220.約束通り、セルマが《忘れじの我が家》亭を訪ってくれました。これからしばらくお世話になります――というところですが。


「――失礼いたします」


 《忘れじの我が家》亭に来客があったのは、その日の午前。


 朝食とその後片付けが一区切りつき、この日の往診に来た医師と共にイゼット姉妹が奥の部屋へと引っ込んで――酒場兼食堂に一人だけ取り残される格好でぽっかりと時間が空いてしまったシドが、自分もこの日の鍛錬に出ようかと思い立った、その矢先のタイミングであった。


 ここしばらくは所属先の宿探しや《忘れじの我が家》亭にまつわる一連のごたごたで滞りがちだったが、シドは体が資本の冒険者であり、戦士だ。パーティの最前線で盾となり、仲間をその背に護る前衛フロントだ。


 勘をにぶらせないよう。身体をなまらせないよう。力と技量を維持し、あるいいは高めてゆく鍛錬は、常に求められるものである。


 しばらくぶりにみっちり体を動かそうと気合を入れていた矢先の来客に、のっけからつんのめりかけたシドだったが――玄関の扉を引き開けて現れた相手の姿を認めた瞬間、「あっ」と目を瞠った。


「――セルマさん!」


「おはようございます、シド・バレンス様」


 セルマ――セルマ・オリゴクレース。《連盟》職員にしてサイラスの部下でもある彼女は、楚々とした所作で深く一礼した。


 内向きのシャギーが入ったショートの銀髪。

 大きな水晶色の瞳が際立つ、美しいアーモンド形のまなじり

 身にまとう所作は女性らしくたおやかだが、そのくせどこか氷のような硬質さが前に立つ。しかしその一方で、完成された美貌にどこか幼さを引きずったその面差しは、どこか少女のそれを想起させる透き通ったあどけなさをも宿している――ヤナギランを思わせて華奢な、彼女はそうした類の美女だった。


 そんな彼女の正体は、魔術機構によって稼動する、その発祥を《大陸》北辺の皇国に発する機械仕掛けの自動人形パペット――即ち、《機甲人形オートマタ》である。


 これまでシドが対面した時は、いつも青を基調とした《連盟》の制服姿だったセルマだが、今日は清楚なレースをあしらったブラウスとシンプルなロングスカートの上下という私服らしき装いに身を包んでいた。


「おはようございます。なんていうか……思ったより、早かったですね」


 シドにとっては旧い知己であるサイラスから、予め来ることは聞いていたシドだったが。

 しかし、よもや昨日の今日の早さでの来訪とは思いもしなかった。


「所属先となる冒険者宿を定められたと伺いました。おめでとうございます――《連盟》職員の一人としてこれからのさらなる成功と栄達を祈念するとともに、セルマ・オリゴクレース個人として、謹んでお祝いを申し上げます」


 重ねて、深々と頭を下げる。

 どうにも大仰な祝福に、シドははにかみながら頭を掻く。


「ありがとうございます。宿探しの間は、セルマさんにも随分お世話になって……」


当機わたしが提供できたサポートは、きわめて限られたものでした。此度の成果は、純然たるシド様の努力と行脚あんぎゃの賜物であると存じます」


「いやいや、そんなことないですって。不慣れなところ、いろいろ教えて貰えて……本当に助かりました」


「恐縮です」


 重ねて、頭を下げるセルマ。

 顔を上げ、背筋を伸ばした彼女は、あらためてシドと向かい合った。


「ところで――シド様がいらっしゃるということは、こちらが《忘れじの我が家》亭に相違ないものと存じます。シド様にはサイラス様より、既にお話がなされているかと存じますが――」


「ああ、それなら聞いてる。ちょっと待っててもらえるかな」


 そう、セルマのことばをいったん止めて。

 シドは大声で、宿の奥へ呼びかけた。


「サティア! サティアー! すまないんだけど、こっち来てもらえないかなぁ!」


 少し、間を置いて。

 「はぁい」、と張り上げた声が、宿の奥から返ってきた。



「《諸王立冒険者連盟機構》オルランド支部より業務教導支援のため派遣されました、セルマ・オリゴクレースと申します」


 あらためて。一階の酒場兼食堂で、テーブルのひとつを囲み。

 セルマは端然とした所作で、深く頭を下げた。


「《忘れじの我が家》亭の、サティア・イゼットと申します。オーナーのもと、宿の実務を預らせていただいています」


 およそ『完璧』としか言いようのない姿勢の良さとにこやかさで。

 酒場兼食堂の丸テーブルひとつを囲んでシドの隣に並んで座ったサティアは、対面のセルマへ笑顔を広げた。


「いえいえ、オーナーなんて名ばかりです。実質この宿は彼女のみたいな」


 机の下で脚を踏まれた。

 サティアに。踵で。


 ぐりっとねじるように踏み込む踵に、不意打ちの痛みで呻きそうになるのを堪えながら――シドは隣のサティアを伺う。

 完璧な笑顔のまま、彼女はセルマを見ていた。


 ただ、そのにこやかな横顔はきわめて雄弁に、シドへの睨みを利かせていた――『余計なこと言うな。黙ってオーナーらしくしてろ』、と。


「オーナーからは身に余る信頼をいただいておりますが、私自身、未熟の身です。これまでは交易商人として生計たつきを立ててきたもの、宿の経営に関しては到底経験篤いとは言い難く――セルマさんからは、多くを学ばせていたただきたく思っています」


