213.ひとときの閉幕:されど、其は終演の幕引きには非ずして【前編】



「このたびは、まことに申し訳ありませんでしたあぁぁあぁあぁぁ!!!」



 ――同じ頃。


 クレメンティア川とニミエール川の二つの河川に挟まれた、オルランド東方の市街――その中でも山の手に並ぶ上流の邸宅、そのひとつである。


 日暮れをとうに過ぎた夜半。《淫魔の盃》亭を預る女主人は、絨毯敷きの床に手をついて平伏していた。


 書斎机のチェアに腰掛けた自身の『ボス』を前に。額をこすりつけんばかりに、その頭を下げていた。


 魔光灯の白々とした光に照らされた書斎は、窓がないためかそれでもどこか薄暗さを感じさせる。あるいはそれは、扉以外の三方を天井まで届く書棚に塞がれた、圧迫感がそう感じさせるのかもしれなかった。


 精緻な文様を織り込んだ絨毯。

 シックな苔色を背景に置いて黄金こがねの花々が咲き誇る、擬革紙ぎかくしの壁面。

 装飾的なシャンデリアとして意匠された、煌びやかに光を散らす魔光灯――


 物慣れぬ者であれば、ただこの部屋へ立ち入っただけでも階級と格調の高さに怖気づかずにはおれないであろう、そこは上流の書斎であった。


「ですがご当主様、あたしはちゃんとやっていたんです! オーナーのため、のみならず歓楽街の女達すべてのため! これからの仕事場になる新しい宿を買い付けてやるはずが……それが、とんだ邪魔者が入ったせいで! おまけにグンヅのやつが、まったくの役立たずだったせいでえぇ……!」


 《忘れじの我が家》亭の獲得に失敗し、のみならず暴力沙汰に及んだ事実のみを残して逃げ帰ることとなった女主人が、彼女に《淫魔の盃》亭を預けた娼館のオーナー――彼女にとっては長年の愛人でもある男に呼び出されたのは、翌日の昼のことであった。


 男はこれまで女が見たこともないほど冷たく乾いた面持ちで窓の外を見遣りながら、マホガニーのデスクに一枚の召喚状と、短い文章が連なるメモを置いた。



『――指定の日時に、そのメモに書かれた場所へ行け。あちらから迎えが来る』



 召喚状に記された名を見た瞬間――体の芯から、「ひっ」と悲鳴がこみ上げた。


 ――《忘れじの我が家》亭から、うの体で逃げ帰った後。

 この時までの彼女は、はっきり言えば事の次第を嘗めてかかっていた。


 自分はオーナーの――オルランド北東の歓楽街に縄張りをもつギャングの愛人であり、その寵愛ゆえに《淫魔の盃》亭を任された。

 のみならず、オーナーは街の名士、そのひとりであり、その権勢で以て裏社会に広く顔の利く、重鎮の一人でもあった。


 たかがこの程度の失敗ならば、愛人の自分がちょっと甘えてみせれば許してもらえる。そして、後の始末はすべて男がやってくれる。

 それどころか、ちょっとしなを作っておねだりすれば、彼女のプライドに傷をつけた忌々しい連中をギャングの力でもってひれ伏させ、傷ついた女の心を慰めてくれさえするだろう、と――シドやサティア、あっさり彼女を裏切ったユーグ達への復讐を想像し、その愉悦に耽ってすらいた。


 呼び出しを受けたのは、彼女がそうした陰惨な空想に胸躍らせながら、表向きだけは粛然とオーナーへ赦しを乞いに出向こうとした、その矢先のことであった。


 そして、彼女の薄甘い目論見は、その鼻先で完膚なきまでに叩き潰された。


 その呼び出しは、オーナーのさらに『上』からのもの。

 召喚状にあったのは、オルランドの裏社会を統べる『顔役』――《ティグレス・ファミリー》を統べる、当主の名だったのだ。


「それが! よもやオーナーや組織のみならず、ファミリーの尊い方々にまでご迷惑をおかけすることになどなろうとは……あたしのような無学の女には、露ほども想像できなかったことで! 申し開きのしようもございません……!」


 ――以降。


 こうして夜半に邸宅を訪うまでの二日半。まさしく沙汰を待つ罪人の心地であった女主人は、『ボス』との対面を許されるなり身も世もなく取り乱して平服し、必死に釈明の懇願を並べ立てていた。


 その、哀れっぽく震える女の背中を。

 書斎机の『ボス』と、もう一人――『ボス』の傍らに控える側仕えの男の視線が、静かに見下ろしていた。


 男の姿は、異様だった。


 背の高い痩躯に着込んでいるのは、飾り気なくも上等な仕立ての上下だったが――頭すべてを覆う金属製のマスクをかぶった様が、男の姿を異様なものへと仕上げていた。


 睥睨するように女を見下ろす目は、真冬の鉄を思わせて冷たい。

 姿勢よく佇む様が調度品の全身鎧プレートアーマーを思わせる、さながら鋼を鍛えた剣のような男であった。


「それもこれもすべてはあの忌々しい木っ端どもと、期待外れのグンヅのせいで……ですからどうか、どうか今回ばかりはあなた様の寛大なお心を以て! この哀れな女に、御赦しと挽回の機会を賜りたく――!」


