206.ここから先になすべきは、多分、『おひとよしおっさん冒険者』がほんとうにやらなくてはいけないこと⑤


 静かに。

 サティアは深い息をつき、華奢な肩に籠っていた力を、ゆっくりと抜いていった。


「――『商談』は最初から立て付け。あたしがこの話に食いついていけるように、後付けで『利益』をひねくり出した、確かな根っこのない上っ面の作り話。だから利益とコストがちっとも見合わないし、話が途中で上滑りする」


 サティアのことばは穏やかだった。

 浮かべる微笑みも、もう乾いてはいなかった。


「ルチアの病気を治して――それから、この宿のことで、昨日の女みたいな連中にまたあたしが襲われたりなんかしないように。あたしの代わりに、おじさんが矢面に立ってくれようとしてる。全部引き受けようってしてくれてる。

 この『商談』って、そういうことだよね? さすがにちょっと見え透いてるよ」


「サティア――」


「てかさ。今このテーブルに載ってるのって……おじさんにとって、全財産のうちのどれくらい?」


「……それは」


「ああ、ごめん。答えなくていいよ。商談の間、おじさんの顔色見てたからさ。だいたいわかるし。手持ちの資産からひねり出せる、ほとんどってくらいのとこじゃない?」


 シドの答えを待つことなく。サティアは苦笑混じりで、軽やかに笑った。


「宿に戻ればまだ附術工芸品アーティファクトがあるって言ってたけど、それまで吐き出したら全財産、ってくらいのやつ。いや、この金額を即金で吐き出せちゃうってだけでもびっくりなんだけどさ……そんなシロモノ、『はいそうですか、ありがとうございます嬉しいなぁ』、なんて感じで、受け取っちゃうのはね」


 ゆるゆると、かぶりを振る少女に、シドは何も言えなくなっていた。

 サティアの指摘が、シドの実情を正しく突いていたせいだ。


 表情を歪ませるシドを、サティアは微笑んで見上げる。


「ありがとう、助けようとしてくれて。でもさ、一応商人だからね、実体のない『商談』には乗れない」


「サティア……!」


 狼狽する医師へ、ゆるゆるとかぶりを振って。

 サティアは交渉の席から腰を上げた。


「……おじさんが、自分の暴力で今まで何でもかんでも自由してこれたような、ちょっと勘違いしちゃった感じのバカなおじさんだったらさ。あたしだって、もしかしたらこれぜんぶ貰っちゃおうかなって気持ちに、なってたのかもしんないけど」


 机上に並んだ『対価』を見下ろしながら。ありふれた丸テーブルの端に、そっと指先で触れる。


「そしたらさ。『わぁ、ありがとうございますぅ。おじさんってすごいんですねぇ、かっこいいですぅ!』――なーんて具合で、媚びておだてて誉めそやして。そんで腹の中でこっそり舌を出しとくくらい、アリかなって。そう思えたかもだけどね」


 ――そう、信じていられたら、よかったのに。


 その身に備えた圧倒的な暴力など、さもないようなふりを決め込みながら。お人よしの善人面で呑気に生きてこられるような、安穏とした人生を送ってきた、心底羨ましく腹立たしい、苦労知らずのむかつく中年男。


 小細工なんか、ひとつも必要ない。

 無力さに辛酸をなめ、地べたを這いずる思いに喘ぐこともない。


 自分を騙した小娘をいともあっさり許し、そんなやつのためにさえ命をかけることができてしまうくらい――己の人生を信じられる、きっと成功と賞賛にその行路を満たしてきた、大人の男。


