207.ここから先になすべきは、多分、『おひとよしおっさん冒険者』がほんとうにやらなくてはいけないこと⑥


「いや、何…………言って」


 耳を疑った。

 幸いにして、それはサティア一人きりの困惑ではなかったようだった。医師はぎょっと眼を剥き、フィオレの美貌にも戸惑いが色濃い。


 ただ――当のシドはといえば、深く悔いるような沈痛な面持ちで、静かに目を伏せていた。


 静かな、けれど、『本気』の表情だった。


 収束しかけた場の空気をひっくり返されたのを、ひりひりと肌で感じる。

 絶句するサティアを他所に、シドは医師を見た。


医師せんせい。主治医であるあなたから、霊薬アニマを投薬する許可をいただけないでしょうか」


「ちょっ、と……」


「それからフィオレ、すまないんだけどきみにも立ち合っていてほしい。病気を霊薬で治療するのは初めてだから、せめて使い方はきちんと検討しておきたいんだ。霊薬のことなら、森妖精エルフで魔法にも造詣のあるきみの方が、俺なんかよりずっと詳しい」


「ちょっと、おじさん! 待ってよ!?」


「ごめん、サティア」


 振り返り、かみつかんばかりの勢いで商談のテーブルへ駆け戻るサティアへ、シドは頭を下げて、詫びた。


「商談だとかなんだとか、きみに気を遣ったつもりで、狡いやり方をした。どう言ったらいいかわからないけど……俺のやったことは、浅知恵だったんだと思う。恥ずかしいよ」


 ――そうじゃない。


 度し難い歯がゆさと共に――サティアは心の底から狼狽した。


「でも今は、霊薬アニマは俺の持ち物だ。だから、使い道は俺が決めさせてもらう。この霊薬はきみ達のために使うと、


 それは、確かにそうだ。至極単純な道理だ――が、


「最初から、それだけでよかったんだよな……それを、こんなにぐるぐる遠回りして、きみが言わなくてもよかったはずのことをたくさん言わせてしまった。本当にすまない」


「いや、そうじゃ……何、考えっ……なに、考えてんの……!?」


「もちろん、あの子ルチアの病気を治すことを考えてる」


 はっきりと。一片の躊躇いもなく、シドは言い切った。


 『治して』ですらない。

 意固地なまでの、それは意志の宣言だった。


「きみが、俺に気を遣ってくれてるのはわかるよ。でも俺はあの子の病気を治したいし、サティアのことも何とかしたい。きみは理由がないと言ったけど、理由というならそれがだ」


「理由って……そんなの」


「確かにきみが言うとおり、この霊薬アニマはものすごい財産になるものなのかもしれない。けれど――でも、何て言うか……そうじゃないんだよ、これは。俺にとってのこれは、そういうものじゃない」


 ふと。

 シドはどこか気弱そうな笑みを浮かべて、はにかんだようだった。


「……もともと、お金に換えるために持って帰ったものじゃないからね。持ってれば何かの役に立つかもと思って、持ち帰るのに賛成したものだ。その使いどころが、『今』だと思ったんだよ」


 それだけだから、と。

 シドは言う。気弱な中年の笑いを引っ込め、男はまっすぐ、真摯にサティアを見た。


「ルチアちゃんが……彼女が、霊薬アニマなんか使わなくても、時間をかければきちんとよくなる保証があるのなら。今ここで霊薬アニマを使った治療に固執するのは、単なる俺の勇み足だ。けど、彼女の容態は……これは、俺が知る限りでの判断だけど、彼女の病気はそうしたものではないと思う。とても安心なんてできない」


 今度は、サティアが言葉に詰まる番だった。その懸念は、何一つ間違っていない。


 ルチアの病状は、小康状態だと聞いていた。

 けれど、この数日という短い間に、妹は二度も、激しく吐血した。


 ヘルマン氏病に特効薬はない。栄養をつけて心身を強く保ち、自然治癒を待つしかない――裏を返せば、ということだ。仮にそうできたとしても、必ず助かる保証はない。

 医療の遅れた土地においては、ヘルマン氏病は事実上の死病として数えられるひとつなのだ。


「霊薬を正しく使えれば、あの子の病気は治るはずだ。そうしなくても、いつかは治るものなのかもしれないけれど、もしそうでなかったら……俺は多分、この先ずっと後悔すると思うんだ」


 あるいはここで使えば、いつかどこかで使ったことを後悔する日があるかもしれない。

 けれどここで使わなければ――その結果が最悪の形に終わったならば、自分はここで決断できなかったことを、必ず後悔する。


「……俺は、それが怖い。だから、これはぜんぶ理由なんだ」


 立ち尽くして、そのことばを聞く。

 彼の――シド・バレンスの理由。『お人よし』の理由。

 サティアの理由では、なくて。


「きみがこの宿を売れないというなら、それもいいんだ。困らせて本当にすまなかった、諦める。でもその代わり、きみがまた昨日みたいな目に遭わずに済むよう、別の手立てを考えることにする。そのことは許してくれ」


