270.ご老人が言うことには、この海にはおそろしい怪物が――『竜』がいるのだそうです。マジですか?【前編】


 老人の家は港から少し離れて、海を見渡すゆるやかな丘の上にあった。

 潮風に削られた石積みの階段を上った先に建つ、白塗りの箱めいた家並みが目立つこの村では珍しい、赤い屋根瓦が特徴的な家だった。


「カイ・ロブソンだ。ご覧の通りの隠居爺だが、こうして退く以前は、港の船乗りどものまとめ役みたいなことをやっていた」


 応接室のテーブルセットにシド達を座らせて。

 奥まった主人ホストの席へ腰を落ち着けると、老爺はまずそう自らの名を名乗った。

 いくぶん背中の曲がった、枯れかけの古木を思わせる風情の老爺だったが――目に宿る光は強く、その所作も端然として緩みのないものだった。


 背の低い応接テーブルには、暖かな香気を立てる紅茶を満たした人数分のカップ。それから、甘やかな砂糖の香りを漂わせる菓子が供されていた。この家のハウスメイドなのだろう中年の婦人が応接の支度を整えて退室した後、老爺はそうして話を切り出した。


「こちらの娘は、孫のリタ。この家で儂と暮らしている」


「リタ・グレイです。先ほどはおじいちゃんがお世話になりました」


 老人の隣に座った少女が、紹介を受けて深々と頭を下げる。麻の袖なしワンピースに編み上げサンダルという開放的ないでたちをしていて、同時にそうした着こなしのよく似合う、溌溂とした風情の少女だった。


「シド・バレンスといいます。ご覧の通り、冒険者です。それから」


「《シド・バレンス隊》のフィオレ・セイフォングラムと申します」


 続けて仲間を紹介しようとするシドに代わり、フィオレが話を引き取った。


「同じく、こちらの二人はロキオム・デンドランとユーグ・フェット。そちらの子達は」


「あたしはティーナだぞ!」


「あ。れ、レミールです……レミール・ロシエ」


 ほら、と促すように肩をぶつけられたレミールが、おずおずと名乗る。続いて二人分の視線を向けられ、クロがひっそりとため息をついた。


「クロロバナージ・アレキサンドラ=ベリル=エメロードです。どうかクロとお呼びください」


 全員の事項紹介が終わったところで、カイ老人がシド達一行を見渡した。


「……冒険者というにも、随分と変わった取り合わせだな。失礼な物言いとは思うが」


「だとしても、無理もない仰りようとは思います」


 老人への追従ではなく本心から、シドは苦笑混じりで首肯した。

 実際、クロやレミール達のようなちいさな子供を――見た目が人間の子供とさほど変わらない小人ハーフリングであれば別として――連れているというのは、その性質としてアウトローに近い冒険者の中でも異端の類ではあるだろう。


「それより最前の、港での一件についてですが」


「ああ」


 話を切り出すシド。老爺は頷く。

 だが、続くことばが紡がれるには、幾分かの間が空いた。どこから話せば事の次第を正しく誤解なく伝えられるか、慎重にそれを見定める黙考の時間だった。


「……この村には、古くから言い伝えられたひとつの伝承があってな」


「伝承?」


 老爺は頷いた。


「曰く、この島からもっとも離れた海――儂らの間で『無の海』と名付けられた外なる海には、深い霧の中にだけ姿を現すが棲む」


 ホルブルック島を囲む南洋の海は、日々、魚の獲れない日のない豊かな恵みの海だが――ある時、その海から魚が消え、ぱったりと水揚げが途絶える時が来る。


 もし、そうして魚が獲れなくなった時。

 村の者が『無の海』まで漕ぎ出すようなことは、決してあってはいけない。


 何故ならこの島の海から魚が消えた時、『無の海』には深い霧が立ち込めている。


 そして、その霧の中には、怪物が――霧の中にだけその姿を現す世にも恐ろしい怪物が棲んでいる。


 曰く――海から魚が消えるのは、かの怪物がその一切を暴食極まる腹の裡へおさめてしまうからなのだと。

 そして怪物は、愚かにも自らの縄張りへ現れた不埒なる者どもをも餌として、その鋭い牙を剥いて貪り喰らい、腹の中へおさめてしまうのだ――と。


「……そしてまさしく伝承に語り継がれる通り、この海でまた魚が獲れなくなった。十日と少し前からのことだ」


「十日……」


 ――《キュマイラ・Ⅳ》との交戦から、何日も経たない頃だ。

 咄嗟にシドが疑ったのは、あの《キュマイラ・Ⅳ》との交戦――あるいはかの幻獣の覚醒によって、第五層に対して何らかの影響が起きたという事態だったが。


「? 何か気になることでもあったかね」


「ああ、いえ。何でも……たまたまその少し前に、こちらから出荷されたものだろう海鮮の料理をいただいていたので。それから何日も経たないうちから、そんなことになっていたのか、と」


