269.こういうのが悪癖なんだというのは、後で振り返るとつくづく思うのですが……おひとよしおっさん冒険者はこういう状況を放っておけなくなってしまう性分みたいです。ほんとうに困ったことですが。


「……カイ爺様」


 すぅっ、と鋭く目を細めて。

 それまで紳士然としていた男の声が幾分低く、威圧する気配を帯びた。


「今の海に船を出してはならんと言ったはずだぞ! ましてや観光船など、もってのほかだ――この馬鹿げた客引きをやめろ、今すぐにだ!!」


「……あのう。これは一体どういうお話ですか?」


「ああ、いえいえ――大したことではございませんよ、ご婦人マダム


 不安げに眉を垂らした女性の問いに、船長服の男はニコニコと手を振って否定する。


「つい先日、ちょっとした事故があったばかりでしてね。こちらのカイ爺様は我がホルブルックの港の元勲というべき、船乗り達の長老であらせられた御方なので……我々の身を案じていらっしゃるのですよ。ええ――ですがそれはちょっとした事故、ちっぽけな漁船の事故です!」


「ジョセフ、貴様……!」


「我らがホルブルック卿の加護あるこの《プリンセス=ディアーネ》号であれば、ご心配は無用にございます――海に潜む数多の危険、幻獣達の獰猛なる息遣いも、一時ひとときの冒険を彩る余興が如きもの! かの船を預る我ら屈強の船乗り達にすべてお任せいただければ、何の心配もございません! どうかご安心を――麗しきご婦人マダム


 船乗りらしく陽に焼けた、しかし端正に髭を整えた荒々しい美貌の紳士にそっと手を取られ――婦人は「まあ」と頬を赤くして、蕩けた笑みを浮かべながらそそくさと引き下がった。

 その女性や、他の観光客たちからは見えない角度で、紳士は周りに控えた水兵服の男達へ、ぎらつく鉈のような眼光で指示を飛ばす。


 その意を受け、周りに控えていた逞しい水兵服の船乗りのうち二人が、のしのしと大股の足取りで老爺へ向かっていく。


「さ、カイ爺。話の続きは他所でしようじゃないか」


「悪いがこっちも商売なんでね。いくらあんたでも、邪魔してもらっちゃ困るんだよ」


「貴様達っ……それでも船乗りか! 金のために、事情も知らん外の者達を危険に晒すのか!? それが誇り高き船乗りが、ホルブルックの船乗りのやることか!?」


「……喚くんじゃねえよ爺さん。いいからこっち来い」


 男達は老人の肩を掴み、強引に引きずっていこうとする。なおも抵抗する老爺に舌打ちしながら、掴んだ指に力を籠めようとして、


「あのう」


 ――その腕を、死角から掴まれた。

 ぎょっとしながら同時に振り返った水兵の男達の視線の先にいたのは、へらりと力のない笑みを広げる、痩せた中年の男。


 シドだった。



「……何だいあんた。悪いが、引っ込んでてもらえねえかな」


 低く唸り威嚇する、船乗りの男。相棒に続き、もう一人の男も凄むように振り返った。


「その身なり……あんた冒険者だろ。事情も知らん『外』の余所者に、いっちょまえに嘴を突っ込んでほしかないんだがねぇ」


「お気持ちはよく分かります。ただ――」


 ううん。と唸り、シドは言葉を選んだ。どことなく困ったように眉を垂らした、温和な中年の笑みを広げながら。


「こんなご老体に乱暴を働くような真似は、ちょっとどうかと思うんです。もうちょっと、穏便ににいきませんか。どうか。ね?」


「すっこんでろって言ってんだよ、おっさん」


「正義漢ぶって調子くれてんじゃ」


 口々に悪罵を毒づきながら。シドの手を振り払おうとして、男達はぎょっと凍り付いた。

 さして力が籠っているようにも見えない男の手が、それどころかその手に掴まれた自分達の腕も――微動だにしなかったせいだ。


「ですが、お爺さんも……ああいうやり方はよくないと思いますよ。事情はおありなんでしょうし、何かしらたまりかねてのことだろうとはお察ししますが……あんな風に騒ぎを起こして、無理矢理にでも自分の意見を通そうとするようなやりくちは」


