251.かくて戦士は夜明け前の故郷を発ち、再び復讐の旅へとその身をやつす。



 一夜が明けて。


 黎明の頃に少女がそのちいさな庵を訪った時、庵の主たる黒檀の鱗の水竜人ハイドラフォークの姿はどこにもなかった。


 いなくなった主の代わりに、長く放置の埃をかぶっていた庵のそこかしこを丁寧に清め整えたが故の清爽な空気が、庵の暗がりを、夜明け時の静謐に満たしていた。


 そして――里外れの庵はそれ故に、住人たる竜人ひとの気配を、その名残の一切を、完全に失っていた。


「……………………」


 きっとこんな風になるのだろうという、そんな予感はしていた。

 だから、少女に落胆はなかった。ただ、寂しかった。


 結局自分は、ここへ置き去りにしてゆかれるだけのものなのだと――黒檀の鱗の水竜人ハイドラフォークにとって、自分という存在はその程度のものでしかないのだと。はっきり突きつけられてしまったから。

 それが所詮、独りよがりの我儘にすぎない情動なのだと分かっていても。

 それでも姉のように慕っていたあのひとが生きていたなら、彼は同じ復讐の旅であったとしても、きっとその手を引いて連れていったのだろうと――彼女もその手を取って、二人でこの里から旅立っていったに違いないのだと。その光景は、そんな二人の背中を見送るだけの光景は、少女にとってあまりに容易く想像できてしまうものだったから。


「――兄様」


 恋を喪った痛みに引き攣れる、未だ幼い胸のうちから。

 茨の棘のようにその傷痕を引っ掻く呼びかけを、ただ、静かに吐き出す。



 夜明け時の《月夜の森》を、ラズカイエンは一人、歩いていた。

 身体に染みつき、今や無意識でたどれるほどに幾度も辿ってきた、もはやこの先は二度と辿ることのないかもしれない道を、迷いのない歩みで進んでいく。


 やがて日が昇り、梢の隙間、あるいは木立の合間から光が差し、暗く青褪めていた森は草木と土の色へと塗り替えられはじめた。

 そうして差し込む日差しが明るさと高さを増し始めた頃、頭上を覆っていた梢が消え、開けた場所に出た。


 森の外――では、ない。

 どこぞの部族が建てたのだろう石組みの見張塔を中心に、四方の道が集まる広場だ。里から森の外へ――ニミエール川のほとりへ出る道の、中継点である。


 木立が落とす影から陽の下へ出るのと同時に、横合いから飛んできたものがあった。

 視界の端に映ったそれを、片手で受け止める。


 経木きょうぎ――薄く切った気を乾かして作る、紙のように薄い梱包材だ――でくるんで麻紐で結わえた、包みだった。


「……キサマ」


「遅かったではないか、ぬしよ」


 イルダーナフだった。

 少し離れた木の根元で片膝を立てて座っていたその女は、傍らに置いていた背嚢の背負い紐を手に取りながらの流れるような一挙動で立ち上がると、そのままラズカイエンのもとまで歩いてきた。


「里の者に支度してもらった弁当だ。どうせ朝餉あさげもとっておらんのだろ?」


 言いながら、自分の手元にあった包みを結わえる麻紐を、器用に片手で解いてみせる。


 中身は、握り飯だった。

 森の野草と茸、雑穀と野鳥の肉を混ぜた加薬かやく飯だ。


 米も野草も、まだ瑞々しい。明らかに今朝に作ったばかりの様子を見て取り、ラズカイエンはじろりと剣呑な目で、呑気そのもののつらをした人間の女を睨みやった。


「一体どうやって、オレに追いついた」


「そこはほれ、儂は《何でもできる者イルダーナフ》ゆえにな。森の近道と先回りにも、斯様に心得があるということよ」


 大方そんなところだろうと予期はしていたが。

 案の定、女はまともに答えるつもりがないようだった。


 舌打ちして歩みを進めるラズカイエンの背中に、「待て待て」と笑みを含んだ声がかかる。


「察するに、またこれからオルランドへ向かうのであろう? 儂も、儂と同じつるぎを操る戦士とやらには興味があるゆえ道行きは同じ、しばし旅の道連れと洒落こもうではないか」


「要らん。散れ」


 ラズカイエンは一蹴した。イルダーナフはいっかな堪えず、呑気に握り飯を食むだけだったが。


「……生憎と、オレはオレの目的のために旅に出るんでな。第一、オレはオルランドへ行くともシド・バレンスに会うとも言った覚えはないぞ」


「無論、察しておるよ。《来訪者ノッカー》めを滅する仇討ちの旅であろう?」


 だがなぁ、と。ひょうけた口ぶりで、


「この先どこへ行くにしても、ぬしにとって当座の手掛かりとなりうるものは、まずオルランドとシド・バレンスとやらなのではないか? ん?」


 ラズカイエンは悪態をつこうとして、しかし咄嗟に言葉を返せなかった。

 ぎろりと睨みつけるラズカイエンを見上げ、女戦士はにっこりと微笑む。


「あと、これは年長者からの助言アドバイスじゃがな。

 この先どこへ向かうにせよ、誰かしらの人間とおる方が何かにつけて便利じゃぞ? 何といっても、《大陸》に水竜人ハイドラフォークのない土地は数多あれど、人間のいない土地というのはなかなかない」


「ああ、そうだろうよ。人間サルどもはまるで虫のように、陸のどこにでもはびこる代物だからな」


 悪態をついて鼻で笑い、直後、不意に引っかかるものを覚える。


 ――年上?