「そうか……旨かったかね?」


「はい。とても。これくらい大きな、海老の料理でした」


 だが――実際のところ、今の時点では確証と呼べるものは何もない。シドは自身の推測を一旦棚上げし、カイ老人の話を聞くことに注力する。

 老爺は再びずれかけた話の筋を戻した。


「儂は船を出すのを止め、『無の海』の様子を調べるべきだと訴えたが……まあ、現役の頃ならいざ知らず、口煩い隠居爺の言い分ではな。港の漁師どもは渋るばかりで到底納得なぞせんかったし、案の定そうした中から、わざわざ『無の海』まで漕ぎ出す馬鹿者が出た」


 漁師たちの中でもとりわけ血の気が多く金遣いの荒い船長と、その部下達が乗った船だったという。


 収穫を求めていつもの漁場から『無の海』へと漕ぎ出した彼らの船は、まるで雲のように深い霧に包まれた。

 なおも引き返すことなく量を続けていた彼らの船は突如として襲い来た衝撃に砕き折られた。

 そして――


「自慢の船をぶち壊されて命からがら身一つで泳ぎ戻った馬鹿者どもは、今にも死にそうな真っ青の顔色で必死に喚いておったよ――深い霧の向こうに浮かぶ、、とな。」


「「「「ドラゴン!?」」」」


 驚愕の声が重なった。


「ドラゴン……って、そんなのがいるんですか? ここの海に……!?」


「すげー! あたしドラゴンってはじめて見るぞ!!」


 真っ青になったレミールが呻くその横で、ティーナがきらきらと目を輝かせる。

 分かりやすく反応したのは年少の少年少女二人だったが、しかしそれ以外のシド達もまた、彼女らと同じ驚きを共有し、息を呑んでいた。



 ――竜種ドラゴン



 冒険者ならずともその名を知らぬ者はまずいないであろう伝説の魔獣。その最高峰というべき神話の存在である。


 一般に想起されるそれは、角を生やし蝙蝠のような皮膜の翼を備えた巨大な蜥蜴を思わせる姿の魔獣であろう。数多の英雄譚にその姿を現し、ある者は英雄にその力と叡智を貸し与える善なる竜として、またある者は勇者の剣に、あるいは賢者の魔法によって討ち滅ぼされる悪竜としてその存在を記されている。


「そうだ。ドラゴンだ。まさしく伝承に言い伝えられた通り、連中は霧の中で怪物に――竜に襲われたという訳だ」


 船を壊され、霧深い海へと放り出された漁師の男達は、その深い霧の向こうに浮かぶ竜の影と、はるか高みで爛々と輝く一対の紅い瞳を見た。

 いっぺんに恐慌をきたして逃げ出した男達は、咆哮する竜が起こした大波に呑まれて溺れそうにながらも、死に物狂いで懸命に泳ぎつづけた。


 そうして――気がつけば彼ら四人の漁師は、霧に包まれた『無の海』から抜け出ていた。そして、呆然と波に揺られていたところをお、運よく近くの漁場で漁をしていた別の船に拾われ、かろうじて命を繋いだのだった。


「で――つまるところはその『馬鹿者ども』とやらの話を、あんたはまるごと信じたって訳かい。爺さんよ」


「おい、ユーグ……」


 再び口を挟むユーグ。隣のロキオムがさすがにぎょっとした様子で諫めに入るが、ユーグは構わず続けた。


「仕事中の船で酒盛り始めた酔っぱらいどもが、あるいはその挙句に浅瀬に船底ぶち当てて船を台無しにした能無しが、その辻褄合わせに伝承の竜とやらに出くわしたと嘘話をぶち上げている――そんな風には、微塵も思わなかったということかい?」


「ああ、もちろんだ。これっぽっちも思わなかったとも」


「それは何故?」


「敢えて言う必要があるのかね、わざわざ」


 老爺は忌々しげに、苦々しく洟を鳴らした。



「――あの伝承は、『本物』だからな」



「……………………」


「何故か? というなら、至極簡単な理由だ。今とまったく同じことが五十年前にもあったからだ。そして五十年前の時にも、やはり『無の海』にたちこめる霧の中で、竜の影を見た者がいたからだ」


 怖気を振るうようにぞっとしながら。

 磨り潰すようにして、老爺は言った。


「誰あろう、この儂が、だ。見習い漁師の若造だった時分のこの儂が、今の馬鹿者どもとまったく同じ馬鹿を――五十年前にしでかしたからだ」

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