「……あんた」


 一見して気弱そうにも見える笑みを広げるシドを、老爺は呆けたように見つめる。

 一方、水兵服の男達は、額に冷たい汗を浮かべて狼狽していた。


「て、てめぇ……」


「この、離しやがれっ……何なんだ、クソ!」


「おい、お前達」


 そこへ、深みのあるバリトンがかかった。

 後背からかかったその声にシドが振り返ると、そこにいたのは船長服姿の紳士だった。


「じ、ジョセフさん……」


「やめとけ。そこまでだ――カイ爺を放してやれ」


「けどよ、ジョセフさん」


「いいから。言うとおりにしろ。客も見てる」


 低めた小声で、男は言う。ぐっと唇を噛んで言葉を失う男達から視線を変えて、紳士はシドを見た。


「あんたも、そういうことならいいだろう。部下を放してやってくれ」


「……わかりました。そういうことなら」


 男達が老人から手を離すのを待って、シドも二人を止める手を離した。

 フン、と鼻を鳴らして検分するように眦を細めていた船長服姿の男は――ややあって踵を返すと、そこに残っていた観光客へ向けて、陽気な素振りで両腕を広げてみせた。


「お待たせいたしました、皆々様! 船の旅とは未踏の荒野を征くが如きもの。船底の板一枚越えたその先には、深き海がその乱杭歯を並べたあぎとを剥き続ける危険の在り処でございます――しかぁし! 我らホルブルックの船乗りが、そしてかのホルブルック卿の船の加護が、皆様の旅をお守りいたしますが故に! さぁ、勇敢なる紳士の皆様、冒険心篤き淑女の皆様、そして未来多き少年少女達よ! いざや我々と共に、ホルブルック卿が如き冒険へと旅立ちましょう――!」


 舞台劇の主役のように、力強く請け負う男。

 一時、完全に凍りついた港の空気が、その一幕を経て再び、もとの熱と賑わいを取り戻し始めたようだった。



「……痛むところはありませんか、お爺さん」


 老爺を伴ってその場を離れ。

 港の片隅に設えられたベンチに老爺を座らせたシドは、片膝をついてその顔色を検分しながら、穏やかに訊ねた。


「すみません。余計なことかもとは思ったんですが……見ていられなくて、つい」


「いや、構わんよ。いずれにせよ、儂はあんたのおかげで助けられたのだからな」


 力なく肩を落とした老爺が、ゆるゆるとかぶりを振った。ややあってその顔を上げ、周りを見渡す。

 シドの後ろでは、めいめい追いついてきたフィオレやユーグ達が、ベンチを囲むようにして事の成り行きを伺っていた。


「あんた達は冒険者か。随分なお節介焼きのようだが……老人一人のせいで、要らぬ手間をかけてしまったな」


「なに、気にするこたないさ。この手のお節介は、そこなるシド・バレンスの性分というやつらしくてね」


 いくぶん揶揄の響きが混じった、冗談の口ぶりと共に。ユーグが肩をそびやかす。


「そして此処なる俺達も、そこを承知で連れ立つ面々だ。だからまあ、気遣い無用というやつさ、無鉄砲な爺さんよ」


 飄々と言ってのけるユーグ。彼の後ろではロキオムが渋い顔をしていたが、その反応は無理からぬところであろう。シドは内心で詫びる。


「つーかひっどいよなー、あいつら。じーちゃんばーちゃんはケガしやすいから乱暴しちゃメっなんだって、おとうさんもおかあさんもよくゆってるぞ」


「……どうやら、きみのご両親は優しい方々のようだな。お嬢ちゃん」


「? おう、もちろん。おとうさんもおかあさんも優しいぞ。怒るとめちゃくちゃこわいけど。むかし門限破りしたときとか、怒られすぎて死ぬんじゃないかと思ったくらい」


 きょとんとしながらも明るくそう返すティーナに、老人は「そうか」皺だらけの顔をほころばせた。


「一体、何があったんですか?」


 シドが訊ねる。

 口をつぐむ老人の様子を見て、さらに言葉を継ぎ足す。


「……余所者に話せないということなら、もちろん無理にとは言いません。ですが、俺達はご覧の通りの冒険者です」


 クロがヤレヤレとばかりにかぶりを振る。

 そんなクロを「まあまあ」と宥めながら、フィオレは好ましげに眦を細める。


「こうして首を突っ込んだ手前もあります。……もし事情をお話しいただけるのなら、何かお力になれることもあるかもしれません」


 片膝をついて見上げながら。

 そう申し出るシドに、老人は静かなため息をついた。


「あんたは――」


「おじいちゃん!」


 ――その時だ。

 ぱたぱたと飛ぶような足取りで駆けてくる、娘がいた。

 袖なしのワンピースに編み上げのサンダル。いかにも海辺の少女といったいでたちの、おそらくは十代半ばほどの少女だった。

 老人が顔を上げる。


「急にいなくなったと思ったら、港で騒ぎがあったって聞いたから……やっぱりおじいちゃんだった! 心配させないでよ、もぉっ……!」


 ――と。

 走ってきたせいで弾む呼吸の合間にそこまで言い切ったところで、少女は老人と一緒にいる、シド達の存在に気づいたようだった。


「あ……ええと、おじいちゃんがお世話になったみたいで。どうもありがとうござ」


「帰るぞ、リタ」


「おじいちゃん! ちょっと!?」


 老人はのそりと腰を上げ、その場に背を向ける。

 憤慨する少女の声に構わず歩き出した老爺だったが、ややあって足を止め、シド達へ振り返った。


「――事情を知りたいのなら、ついてくるといい。手間を取らせる駄賃代わりに、茶と菓子くらいは出そうじゃないか」


 そう言って、歩き出す。

 シドは表情を緩め、老人の後に続いた。

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