212.交渉成立。そして一件落着――の、その後に。/終


「ま、宿代は払ってくれてるから。べつに構いやしないけどさ」


 放言するように言って、サティアはもう一度、盛大に肩をすくめた。


「その二人……ユーグとロキオムは、どうしてるんだい? さっきは姿を見かけなかったけど」


「さあ……あたしも今日は一日歩き回って、さっき帰って来たばっかだし」


 そう先に言い置いてから、サティアは改めて考え込む顔になった。


「髪の長い方はずっと何してんだかわかんないけど、でかいハゲの方は昨日、夕飯も食べないでいそいそ出てってたからなー……今日もおんなじ流れなら、どっかの酒場なりにしけこんでる頃なんじゃないの?」


「そうか……」


「あの二人、おじさんの知り合いなんだよね? まだ《淫魔の盃》亭にいてくれてたなら、いろいろ調べて貰ったりもできたんだけど……微妙に役に立たない立ち位置なんだよなぁ、あいつら」


 うんざりしたようにほやくサティア。シドは苦笑を深くする。

 あの夜の一件があったせいだろうが、サティアからユーグ達に対する印象は、控えめに言っても好意的なものとは言い難いようだった。


(とはいえ……)


 シドが気がかりなのは、彼らが『二人』だけでこちらに移ってきたことだった。完全に聞くタイミングを逃して、今もまだ事の次第を聞けていない。


 あの夜は用心棒の仕事ということで、荒事向きで威圧感のある前衛フロント二人だけだったのにもさほど違和感はなかったが――ルネ達、《ヒョルの長靴》の残り三人は、一体どこでどうしているのか。

 ユーグ達が《忘れじの我が家》亭を避難所代わりにしてきた以上、彼らも置かれた立場としては、さほど変わらないはずなのだが――


「――ねえ、おじさん」


「ん?」


 そうして、考え込んでしまっていたシドに対して、何を思ったか。

 サティアはじっとこちらを見つめて、静かに呼びかけてきた。


「後悔してない?」


「ええと……何が?」


「ルチアに霊薬アニマを使って、あたしからこの宿を買ったこと」


 それ以上、こちらを見ていられなくなったというように、サティアはふいと、あらぬ方へ目を逸らす。


「ルチアが元気になって。宿の責任も肩代わりしてもらって。あたしは身軽になって万々歳だよ。でもさ、おじさんは? ちょっとは利益もあるのかもしんないけど……いらないもの背負いこんだって、後悔してない?」


「してない」


 かぶりを振って。シドは躊躇いなく答えた。


「……というより、後悔できるだけの基盤もないんだと思う。自分の決断を後悔するほど、今の俺はものを知らないんだ」


「それ……いつかは後悔するかも、ってこと?」


 探るような声音で問い返され、シドは少し考え込んだ。


「そうかもしれない。けど、たとえばひとしきり後悔した後で、あらためて決断をやり直せたとしても――俺はきっと、今と同じことをするんだと思う」


 手を引いて、何もかもを見なかったことにして背を向けたなら。

 きっと、までもなく、今の時点でとうに後悔していたはずだから。


「だから、まあ……いつか後悔するんだとしても、『後悔しはじめる時』が変わるだけでさ。それはどっちみち、大して変わらないってことだと思うんだ」


「……よく言うよ。お人よし」


 きまり悪く、不器用に答えたシドに。サティアは力ない笑みを広げた。

 力のない笑みを広げて、そして――沈むように深いため息をつく。


「サティア?」


「ごめん。なんかさ……結局そういうことなんだよね、って。思ってさ。本当に困ったときに助けてくれるのなんて、結局おじさん達みたいな『お人よし』だけなんだよね――って」


 意図するところが分からず、シドは困惑する。

 返答のことばを探しあぐねて黙ってしまったこちらに気づいてか、サティアはぽつりぽつりと言葉を続ける。


「むかしね、おとうさんとおかあさんが言ってたんだ。

 『人を助けるのは、ただ、目の前のその人のためだけじゃない』……『それは巡り巡って、大きな輪を描いて、いつか自分を助けるために戻ってくるものなんだ』、って」


 だから――人は助け合って生きるのだ、と。

 両親はサティアに語った。


「いい言葉だね、素敵だと思う」


戯言ざれごとだよ」


 苦虫を嚙み潰すように苦々しく、目を伏せて。サティアはかぶりを振った。


「でなきゃ、お人よしの勝手な勘違い。世の中みんなが自分達とおんなじなんだって思いこんだ、お人よしの勘違いだ。

 おとうさんとおかあさんに助けてもらって、二人が親切にしてきたひとたちは、誰もあたし達を助けてなんかくれなかった――助けてくれたのは、みんなみんな『お人よし』ばっかりだった」