「別の、って……」


 急に、イラッとした。ざわつく苛立ちのまま、声を荒げる。 


「やめなよおじさん、何するつもりでいるのさ! 手立てって……てかさ、そもそも何したらいいかって、ちゃんと見通し持ってんの!?」


「正直、わからない。今は何の目算も立ってない……だから、これから考える」


「『目的』はどうすんのさ!!」


「もちろんそれも何とかする。そっちも、俺一人だけのことじゃないから……方法を考える」


「無茶苦茶だよ! 現実ちゃんと見えてる!?」


 きかん気の子供のように、サティアは喚いた。

 両手を振り上げ、激しくテーブルを叩く。


「おじさんがどんだけのひとかなんて、あたしには本当のことなんかわかんないけど! でも、あんたは一人しかいないんだよ!? そんないくつもいくつも、いっしょくたに抱え込める訳ないじゃんか!!」


 その重さを、知ってる。たぶん、すべてではないけれど。

 一人じゃとても抱えきれないものを、一人で負わなきゃいけない、その重さ。


「そう思うのなら、どうか俺を助けてくれ」


 真っ向から、その目を見返して。シドは訴えた。


霊薬アニマを受け取って、妹さんを治してあげてくれ。この宿を俺に譲って、この街オルランドでの拠点に使わせてくれ。そうしたら、俺は『目の前のこと』で悩む必要がなくなる」


 ――詭弁だ、こんなものは。

 でたらめだ。


「それがだめなら、代わりに別のやり方を教えてくれ。一緒に考えてくれ。そうして、ようやく何もかも上手くいくんだって信じられたら……そしたら俺は、俺自身の『目的』だけ、考えていられるようになる」


「そんなの……関わり合いになる必要がないってハナシだよ、最初から! 最初からそんなんなら、こんな、あたしみたいなのの他人事っ……はじめっから、背負しょいこんだりしなくていいんだよ、あんたは!!」


 ――何のために

 ――何のために、あんたを《灰犬グレイハウンド》に紹介してやったと


「それは違う。俺は、きみに巻き込まれてここにいるんじゃないから」


 シドは言う。


「何も気づかなかったふりだって、背を向けて別のところへ行くのだって、いつでもできた。ましてやきみは最初から、俺みたいなのを関わらせたくなんかなかったはずだ」


 背を向けて見なかったことにするだけなら、今からでもできる。

 いつだって、そうできたのだ。彼は――他の、たくさんのひとたちがそうしたみたいに。

 けれど。それでも、



「それでも、俺は自分で選んで関わり合いになったんだ。だったらもう、それは他人事なんかじゃない」



 どうしようもない、自分の手には負えないことだと見限って、ここから立ち去るだけのことならば。そんな風にするしかできないことなんて、世の中にいくらでもある。

 善悪の問題じゃない。勇気の問題でもない。

 それは、ただ、


「……聞いたよ。きみのご両親が行方知れずになった時、この宿にいた冒険者達は、みんな他所の宿へ移っていったって」


 そうして、この宿にはサティアとルチアの二人だけが残されたのだと、シドは医師から聞いた。医師は姉妹を憐れみ、やる方ない怒りをここにいない彼らへ向けて、ぶちまけていた。


「《灰犬グレイハウンド》のご亭主さん……ウェスさんも、そうなんだね」


 彼は懺悔していた。自分がしたことに、その後ろめたさに怯えていた。


「だったら何。仕方ないじゃんか、そんなの」


 視線を背けて、サティアは唸る。


「あの時、あの人たちにできることなんて、何もありやしなかったんだから。自分のことだけで精いっぱいだった、そんなひとたちにさ……」


「そうだね。俺もそう思う。背負いこんだら自分ごと共倒れになるかもしれない他人の荷物なんて、怖くて手なんか出せない。誰だって」


 それは、ただ――どうしようもなく、及ばないことだと分かってしまったから。


 力がないから。

 お金がないから。


 何もかもが、足りないから。


 たまたま行きあわせてしまったからと中途半端に手を出したところで、結局は何もできずに逃げ出すしかないような、そんなものを前にしてしまったら。

 できることなんて、何もない。自分にはどうしようもないと見限って、いつか何とかなってくれたらと祈りながら、背を向けてそっと立ち去るくらいしか。


 自分の人生をしてまで、他人の重荷なんて背負えない。

 背負いきれない――背負った瞬間から、いずれはその重さに潰されてしまうと分かる、そんなしろものは。


「俺だって、何も変わらない……どうにもできないことを前に怖気づいて、手を引くしかできなかったことくらい、ある」


 それは決して、遠い過去の悔恨などではない。


 《箱舟アーク》で、宝石となったクロと初めて出会った時も、そうだ。

 自分一人の力では命を引き換えにしても到底力の及ばない呪いを前に、一度は解呪を諦めて手を引きかけた。


 シドがクロの呪いを解くことができたのは、たまたまあの小部屋に、あらかじめそのための仕掛けが用意されていたからだ。


「でも、『これ』はそうじゃない。俺はきみたちの現状を解決できる、それだけのものを持っている」


 言葉を継ぎながら。

 不意にシドは、何かに思い至ったようだった。


 その事実に、ようやく安堵して――シドは、その笑みを明るくした。


「だから、助けさせてほしいんだ。自分から関わって、放っておけなくなった。理由っていうなら、きっと――それが、俺の理由なんだ」

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