216.幕間:とある夜、とある歓楽街にて。夜遊びに繰り出していた、とある冒険者の周りで起きていた話【後編】


 ひねってやった相手がみっともなく逃げてゆく背中を眺めやるのは、実に気分がよかった。

 一度はつんのめって転ぶほどに狼狽し、ロキオムがその場で脚を踏み鳴らしてやると「ひぃ」と悲鳴を上げて這いつくばるようにあたふたと逃げていたのはさらに気分がよかった。


 ただ――まあ、ひとしきりいい気分を味わったところで、ふと我が身を振り返り、


「あー……やれやれ。つまんねーことしちまった」


 煎じ詰めれば、結論はそこに落ち着く。

 踵を返し、とっとと表の通りへ戻ることにする。


「――あのっ」


「あん?」


 その背中に。

 後背の暗がりから、おずおずとした声がかかった。


 さっきの子供だった。

 フードの下にあったその顔と目が合った瞬間、ロキオムは唐突に、目の前がぐらりと揺れる感覚に襲われる。


(――っとと)


 ――ほんの一瞬の。

 しかし異様なほどに強烈な、頭の芯を揺さぶられるような感覚だった。


 よろめきかけて壁に手を突き、かぶりを振りながら、「くそっ」と唸るように悪態をつく。


(……何だ、今の)


 酔いが回ったのとは、違う。ぞっとするような不可解な感覚だった。

 酒精でふわふわしていた意識が一瞬で冷たく醒めて、急激な落差にこみ上げた吐き気で胸が悪くなる。

 何より――


「あの……」


 おずおずと。

 最前の小娘が呼びかけてきた。


「だ、っ……だいじょうぶ……ですか……?」


「あぁ?……ああ、なんでもねえよ」


 醜態を晒してしまったのが腹立たしい。殊更乱暴に言い捨て、ロキオムはフンと鼻を鳴らす。

 そうして自分を奮い立たせてから、あらためてフードの下の顔を見遣った。


 表通りから零れる光に浮かび上がった肌の色は、透けるような白。

 頬にかかり、肩に触れるほどに長く伸びた、艶やかな髪は白金プラチナ

 裾の長い長衣ローブのような服から伸びる棒切れのように手足は細い。白目のきれいな目も、子供っぽく大きな童顔のそれ。


 ただ――


(……やっぱ駄目だな、こりゃ)


 あらためて、嘆息する。

 物慣れない態度だけでもすぐにそうと知れる。こいつは、万に一つの可能性――『』では、まったくない。


 顔立ちこそ恐ろしく目を引く綺麗なものだったが、どう贔屓目に見ても色街の女ではない。媚びもなければ誘う素振りもない。こうなるだろうと予感はとっくにしていたが、つまり役得を期待できる類の展開ではないということだ。


 とことんまで興を削がれたロキオムは、うんざりと嘆息した。

 きょとんとしながらその様を見上げていた少女は、大きな瞳を当惑したようにぱちくりとさせていたが――やがて、


「ほんとうに、だいじょうぶ……なんですか?」


「何がだよ」


「……いえ」


 一度、怯えたように俯いて。

 あらためて顔を上げると、少女はぺこりと頭を下げてきた。


「あ……ありがとう、ございました。たすけていただいて。お礼、遅くなってごめんなさい」


「あ? 別に構いやしねえって」


 犬でも追いやるような手つきで、フードの少女に向けて手を振る。


 「つかよぉ、こんなとこうろついて何してんだお前。そんなひ弱なナリでこんな街ふらついてたら、そりゃさっきみてぇなバカヤロウにも絡まれるってもんだぜ」


「え。それは……その」


「母ちゃんでも迎えに来たんか? そんならもののついでだ、案内くれぇはしてやんよ。どこの店だ」


「いえ……そういうのでも、ないんですけれど」


 あっさりと口籠ってしまう。

 要領を得ないやりとりに舌打ちしたくなり、寸前で自制する。ただでさえびくびくしているのを余計に怯えさせて、さらに要らぬ面倒を呼び込みそうな空気を嗅ぎ取ったせいだったが。