 そう言って。サティアはのけ反るように背中を逸らして、厩舎の天井越しの空を仰いだ。


「……こうしてあたしの重荷を取り払ってくれたのだって、たいした縁も所縁もない、通りすがりみたいなおじさんだったしね。だから、まあ……そういうことなんだなぁって、つくづく思い知ったの。それだけ」


 よっとばかりに、のけ反った身体を戻して。

 サティアは明るく笑った。


「なんてね。ただの愚痴デス。いろいろ楽になって、ちょっと気が抜けちゃったみたい。ごめんねおじさん、変なこと言っちゃってさ!」


「いや」


 シドは首を横に振る。

 彼女の吐露を聞いてしまったことは、シドからすればむしろ、いたたまれないような申し訳なさに襲われてしまうばかりだった。

 ――ただ、


「これは、きみの気持ちを否定するつもりではないんだけど……俺は今回のこと、少し違う風に思ったよ」


「……何が?」


 すっ、と明るい笑みを消すサティアに。

 継ぐ言葉に迷いながら、シドは躊躇いがちに切り出した。


「……俺にきみの現状を教えてくれたのは、《灰犬グレイハウンド》のウェスさんだった」


 そうでなければ、ルチアの病状を知ることはなかった。

 医師の口から、二人の姉妹を取り巻くこれまでを知ることもなかった。


「彼が、誤魔化すことなく本当のことを教えてくれなかったら……俺はこの宿まで来ることはなかったし、ルチアちゃんや医者の先生に会うこともなかっただろう」


「たまたまじゃん。そんなの」


「その通りだ。本当にたまたまだよ。きみが困っていた俺を見かねて、《灰犬グレイハウンド》への紹介状を書いてくれたから――きみの名前で差し出されたものに、彼が後ろめたさを覚えずにいられないくらい後悔していたから。だから俺は、それを知ることができた」


 そうして、シドが不審を覚えるほどに、後悔せずにはいられなかったから。


「だから……もし本当に俺がきみを助けたんだとしたら、それは最後に『それ』を受け取ったのが、俺だったというだけなんじゃないかと思うんだ」


 恩を受けながら、それを反故にして背を向けてしまったことを――彼が割り切ることも捨てることもしないままに。きっと、心のどこかに刺さった棘として、悔い続けていたからこそ。


「彼がずっと抱えて持っていたものを、たまたまそうできるやつが受け取った。これは、そういうことだったんじゃないのかな、って……」


 そのすべてが帰ることは、あるいは、生涯かけてもないのかもしれない。

 けれど、もしそういうことなのだとしたら――それは確かに、サティアのもとへと戻った。


 天を巡る星のように、大きな大きな輪を描いて。

 お人よしだった二人がいつくしんだ、娘たちのもとへと帰ってきた。


「言い訳はいくらだってできた。もしかしたら、言い訳ですべてをなかったことにするひとが、彼の周りにいたのなら――彼だって、いつまでも後悔なんか抱えていなかったかもしれない」


 無力を抱えて、背を向けながら。

 それでも、それらを忘れられずにいたひとびとが、ここにいたとしたならば。


 それは、


「だとしたら、それは――そういうことだったんじゃないかな、って」


 それは、決して消えることなく。

 目には見えずとも、確かにその形を変えて、ずっと、


「――――なにそれ、バカみたい」


 サティアは鼻で笑った。

 笑って、背を向けた。


「夢みたいなこと言ってるよ。いい歳したおじさんのくせして」


「夢みたいなものばかり見てるから、こんな歳まで冒険者なんてやってるんだよ」


 その背中に、シドは背を向けた。微笑んで。

 そうして、暗がりで震える女の子の薄い肩には、これっぽっちも気づかなかったふりをした。


 ふらりと厩舎の外に出て。星が出始めたばかりの空を仰いで。


「ほんと――バカみたいな話だよ。そんな……」


 引き攣れて戦慄く、その声にも。


 そのことばを搔き乱し、堰が切れたように溢れる嗚咽にも。何も。


 きっと、ずっとずっと背負ってきたもののの猛者に喘ぎながら、今までそうできずにいたはずの、彼女のために。空を仰ぎながら。



 ――泣き止んだ彼女が、もう一度こちらへ振り返るのを。

 シドは静かに、何も言わずに、ただ待ち続けていた。


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