまで予測であり、打つ手もあるうちに公開してしまえば、無駄に混乱を招くのみとの判断だと言う。


しかしそれよりも衝撃的だったのは、別で進めていたスペースデブリの正体。

タイミング、飛んできた方向、様々な要因を模索した結果、それは、「あげは」を打ち上げたH-IIAロケットが、分離したあとの残骸だった。


その日、宇宙開発に携わる人々にとって、終末までの一ヶ月のカウントダウンが始まってしまった。


そして僕個人にとっては、罪悪感に苛まれる生き地獄のような日々の始まりだった。


迫ってくる未来は分かっているのに、僕たちには為す術がない。

先手を打てれば良かったのに、僕たちの手は、まだ届かない。

誰も知らない僕の罪を断罪してくれるような法も手段も、何もない。


やるせない気分と、味のないご飯を、笑えないバラエティ番組の前で、酒と一緒に飲み込む。


対して、「あげは」プロジェクトは至って順調だった。

ついに、先輩衛星「かぐや」との邂逅かいこうを果たし、現在、月周回軌道を回りながらデータの収集に励んでいる。


僕の夢は、また一つ叶っていた。

なのに、今度は素直に喜べなかった。


残り一週間を切ったある日の年末スペシャル。都市伝説の特集番組では、近頃の停戦ラッシュに対する陰謀論が語られていた。

それと、異常に明るく輝く謎の天体の正体を探るコーナーもあった。

上司である、日本宇宙航空研究機関長官が、『遠くの老いた恒星が寿命を迎え、爆発した光が届いている』と、もっともらしい言葉で往なしていたけれど、本当は、僕たちはあれの正体を知っている。