「顔をお上げなさい」


 そのひと声に。

 宿ひとつを預る女主人の背中が、びくりと竦んだ。


 ――そう。

 瑞々しくも甘い花の蜜のような――それはうら若い、少女の声だった。


「顔をお上げなさい、と言いました。聞こえているのなら、わたくしの言うとおりになさい」


「は……はい……」


 自身の半分も生きていないだろう瑞々しい少女の声に、女は真っ青になりながらおずおずと顔を上げる。

 執務机から女を見下ろす少女――の『ボス』は微笑んでいた。艶やかに、そして甘やかに。


 部屋着用に仕立てた、しかし上等きわまるドレスに身を包んだ――長く癖のない黒髪を美しく結い上げた、齢にして十五かそこらの少女である。

 幼げに切りそろえた前髪がかかる大きな瞳は琥珀色。顎の線がほっそりと尖った、小作りな卵型の輪郭。

 紅を引いたように潤む唇をやわらかい笑みの形にした少女の美貌は、可憐ながらも上に立つ者としての格を備え、顔を上げたばかりの女をひそやかに見下ろしていた。


 摘み立ての苺のように瑞々しく、光沢を宿す上等のシルクのようにたおやかな。ただそこに在るだけで人々の胸をくすぐらずにはおかないであろう、美しい少女であった。


 それ以上のものになど、決して見えはしないだろう――目の前の小娘が、五年前の抗争においてその椅子を手中におさめた、当代の《ティグレス・ファミリー》当主であると、知りさえしなければ。


「貴女のご活躍ぶり、わたくしの耳にもよく届いておりました。わたくし達の友人にして家族ファミリーに連なる大切なひとり、ロナンドおじ様がこれと見込まれた、素晴らしい才媛でいらっしゃると」


 甘やかな声は、むしろ好意的な明るさを帯びていた。

 床へ顔を伏せていた女主人が、思わず口の端が緩む安堵を感じてしまうほどに。


「経営を委ねられた冒険者宿は順調に実績を重ね、おじ様もその慧眼さぞ鼻が高かろうことと存じます。僭越ながら、このわたくしも事業の口利きに入った身――貴女のご活躍ぶりは、心より喜ばしく感じておりました」


「は、はい……お見知りおきありがとうございます。光栄に存じます、当主様――」


「――ですが、。此度の騒動は、たいへん残念でなりません」


「………………!」


 だが。

 僅かの間、緩みかけた緊張は──吐き気にも似た壮絶な恐怖と共に、引き潮のようにぶり返した。


「ど、どうして……」


 そんな――たかだか、辺鄙な下町の宿ひとつ程度のことで。

 震えながらもそう訴えようとする声は目詰まりを起こし、女は金魚のようにぱくぱくと口を開閉させるばかり。

 血の気をなくした女へ、少女は続ける。


「今回の経緯、既にその粗方は承知しております。そのうえで、貴女にはひとまずこの一件からは手をお引き願えるよう――わたくし達はそうお願いを申し上げたく、貴女をこの屋敷へお招きしたのです」


「で……ですが当主様! 今のままでは、歓楽街の娼館はどこも女余りで。それに」


「そちらの窮状には、私達もかねてより胸を痛めておりました」


 同じ『ファミリー』のことですから、と。

 悲しみをあらわすようにかぶりを振って、少女は言う。


「その件には、早急に別の形で手を打つことをお約束いたします。どうかこの先は、私達にお任せください」


「そんな! 何も、ティグレスの尊い方々にお出まし願うほどのことでは」


「今後も此度こたびのような強硬な振舞いに及ばれるようなこととなれば、『ファミリー』としては却って差し障りが増えてしまうのです」


 女の顔に戻りかけていた血の色が、一気に引いた。

 少女が何を言わんとしているのか、女には明白だった。


「取引相手への暴力沙汰に及び、挙句に怪我までさせてしまうなんて……件の宿からは、とうにオルランド戦士団へ一報が入ったようですよ? 近く、《淫魔の盃》亭には官憲の聴取が向かうでしょう」


「そんな、大袈裟な……! たかだか市井の平民や官憲の下っ端ごときが、《ファミリー》のあたし達に向かってできることなんて――」


「戦士団の聴取には、嘘偽りなくお答えくださいね?」


 グラスを打ち鳴らすように澄んだ声が続ける。

 女の抗弁の一切に、取り合うことのないままに。


「物的証拠がないから、などと浅薄な誤魔化しに走るが如き真似は、ファミリーも、このわたくし個人としても、まったく容認しかねるところです。あまりに度が過ぎるようだと、この先私達も、貴女を庇いきれなくなってしまうかもしれませんから」


 やわらかな物言いは、しかし紛れもなく、女主人に対する断頭台の刃――刑の執行を告げるが如き、厳然たる宣告だった。


「そうなれば。貴女の庇護者たるロナンドおじ様も、――その成否はこれより先の、貴女の振舞いひとつにかかっている。そのことだけはどうか、重々にご承知くださいませね」


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