271.ご老人が言うことには、この海にはおそろしい怪物が――『竜』がいるのだそうです。マジですか?【後編】


 ――今から数えて五十年前。

 その頃は第一層と第五層を繋ぐゲートも開かれておらず、ホルブルック村は四方の海で捕れる海の幸とリナルド山が抱く森から捕れる幾許かの山の幸、そして村の近隣を開いて作った僅かな畑からの作物で日々の口に糊する、ちいさな村だった。


 《箱舟》の階段を使ってわざわざ徒歩かちでやってくる物好きな行商人を除けば、外との交流など絶えて久しい、孤立した島の鄙びた村だった。


 そんな村で、あるとき急に魚が獲れなくなった。


 村の老人たちはすぐさま伝承の怪物を思い起こし、おそおののいた。迷信深い村の大人達も声を高らかに喚き散らす頑迷な老人達の警句にうそ寒さを覚え、漁に出るのを恐れるようになった。


 足音を忍ばせるようにおそるおそる漁場へ出ても、魚が網にかかることなどなく。

 不漁は何日も何十日も続き――遂には明日に食べるものさえ尽きようとしていた頃。血の気の多い一人の漁師見習いが、一そうの小舟をかっぱらって海へと乗り出した。


 行先は、『無の海』。


 島の周りの漁場で魚が獲れないなら、もっと遠くの別の海へ行くしかない。ただそれだけの思い付き、あるいは思い込みでもって村の老人や大人たちの警句を打ち捨て、禁じられた海に出た。


 舟を盗んで海に出たことも、行くことを禁じられた海へ漁に出たことも。その後ろめたさの一切を、若い漁師見習いだった彼は鼻で笑い飛ばした。日々獲っても尽きることのない魚の一切がいつもの漁場にいないのなら、それ以外の場所にいるのは当然だと信じ、伝承とやらに怯えて分かり切ったことをぐずぐずとやろうとしない大人達を小馬鹿にしきっていた。


 盗みも掟破りも、たっぷりの魚を獲って戻れば全部帳消しにしておつりがくる。

 数か月ぶりの魚を獲って帰れば自分は間違いなく村の英雄で、迷信好きの老人も臆病な大人どもも、自分の――カイの勇気を認めざるを得なくなる。

 大人の言いつけを破ったことそのものが齎す高揚に胸を熱くしながら、若いカイ少年は霧の海で網を垂らし、


 そして、


「霧の中に現れた竜の影を、儂は確かに見た。海に垂れこめる霧すべてを震わせるような雄叫びと共に、やつが起こした大波に呑まれて舟から放り出され、そして意識を失った」


 ふと、語ることばを切って。

 老爺は僅かの間、堀の深い目を伏せた。


「……次に気が付いたとき、儂は島の浜辺に打ち上げられていた。馬鹿の報いで盗んだ舟を失い、身一つで逃げ帰った大馬鹿者という訳だ。舟を盗んだ咎と掟破りとで、その後は言うまでもなくこっぴどい目に遭った。が、まあ――」


 自業自得だ、と口にする代わりに、老人は口の端を緩めて笑みを広げた。

 老人が感慨とともに回顧するための幾許かの間を置いて、シドはあらためて訊ねる。


「……その時は、それからどうなったのですか?」


「村へ立ち寄った冒険者が、あのゲートを開いてな。儂ら村の者の代わりに、『外』の連中と話をつけてきてくれたよ」


 いかなる形で、交渉をまとめた結果であったのか。

 『外』――オルランドからの支援が届いたことで村の食料不足は解消され。それから程なく漁場へ魚が戻ってきたことで、一連の騒動はゆるやかに終息した。


 ホルブルック村はこの一件を以て事実上オルランド執政府の保護下となり、門を通した『外』との交易が始まった。

 それまで他の州から買うしかなかった海の魚介を安価に交易可能な漁場として。そしてのちには漁場以外の価値をも見出された島と村は、今に至るまでの五十年をかけて、ゆるやかにその在り方を変えていった。


「今の村は豊かだ。だが、それ故に村の者共は堪え性をなくしている――そうでなくとも五十年前の時と違って、海での不漁は、この村だけの問題ではなくなってしまった」


「《グレイ商会》ですか」


「何だそりゃ?」


 クロが零したその名前に、ロキオムが疑問符を浮かべる。


「オルランドにある商会のひとつです。たぶん、この島で獲れたお魚の卸しや、あとは島の観光業を扱っている……ちがいますか? カイおじいさん」


「正解だよ。よくその名前を知っていたね、お嬢ちゃん――もしかして、どこかの商会の子だったのかい?」


「いいえ、そうではありませんが。ただ、たまたまお名前は知っていたのです。それと――」


 クロはリタを見る。老人の隣に座る孫娘を。


「お名前、『リタ・グレイ』さんでしたよね。あとは、五十年前にオルランドからの支援があったというおはなし。このあたりを踏まえたら、なんとなくピンときてしまったのです」