 成人して間もない若衆の一人とは言え、既に四十年あまりを生きたラズカイエンよりも? 竜人のせいぜい半分ほどしか生きられない、人間が?

 人間の年齢は、竜人のラズカイエンからすれば分かりづらいが――それでも見るからに若々しい空気をまとった、このが?


「それとな、ひとつこの場で教えてしんぜよう。ぬしらが《来訪者ノッカー》と呼ぶかの《龍種リヴァイアサン》だが。

 ――あ奴の名は『ルヴィスエーザ』だ。探すつもりなら、覚えておくとよい」


「!」


 今度こそ。


 衝撃を受けて、ラズカイエンは隣を歩く女へ振り返った。

 足を止め、咄嗟に拳を固めすらしたラズカイエンに合わせて歩みを止めた女は、やれやれとばかりに眉を垂らした苦笑を広げ、緊迫するラズカイエンの顔を見上げていた。


「……ヤツを知っているのか」


「よくは知らんが、うたことはある。旧い話になるが」


 悔いるように舌打ちした女は、かぶりを振って、


「取り逃がした。龍種リヴァイアサンというやつにうたのは、儂もアレが最初で最後だが――『未来視』とやらはどうにも始末が悪くてかなわん」


 その口ぶりと、態度。

 黙考のうちに女の言葉が意味するところを読み解き、ラズカイエンはきつく握り込んでいた指をほどいた。


「キサマも、ヤツをかたきと追っているのか?」


「……そう問われると気が引けてならんが、儂は違う。儂が追うているのはルヴィスエーザ――ぬしらのいう《来訪者ノッカー》ではない。《真人》だ」


 ――真人。

 かつてこの大陸に絢爛なる魔法文明を築いたと伝えられる、七柱の種族。

 《龍種リヴァイアサン》は、そこに数えられる一柱ひとつである。


「ルヴィスエーザ『も』追ってはいる。が、さりとてぬしのように強い激情と目的のもとで、あ奴一人にそうしているかとなれば、そうではない――まあ、そんな程度のしろものでも、長く旅をしていれば、一度くらいは出くわす機会もあるということじゃが」


「……………………」

 

「それとな。ぬしの気持ちも察せられるものはあるが、クロウヴァディスをあまり責めてやるなよ。奴は、ぬしを惜しんだだけだ――《来訪者ノッカー》が『何』であるかを察しておれば、ようやくにして里の仲間と認められた若き同胞の身を案じ、死地へかせまいと阻みもする」


「クロウ……?」


「既にあ奴は、得難い後進を喪った後でもあろう。その結果をもたらしたのが己のめいとなれば、その決断を悔いずにはおれまいよ。老い先短い、部族の長としてな」


 どこかで聞いた名だと、引っかかってはいたが。『長』の一言で記憶が繋がり、ラズカイエンはぎょっと眼を剥く。


 ――『クロウヴァディス』は、の名だ。


 ラズカイエンを驚かせ、のみならず戦慄させたのは、その名を呼ぶ女の調子が、ラズカイエンを呼ぶのとほとんど変わらない気安さを帯びていたせいだ。

 長生きしても百五十年と言われる水竜人ハイドラフォークの中において、既に二百年近くの歳を重ねている、里の古老に対して。『若造』のラズカイエンを呼ぶのと同じに――この女は、


「……キサマ、本当に人間か」


「人間じゃよ。少なくとも、この世に生を享けたときはごくごくありふれた、ぬしが言うところの『サル』の一匹じゃったとも。まあ――」


 その一瞬。

 女の横顔をよぎった笑いは、酷く乾いたものとして映った。


「今はどうなのか、となれば……そこんとこは儂自身にも、ようわからんのだがな」


「…………………………」


 再び歩き出したラズカイエンは、森を行く歩調を緩めていた。

 こちらも歩みを再開しながらそれに気づいた女が、「おや」と声を上げる。


「何じゃ、ぬしよ。もしや、女の儂を気遣きづこうてくれるのか?」


「勘違いをするな。同道するというなら、オレ一人が先をいたところで意味がないというだけだ」


 愉快そうにニヤニヤする女を、ラズカイエンはぎろりと睨みやる。


「《来訪者ノッカー》を知っているんだろう? 『旅をするなら人間といる方が便利だ』ともほざいた――道行きを同じくする気があるなら、オレの復讐に手を貸せ」


「『ルヴィスエーザ探しに付き合え』ということなら、言われずともそのつもりよ。それすらなしに、殺気立ったぬしへ付きまといはせんさ」


 女は飄々と肩をそびやかす。


「ついでに、助太刀はどうかや? 儂の剣腕は、既にぬしも知っておろ?」


「……勝手にしろ。だが、奴はオレがこの手で殺す」


「結構。ならば、当座はそういうことでな」


 女は頭の後ろで両手を組み、体をほぐすようにぐぅっと弓なりへ背筋を伸ばす。

 まるで散歩にでも出るような呑気さに舌打ちしかけたのを飲み込んで、ラズカイエンは進む道の先を見据える。


(……仇は討つ。必ずだ)


 その、意志を胸に。

 いつかには仲間と共に辿った道を――今は、得体の知れない人間の女戦士と、進んでいく。

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