211.交渉成立。そして一件落着――の、その後に。③


 サイラスと別れて帰路につき、《忘れじの我が家》亭へ戻る。

 しばらくぶりに背負う背嚢の重さを肩に感じながら、まだ身に馴染まない道のりを進む。


 玄関を開けて一階の酒場兼食堂へ入ると、「あっ」と弾んだ声が、明るくシドを迎えてくれた。


「シドのおじさん、おかえりなさい!」


「ただいま、ルチアちゃん」


 昨日まではほとんどを隅に寄せていたテーブルと椅子を、綺麗に並べ終えて。

 ぴかぴかに掃き清めた床を蹴って、今日は寝間着姿でない――初めて見るブラウスとスカートの上下に着替えたルチアが、軽やかに駆け寄ってきた。


「もう起きてて大丈夫なの? まだ寝てなくて平気?」


「それ、もうおねえちゃんにも医師せんせいにもきかれました。今日は昨日より、ずっとずっとげんきです」


 ぐっ、と胸の前で両手を握って、子供っぽく元気さをアピールする。自然と口角が緩んでしまうのを感じながら、シドは「そっか」と頷いた。


「今日はフィオレさんにもきかれたんですよ。お昼に来てくれたんですけど」


「そうなの? そっか、フィオレも来てたんだ」


「はい。顔色がよくなったね、って。医師せんせいもおなじことゆってました」


「そっか……」


 ――霊薬アニマの効果は覿面てきめんだった。

 少なくとも、今日の彼女を見る限りは。


 フィオレの知識を借り、《儀式魔術》の型式を整えて治療を行ったのも効いていたかもしれない。引き続きの経過観察は必要だろうが、今朝からの彼女はこの年頃の子供らしく、ずっと元気が有り余っていたようだった。


「あら、シドさん。お帰りなさい」


「ただいま戻りました、モニクさん」


 奥から姿を見せた、ふくふくとして人の好さそうな婦人――イゼット姉妹にとっては長年の隣人であるモニク・ヘルメル夫人が人好きのするやわらかい笑顔を広げるのに、シドはぺこりと頭を下げて返した。

 これまで、サティアが留守の際にルチアの世話をしてくれていた――危険な感染症を患った子供に温かく世話を焼き続けていた温和な婦人は、昨日まで完全に見ず知らずの男だったシドに対しても、物柔らかで人好きのする笑顔を崩すことのない女性だった。


 彼女は何かと忙しないサティアや宿の経営などド素人のシドに代わって、あらためての開業に向けた手伝いに来てくれていた。


「お夕飯の支度、できてますよ。いつでも食べられますから、欲しくなったら仰ってくださいね」


「ありがとうございます。でしたら、荷物を下ろしたらすぐに――」


 ――と。

 シドが言い終えるよりも先に、玄関のベルを鳴らして入ってくる足音があった。


「おねえちゃん、お帰りなさい!」


 サティアだった。真っ先に目が合ったシドへ目礼した彼女は、ぱたぱたと駆け寄ってきたルチアが抱きついてくるのを、両腕を広げて受け止める。


「ただいまー、ルチア。モニクさんも……ルチアがうるさくして、ご面倒かけてませんでしたか」


「そんなことないわ。今日はずっと頑張って働いてくれて、助かっちゃったわ」


「そうだよ。わたし、おてつだいしてたもん」


「そんで無理して熱でも出したら、またベッドに逆戻りだよ? っとに、もう」


 唇を尖らせながらも、苦笑気味に妹の頭を撫でる。

 その様に安堵の笑みを広げながら、シドは呼びかけた。


「おかえり、サティア」


「ただいま。おじさんも帰ってたんだ――てか、意外にゆっくりだったね」


「先に、《Leaf Stone》――お世話になってた宿屋さんに寄って、ご挨拶を済ませてきてたから。そのついでに、荷物も運んできたんだ」


 と。顎をしゃくって、旅の荷物が詰まった大ぶりな背嚢を示してみせる。


「フィオレとクロも、明後日にはこっちに移ってくることになった。それで、明日は見送り会をしてくれるってことになって――なので、明日の夕飯はそちらでいただいてきます」