 「あ」と短く、フィオレが呻くのを聞いた。

 クロの言わんとするところに、シドも遅れながらに理解が及ぶ。


 オルランドから取り付けられた支援。そして、その後の村の歴史。

 過去の支援に対し、何らかの『対価』が発生していたとしたら。それは、


「おそらくはきみの察しの通りだよ、賢いお嬢さん。オルランドの《グレイ商会》は五十年前にこの村の支援を一手に担った商会であり、その対価として、この村との交易を担う権利を独占した商会でもある」


 ――オルランドとの交易。

 いかな村がオルランドの保護下に入ったといっても、執政府そのものが村との交易を差配している訳ではあるまい。そういうことだ。


「じゃあ、リタさんはその商会のお嬢様ってこと!?」


 意外そうな面持ちでフィオレが訊ねると、当のリタは「いやあ」と困ったように眉を垂らしてはにかんだ。


「『お嬢様』って言ってもらえるのは嬉しいですけど、そんな大層なものじゃないんです。あたしは商売とか出納とか、そういうのてんで向いてなくって……一応、《スクール》の実科には通ってたんですけど、卒業の単位も危なかったくらいで。商会だって、上のお姉ちゃんがお婿さん取って継ぐことになってますし」


 傍から聞く分にはかなりきわどい話題のように思われたが、当のリタはさっぱりしていた。表情を明るくして、「なので」と祖父を見遣る。


「今は、おじーちゃんのおうちで花嫁修業中……ってところですね」


「何が花嫁修業だ。ただの居候じゃないか」


「あ、ひどーい。そんなこと言ってもおじーちゃんだって、ほんとはかわいい孫娘と暮らせて嬉しいくせに」


「そういう台詞を自分でのたまうふてぶてしい性格の孫でなければ、儂ももう少しはありがたみを感じていたかもしれんがな」


 笑みを含んだ口ぶりで、素っ気なく言い返す。ぷくっ、と子供っぽく頬を膨らませるリタを囲む形で、場に和やかな空気が広がる。

 と――


「つまるところ、爺さん。あんたはその商会の『お身内』って訳か――となれば、確かにあの船長サマやその部下どもとしちゃ、面白くはなかったろうな」


 ユーグがうそぶく。

 和やかな方向へと傾きかけていた場の空気が、その一言で一気に張り詰めた。


「察するに、あんたは嫁入りした娘の父親ってとこだろう?

 連中からすれば、商会の下で真面目に働いてるってとこに同じ商会の『お身内』から邪魔立ての横槍、しかも同じ商会の利益関係者や上役ならばまだしものところ、実態は商会と無関係の、『身内』ってだけの御隠居様だ――あちらからすれば、『外様とざまの隠居爺が一体何様のつもりだ』という気分にもなるだろうな」


「……ユーグ」


 あまりに容赦のない指弾だった。リタがかちんときた様子で眉を吊り上げ、さすがにシドも諫めに入る。だが、黒衣の冒険者は飄々と肩をすくめるばかりで堪えることろがない。

 フィオレが「処置なし」とばかりにかぶりを振る間に、老爺は苦り切った顔で唇を曲げる。


「……漁師どものまとめ役だっただけの儂だ。商会の商いに横槍を入れるのが、筋の通らん真似なのは重々承知している。だが――あんたが言う通り、娘の嫁ぎ先のことだ。むざむざ見過ごすわけにもゆかん」


「危険を見過ごせなかったのは理解できますが――」


「そんな小綺麗な問題じゃあないさ。儂はどうあっても、出航を止めたかった。娘の嫁ぎ先のためにだ。それ以上でもそれ以下でもない」


「どういうことです……?」


 呻くシドへ、老爺はゆっくりと首を横に振る。


「仮に、『無の海』へ船を出した村の馬鹿者が、竜に襲われ死んだとしても、だ。煎じ詰めればそいつは、儂らの村の『身内事』にすぎん。それがどれほどの悲劇であったとしても、事は内々で済ませられる」


 今やこの村にとっての漁業は、村人の腹を満たす食事であると同時に、外からの財と引き換えるための対価だ。自然が相手であるがゆえに完全な安定供給を望めるしろものではないというのを差し引いても、供給の途絶は商会からの信用――それこどろか、そのさらに上層というべき『商会の信用』にまで響きかねない。


 だが、そればかりではない。

 『海に出られない』ということとなれば、影響は漁業のみに留まらない。

 それに思い至り、シドは呻く。


「観光船だから、ですか」


「そうだ。あの船はいにしえのホルブルック卿の伝承に倣い、『無の海』を通過する」


 ――《プリンセス=ディアーネ》号。

 船長服姿の男が朗々と並べ立てていた口上――その一節がふと脳裏をよぎり、シドは冷たい予感に喉を締め付けられるのを感じた。そして、


「ジョセフの船は、『外』の評判もいいらしくてな。毎回、出向の旅に結構な数の客が乗るそうだ――海の泳ぎもろくに知らん、『外』の客たちが、だ」


 老人は言う。


「その船が、もし万に一つでも、その途上を怪物ドラゴンに襲われたら――どうなると思うね、一体」

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