「事情の概略は、サイラス様より伺っております。サティア様は未だ交易商人としての残務があり、当座の間は宿の業務に専心できる状況にないと」


「近く、手元の残務を解消するのと併せて、これまでご贔屓いただいたお客様と販路の引継ぎを考えております。これは私自身のみならず、これからオーナーの下で働かせていただく《忘れじの我が家》亭の信用と評判にも関わりかねないことですので、万事恙無つつがなく執り行えるよう、先日より準備を進めている最中さいちゅうです」


「たいへん頼もしく存じます。過去、元・冒険者様による冒険者宿の開業には、法制度のみならず商取引上の信義面においても、不慣れ故の差し障りをきたすことが多くあったようですが」


 物静かに、ひとつ頷いて。セルマは言う。


「サティア様が実務を取り仕切ってくださる限りにおいて、今後それらの基本的な領域における問題はないであろうと確信できます。ご期待に沿えるよう、当機わたしも力を尽くす所存です」


「まだまだ勉強中の身です。何卒なにとぞご指導ご鞭撻べんたつを、よろしくお願いいたします」


 ――ここまでくると、何かもういっそ怖いくらいだなぁ。


 日頃に向けてくれるくだけた態度や、妹相手の様子を見慣れてきていたぶん、『外向き』の笑顔と所作で自信をよろったサティアの様相はその感想に尽きた。


「宿の再開――開業を喧伝するにあたって、現状に不備がないかの確認にもおつきあいを願いたいところですが。その前にひとつ、セルマさんに質問させていただきたいことがありまして。お時間いただいてもよろしいでしょうか」


「どうぞ。御遠慮なく」


 その瞬間。

 サティアの瞳に宿る光がすぅっと鋭さを増す様を、シドは見た。



「《連盟》が私達、《忘れじの我が家》亭に――より正しく言うなら、オーナーであるシド・バレンス氏によくしてくださるのは、いかなる理由によるところでしょうか」



 シドはぎょっとする。


「サイラス・ユーデッケン副支部長の個人的な友誼に基づくもの、ということであればそれで納得もできます。ですが、今回こうして職員一名を派遣していただき、のみならず先日の《淫魔の盃》亭との一件のような事態が再発しないよう、私どもを護る措置を取ってくださるとも伺いました」


 口の端にだけは、変わらぬ笑みを浮かべながら。

 その瞳は鷹のような鋭さで、対面するセルマの意図を探っていた。


「いかにオルランド支部の副支部長とはいえ――個人的な友誼のみに基づくものとしては、いささか職権濫用の度がすぎるように思われます。それを《連盟》が良しとした、その理由は何なのでしょうか」


 他方――直接その問いを向けられたセルマは、涼やかな美貌を小動こゆるぎすらさせず、静かにサティアの問いを受け止めていた。


 ふと、その視線がシドへと向く。


 水晶色の瞳には、こちらの意を問う気配があった。

 ――「話して構わないのか?」、と。


 察するのと同時に、シドはコクリと頷いた。


「大丈夫です。サティアは信用していい子ですから」


「いや、『子』って――」


 小さく呻いて。シドの方を伺ったサティアの顔に、ほんのわずかの間だけ、不本意そのもののげっそりした表情がひらめく。


 が、それもほんの一瞬のこと。

 セルマがシドから彼女へ視線を戻した時には、サティアは再び輝くような笑顔をよろって、何事もなかったかのようにセルマと向かい合っていた。


承知しましたアイ・コピー。であれば、サティア様にもこの場において、現在までの事のあらましをお伝えさせていただきます」


 ――ただし、と。

 セルマは長い睫でけむらせるようにその目を細め、物静かな声を低める。


「これよりお話しする内容は、一切が他言無用のものです。《連盟》の秘密を共有し、口外することなく秘匿する、その自信はおありですか?」


「ええ、もちろん秘密は守ります。あたしは交易商人ですから」


 完全に、『外向き』の笑顔を解いて。

 サティアは『商人』の顔で、セルマと対峙する。


 セルマは一度目を伏せ、そしてあらためてサティアを見た。


「――承知しましたアイ・コピー。では、事の次第をお話しいたしましょう」


 そうして、セルマの口からこれまでの――より正確には、シドの《箱舟アーク》探索における一連の顛末を聞く間。


 サティアの横顔が徐々に引き攣り、疑念と疑問で余裕をなくしてゆく様を、ひっそりと横目に垣間見ながら。


 シド申し訳ないような気持ちで、二人のやりとりを見守り続けた。

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