 後半は、ヘルメル夫人に向けて言う。「はいはい」とおっとりした答えを受けて、シドは詫びるように目礼を返した。


「フィオレさんとクロちゃんのおへやも用意しなきゃだね」


「そうねえ。使ってなかったお部屋、もう一度きちんと掃除しなくちゃいけないわねぇ」


「ね!」


 笑い合うヘルメル夫人とルチアに、「そう」と相槌を打って。

 妹の身体を離したサティアは、あらためてシドと向き直った。


「おじさん、今からちょっと時間いい?」


「? べつにいいけど……どうかした?」


「仕事のおはなし。ちょっと情報共有を、ってね」


 緩んでいたシドの胸中に、緊張が戻る。サティアは笑った。

 つかつかと歩み寄り、小声で耳打ちする。


「――昼に副支部長さんとお話ししたこと、あたしにも教えて。旧交を温めてきただけってハナシなら、べつにいいけど」


「……分かった」


 サティアのことばに、首肯を返して。

 ヘルメル夫人とルチアにあらためて一声かけてから、シドはサティアの後に続いて、宿の奥へと向かっていった。



 サティアが足を止めたのは、裏口を出た先にある宿の裏手――馬車を停めてある厩舎だった。


「――さて」


 こちらに気づいて人懐っこく馬首を振る馬の鼻面をよしよしと一撫でしてやると、サティアはくるりと踵を返し、シドへと向き直った。


「こうしてついてきてくれたってことは、副支部長さんとのお話はただの雑談じゃなかったってことだよね。どんな話をしてきたの?」


 そう問いかけてくるサティアに。

 ふと、気づいたことがあり、シドはぽつりと零した。


「昼間みたいな、堅苦しい感じじゃないんだね」


 途端、サティアは渋面に顔をしかめた。


「……ルチアに聞かれると、なんか面倒そうだから。てか、おじさんがいいって言ったんじゃん。それともオーナーは、わたしにいかようにせよとのお考えで?」


「ああ、いやいや違うよ、そうじゃなくて……むしろ、ちょっと嬉しかったというか、ほっとしたというかさ」


「……あ、そ」


 不貞腐れたようなばつの悪い顔つきで、サティアは唇を尖らせた。

 シドはきまり悪く頭を掻きながら、あらためて彼女と向かい合った。


「確かに、サイラスとは今後の話もしてきた……正直、あまりいい話とはいえないんだけれど」


「いいよ。聞かせて。知らないよりはずっといいしね」


 にこりと挑戦的に微笑むサティアに、内心「かなわないなぁ」と思いながらため息をついて。

 シドは腹を据えると、昼にサイラスと話した内容を、サティアにも話して聞かせた。


 一通りを聞き終え、その内容を咀嚼するような顔つきで睫の長い目を細めていたサティアだったが。やがて、黙考の間は伏せ気味にしていた面を上げた。


「……うん、ありがと。あの女――《淫魔の盃》亭の連中に関しては、だいたいそんなとこだろうなって思ってた。でも、もっと『上』の誰かが本気でこの宿を獲りに来てるんだったら、もっといくらでもやりようはあった筈だし……そこは一旦、置いておこうよ」


 何かをのける調子でひらりとてのひらを振って、サティアは言う。


「むしろ、これからしばらくは《連盟》が守ってくれるって言ってるんだからさ。悪い話どころか、ありがたいくらいの話だよ。おじさんはもちろんだけど、あたしもしばらく時間も手数も余裕なさそうだし……頼りにさせてもらお」


「……本当は、きみにもその場に立ち会ってもらって、判断を仰ぐべきことだったんだろうね」


 今更になってそんな考えに思い至ってしまい、シドは申し訳なくなる。

 対するサティアは、「いいって」と軽く首を横に振った。


「あたしがその場にいたって、べつに大して変わりやしなかったよ。それに、あの副支部長さんとは近いうちにあらためてきちんとお話しして、他に引き出せるものがないか確かめてみるつもりだったし」


「引き出せるもの……って」


「おじさん達と別れた後ね、役所や《連盟》の窓口――あと、法律家の先生せんせの事務所に行ったりして、制度の確認とかしてきたの」


 疑問符を浮かべるシドに、サティアは応える。


「この宿を休業するときにも、使えるものないかって一度は洗いざらいしたんだけど、それから法律とか何か変わってることがあるかもしれないし。開業にあたって使えるもので、忘れてるやつがあるかもって思って、それでね」


「……そうだったんだ」


 まったく念頭になかった。

 分かりきっていたことではあったが、実際にここを冒険者宿として動かしてゆくにあたって、自分はまったくの素人で、現状は完全な役立たずだ。


「こういうのは、よっぽどでもない限りは向こうから『お優しく』伝えてなんかくれないからね。自分で何とかしなくっちゃ」


「その……ありがとう。ごめん、至らなくて」


 しょげかえるシドに、サティアは「べつに」とかぶりを振る。


「あたしだって最初から、おじさんにそういうとこは期待してないよ。《連盟》の副支部長さんと個人的な伝手があるってだけでも、手札としてはだいぶん大きいし――てか、おじさんに頑張ってもらわなきゃいけないのは、もっと別のとこだよ」


「別?」


 サティアは頷く


「――


「……それは」


「それがおじさんの『目的』――少なくとも、そのひとつなのはあたしも了解してる。けど、今はもう、それだけじゃなくってさ」


 困惑するシドに、サティアは続ける。


「おじさんだって自分で言ってたでしょ? 冒険者として名を上げて、《忘れじの我が家》亭を盛り立てて、一端の冒険者宿にしてあたしに返してくれるって。おじさんに頑張ってほしいのはそういうところ。この街に――ううん、地中海イナーシー中に、いっそ大陸ぜんぶに響き渡るくらい『シド・バレンス』って名前を知らしめて、その名前をしるべに、この宿へたくさんの冒険者が集まるようにしてもらわなくちゃ」


 一気に語り終え、サティアは息をつく。


「あたしも、そのために全力でやってくつもり。でもさ、あたしはやっぱり『冒険者』じゃないから」


 冒険者宿は、あくまで籍を置く冒険者を『管理』する単位に過ぎない。

 単純な権力関係としては冒険者よりも『上』ではあるが、一方でそこに身を置く冒険者の存在なしには、その存在が立ちゆくものではない。


「冒険者宿の一番の力っていうのは、宿にいてくれる冒険者で……元手になるものがないままじゃ、あたし一人で何したって空回りするばっかりだから」


「……責任重大だね」


「そうだよ。おじさんにはいっぱい働いてもらわなきゃ」


 あらためて心を引き締めるシドに、サティアは茶化す調子で苦笑する。


「うちの冒険者なんて、今はまだおじさんだけ……いいとこ、後はフィオレさんが来るのかもってくらいだし。二人はいつまでいる気なんだかわかんないし、ほんとあいつらどうしたもんか」


「……ごめんね、手間ばっかりかけて」


 冗談めかした調子で盛大に肩をすくめるサティアに。シドは力なく苦笑を零した。

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