「……んじゃあ何だよ。もしかして迷子か。帰り道がわかんねーのか?」


 苛々と、焦れた心地で唸る。


 本音を言うなら、いい加減すべてを放り出してこの場を立ち去りたくなっていた。

 が――こうして一度、話を始めてしまった後では、年端も行かないちび相手にそこまで邪険にするのも、後ろ髪を引かれるものがあった。


 ただ、ここだけは幸いなことに、少女は「いえ」と首を横に振った。


「それは、へいきです。通りの外に出られたら、あとはだいたい……」


「そうかい。んなら、出口はそこの通りを右をまっすぐ行った先だぜ。色街の北口だが、そっちで合ってっか」


「はい。だいじょうぶです」


「なら、一人で帰れるよな。オレはもう行くからな」


「あ――」


 さっさと歩きだすロキオムの背中に、かぼそく頼りなく声が縋りつく。


「……今度はなんだよ」


 しつけぇな、と呻く言葉を口の中で磨り潰しながら。

 げっそりした渋面で振り返るロキオムに、少女はおずおずと、


「お、お礼をっ……助けていただいた、その」


「はあ? いらねぇよ、ガキの礼なんざ」


 返す言葉が、つい強くなったせいか――少女はびくりと竦み、薄い肩をふるふると震わせていた。

 ぎゅっと瞑った目元には、涙の雫が浮かんでいた。


「せ……めて……せ、せめて……おなまえ、を……」


 ――案の定。猶更面倒くさいことになった。

 これではまるで、こっちが悪者だ――こんな場面をユーグやあのおっさんに見られたらと思うと、ぞっと背筋が寒くなる。


(どうせ、大した礼もできねえくせによ)


 手間を取らされた苛立ち混じりに、そう撥ねつけようとして。

 寸前に、ふと思いつく。


「……んじゃよ、十年経って大人になったら、ベッドの相手してくれや。オレは《ヒョルの長靴》のロキオム・デンドランってもんだ」


「え? ベッド? えと……ロキオム」


「おお、ロキオム・デンドラン様よ。いずれこの街に名を轟かす超一流冒険者サマの名だ。今からつきあっときゃ後々箔がつくぜぇ? なんつってな。うはははは」


 ぽかんとしたその顔を見遣って、腹の底から盛大に笑い。

 ロキオムはぽかんと呆けた少女を置いて、さっさと路地を後にした。今度はさすがに、呼び止められることはなかった。


 ――さて。


 やっと自由が戻ってきた。

 胸いっぱいに新鮮な夜の空気を吸って、せいせいした心地で街を見渡す。


 今晩の恋人を探すはずが、一時の好奇心で妙な寄り道をしてしまった。

 まあ、それでも最後に垣間見たぽかんとした間抜け面には、いくらか溜飲が下がった。もういい。そういうことで忘れよう。


 鼻歌混じりに、呼び込みの女が華やかな声を上げる通りへと戻って。

 ロキオムはあらためて左右の店を見渡し、今晩の相手を探し始めた。



 ――だが、結局。


 ロキオムが、その夜の相手を見つけることはなかった。


 直前に――子供のそれとはいえ、抜きんでて磨かれた美貌を見てしまった後だったからか。右の女も左の女も、どうにもぱっとしない感じに見えてしまってならなかったのだ。業腹なことに。


 もはや気の取り直しようもなく、完全にしらけた気分で色街を後にして。


 朝まで店を開けている適当な酒場を見つけてそこへ転がり込んだロキオムは、憂さを晴らすように飲み明かした。そして、夜明け近くにようやく《忘れじの我が家》亭へ――玄関の鍵の隠し場所は、あらかじめ教えてもらっていた――帰ると、自分の部屋に戻って、くたばるように昼まで眠った。

 そして次に目が覚めたときには、このうんざりするような夜のことなど、すっかり思い出すこともなくなっていた。


 ゆえに――路地に残されたちいさな眼差しが、去り行く背中をずっと見送っていたのにも、気づく由などなかった。



 この時は、ただそれだけの出来事だった。


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