全て吐き出してしまいたい。

いっそ匿名で電話をかけて、暴露してしまおうか。

胸の内に、後ろめたい秘密を抱えて生きているのは、もう辛かった。


12月30日、落下予想から五日前の夜。

SNSは、“#月の子ども”、“#双子月”という投稿で埋め尽くされていた。


兼ねてより静かに噂になっていた一際輝く星。

それが今、月と並んで輝いている。


まるで、月がひとつ増えたかのような、神秘的、幻想的な光景は、まるでこの世のものとは思えなかった。


人々は、大晦日前夜にしてすっかりお祭り気分になり、夜の街に繰り出して、空を見上げている。その光景は、世界中の夜に見られた。

テレビでも大々的に報道され、盛り上がりは最高潮に達していた。


翌日、大晦日の夜。


僕は、日本宇宙航空研究機関の5階にあるオフィスから、真円の月に迫る、一条の眩い光を眺めていた。


耐え難い恐怖と後悔の中、赤く、妖しく輝くその流れ星に願う。


眼下に広がる東京の街は、同じように空を見上げる人々で路面が見えない。


彼らは、新年を祝いに来ただけだろう。

じきに星が降ることを、まだ知らないのだ。


何もできない不甲斐なさが、僕の心を蝕んでいる。


この感覚は、あの時と同じだ。


どんどん弱っていく彼女を、僕はただ見ていただけだった。

か弱い体にそぐわず、力強く戦う彼女の姿は、手の届かないところまで離れていく。

そして、知らないうちに、見失った。


震える肩を掴んで抑え、鼻を啜る。


さて、泣いている暇などない。

軌道を見直してみよう。


数値の入力をしようとキーボードに手を置いた時、館内アナウンスが僕の名を呼び出した。


『至急、三階、オペレーター室までお越しください』


オペレーター室では、大晦日にも関わらず大勢のチームメイトたちが忙しなく動き回っていた。


「来たか、アキラさん」


同僚が事情を説明してくれた。


「あげは」との通信が途絶えたらしい。

地上からではその姿をどこにも確認できないため、月の裏側へ回ってしまったと推測できる。


「データ上がりました!」


しかし、「あげは」が記録していた最後の映像は、予想と大きく異なっていた。


ゆっくりと近づいてくるその物体の表面は、ゴツゴツとした岩状で、太陽の光を反射して、妖しい赤色に輝いている。


その大きさは、想定していたよりもかなり大きく感じる。


徐々に、物体の速度が上がっている。これは、「あげは」自身が物体に引っ張られて加速していたのだ。


カメラが物体に衝突する瞬間、映像は途絶えた。

室内が、静まり返った。


チームの五年間の努力が、僕の二十年間の努力が、全て、水泡に帰した。


何より、また、何もできなかった。

知らないうちに、大切なものが奪われた。


ひとりにしてほしい、とだけ告げて、僕は部屋を後にした。


誰もいない薄暗い廊下を、僕は一人で歩いていた。

なぜか、僕が肺炎と診断された時の母の横顔を思い出した。

「ごめんね」「なぜうちの子が」と、うなされたように呟いていたことを、はっきりと思い出した。


きっと、あの時の母は、こんな気持ちだったのだろう。


五階のオフィスに戻って来て、窓の外を見下ろす。

あと四時間もすれば、年が明ける。

何も知らない人々のお祭り騒ぎは、厚いガラス越しにもひどくうるさく感じた。


ふと振り返って、数値計算の画面で付けっぱなしになっていたパソコンの画面を見た。

デスクの上に飾ってある写真には、幼き日の僕と、白い毛布の塊が写っている。


彼女は、最後まで泣き顔を見せなかった。

別れの日、布団の中に隠された素顔は見えなかったけれど、きっと、まだ諦めていなかった。


そうだった、だから僕は、そんな彼女だったから、彼女のために、羽を作ってあげたいと、心から願ったんだ。


ドアを蹴破るほどの勢いで、部屋を飛び出して、三階のオペレーター室へと転がり込む。

驚いたような表情で固まった同僚に、例の物体の最新の観測データを要求した。


間もなく、一枚の紙が部屋の奥のコピー機から出て来て、チームメイトたちの手から手へと、リレーのように渡って僕の元まで来た。


その紙には、隙間なく数値が書き込まれている。


僕はそれを手に、再び五階のオフィスに戻って来た。


運動が決して得意ではない僕が全力で何度も往復したせいで、息はとっくに切れている。


肩を大きく揺らして、額の汗を拭って、パソコンの前に座った。

慎重に、数値を入力していく。


三度確認して、スーパーコンピューターに数値を投げる。


僕が作った、彼女のための羽は、早すぎる終わりを迎えてしまったけど。

でも、僕があの羽に込めた思いは、すぐに諦められるほど弱いものじゃない。


手元を離れて夢の世界に飛び立った「あげは」に、僕が今からできることなんて、信じることしかない。


今考えれば、映像が途切れた時、「あげは」の衝突速度はかなりのものだった。

加えて、入射角も完璧だったように思える。


数値が出た。


外では、新年のカウントダウンが始まっている。


「…3!…2!…1!——」


数値を見て、確信した。

急いで窓へ駆け寄って、空を見上げた。

数時間前まで見えていた赤い流星はどこにもなく、代わりに、月の背後が妖しい赤色に輝いていた。


月自体は白いから、赤に白の丸が浮き出ているように見えた。


「ハッピーニューイヤー!!」


こうして、新年がやって来た。




***




JST日本時間の1月1日、0時。


世間を騒がせた“月の子ども”、もしくは“双子月”は消滅した。


それからと言うもの、月を囲むように赤い靄がかかる現象が続いていて、“紅月ルージュリング”なんて呼ばれていた時期があった。


5年が経過した今では、薄赤色に滲む月が、当たり前となっている。


現在、「あげは2」が月の裏面を探査する宇宙飛行士たちと地上のオペレーター間との通信をサポートしている。


月の裏側につき刺さって砕けた小惑星の破片の調査と、月面での生活のシミュレーションを兼ねた、大規模なプロジェクトである。


プロジェクトの日本支部長に抜擢された僕は、日々、生まれ変わった「あげは」とともに、現地で命を張っている宇宙飛行士たちを見守っている。


お盆休みの今日、僕は、お墓参りに来ていた。


「ねえ、ナギサ。地球最後の日が来たとしたら、何がしたい?って質問、覚えてるかな」


あの日、何も言えなかった僕を見兼ねて、君が言った言葉を、僕は今でも鮮明に覚えている。


——私は、きっとその時まで生きていないけどさ、私は、命が尽きるその時まで、全力で夢を追いかけて、羽ばたいてみせるよ!——


「全部、君の言った通りだった。君は、最後まで夢を追いかけて、それから、羽ばたいていったね」


きっと誰よりも苦しくて、辛かっただろうに、僕のことを気遣って、一度も涙を見せなかった。


「“あげは”って名付けたのは、君をイメージしていたからなんだ」


知ってたよ!と、ナギサの元気な声が聞こえた気がした。


「今なら、僕もあの時の答えが言えそうだ」


真剣に考えて、思いついたけれど、口には出せなかった。

口にしてしまえば、壊れてしまいそうだったから。


「ナギサ、君のことが好きだって、叫びたい。君のおかげで、今の僕があるんだ。だから—」


頬を伝っていく涙を感じて、歯を食いしばった。

もうアラフォーになると言うのに、情けない。

彼女は、最後まで負けなかったじゃないか。


ぐい、と目元を拭って、深呼吸をする。

もういちど大きく息を吸い込んで、それから—


「—ありがとう!!」


彼女の墓石に供えた花に、一匹の蝶が止まって、それからひらひらと舞い上がっていった。


じきにまた、九月が来る。




The flutter of a butterfly's wing can ultimately cause a typhoon halfway around the world.


—Chaos Theory by Edward Norton Lorenz

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