 暴力で身をよろった強い大人の男。

 きっとその人生において、惨めさや悔しさなど地の果てほどに縁遠いものだった。


 叶わなかった祈りなど、これまでひとつもなかったはずだ。

 ああ、だからこそ、あんな風に呑気でいられるんだと。


 ――サティアあたしとは、何もかもが違う。

 はるか頂を地べたから見上げるように、遠く遠く隔てられた、強く成功した大人の男。


 そう――そんな風に信じ込んで、いられたなら。

 つまらない、くだらない輩だと――軽蔑して、いられたなら。


 けれど、


「けどさ、そうじゃないんでしょ? だったら駄目。これはもう、『商談』なんかじゃないもの」


 そうではないんだと、もう分かってしまったから。

 だから、サティアはもう、目の前の彼に対して、顔を上げていることさえできない。


「これに見合うものを、あたしは差し出せない。あたしは『これ』に見合うだけの理由なんて、何ひとつ持ってない。

 行きずりの、たまたま船旅を行きあわせただけの女の子にさ――こんなもの渡しちゃいけないよ。そんな風にしていい理由なんて、ある訳がない」


「サティアさん」


 たまりかねたように。フィオレが名前を呼ぶ。


「余計な嘴なのはわかってるけれど、でも訊かせて……それなら、ルチアちゃんはどうするつもりなの? 霊薬アニマを受け取るつもりがないというなら、あの子は」


「あたしが何とかするよ。あの子が元気になるまで、今まで通りあたしががんばる」


 切々と問いかけるフィオレに答えて。

 サティアは俯けた表情を、長い髪で隠す。


「勘違いしないでね、エルフさん。あたし達は何もなくしてないし、昨日までと何も変わらない。最初からあるはずがなかったものを、ほんの少し見たって気がしただけ」


「……そんなの」


 たじろいだように身を引くフィオレの美貌にあったのは、深い戸惑いだった。


 これさえあればすべてが報われるのに――なのに、どうしてその手を拒むのかが分からない。

 気遣わしく歪んだ細面に、そう書いてあるのが見えるようだった。

 そうだね、そうだろうね、と。胸の内でだけ、皮肉に頷く。


「……もし、あたしが今ここで素直に助けてもらって、何もかもがいい感じにうまくいったとしよっか」


 指先に力がこもりそうになるのを、鉄の意思で自制する。


「あたしは、めでたしめでたしで万々歳だよ。ルチアは元気になりました。あたしはすっかり身軽になりました。で――それで明日になって。おじさんの目の前に、今のあたしとおんなじ理由で困ってる『誰か』が現れたとしよっか。

 そしたらおじさん、その時は一体どうする?」


 無為な問いかけだ。極北のように、現実からかけ離れた仮定だ。

 それでも問わずいられなかったのは、シド・バレンスにとってのサティアとは──所詮、その程度のものでしかないからだ。


「もしかしたら、その一回くらいは、また上手にやれるかもしれないね。

 でも、その次は? またその次は? そうやって――いちいち見ず知らずの他人事に自分を切り売りしてさ。それで、おじさんの『目的』とやらはどうすんの。人助けの片手間でゆうゆうできるような、そんな簡単なことな訳? 多分だけど、そういうんじゃないよね」


 難病に苦しむ誰かも。

 背負った荷物の重さに潰れそうになって喘ぐ誰かも。


 自分達だけじゃない。きっと、ありふれたようにどこにでもいる。


「エルフさんはどう? このおじさんが、どこの誰かも知れたもんじゃない他人事に、いちいち自分を切り売りしてさ。それでいいって思う? そればっかでいいって、そう思える?

 このおじさんの『二十年』ってさ――結局、そういうことだったんじゃないのかな」


 ――本当は。


 喉から手が出るくらい欲しい。

 この机上に置かれたもの、ぜんぶ。


 これが『商談』だっていうなら、その上っ面を都合よく鵜呑みにしてしまいたい。

 差し出される全てに、甘えて。ありがたく、ぜんぶ受け取ってしまいたい。


 ルチアを治せるかもしれない薬を引っ掴んで、今すぐあの子の部屋へ走っていきたい。


 負わなきゃいけなかったものぜんぶ、いつだって重くて重すぎて喘いでいたぜんぶを、預けてしまいたい。


 代わりにやってくれるっていうお人よしに全部任せて、庇護という大きな傘の下で、ぬくぬくした安穏にたゆたっていたい。


 そのためだったら――自分一人の人生くらいなら差し出したってかまわない。


 明日を思うたびに見えない鑢で心を削られるのも、お金のない苦しさで死にたいような心地に胸を焼かれるのも。終わりが見えない今をそれでも足掻き続けなきゃいけないのも、嫌だ。もう嫌だ。何もかもぜんぶ嫌だ。楽になりたい。疲れた。休みたい。考えたくない。護られたい。ぜんぶぜんぶぜんぶぜんぶ他人任せにして、責任を投げ出してしまいたい。


 ――でも、やっぱり駄目だ。そんなのは駄目なんだよ。


 ちょっと綺麗な女の子一人程度の人生じゃ、この机上にあるものには到底釣り合わない。そんなものは、お人よしの憐れみに縋りつくのと、何ひとつ変わらない。


 目の前の、底が抜けたバケツみたいな大馬鹿相手には。

 ろくろく知らない、ほとんど見ず知らずの誰かのために、自分の身を限界まで削ぎ落として何でもない顔をしているような、クソ馬鹿野郎には。


 たぶん、安穏とした人生を送ってきたのではなく。

 きっと、叶わない祈りがなかったのでもなく。


 それは、ただ――本当にどうしようもない、『おひとよし』のことばだと、わかってしまったから。


 だから、その手に縋りつくのを許せない。

 そんな風にしちゃいけない。サティアみたいなよわっちい女の子は――自分が楽になることしか考えられない、卑屈に高みを仰ぐだけの、薄汚れたいきものは。


「地べた這いずりまわってる連中が足元に集まって、縋りついてくるのなんかさ。そんな景色、見てちゃだめだよ。おじさん」


 テーブルから、手を離す。何でもないことのように。


 交渉の席に背を向ける。この商談おはなしは、これでおしまい。


「やらなきゃいけない『目的』があるんでしょ? だったら、そこのそれはそのために、自分のために使うのがいいよ」


「サティア」


 宿の奥へ去ろうとした、その背中を。

 それでも呼び止める、声があった。


「きみの言いたいことは、分かった。いや……本当は分かってないかもしれないけど、分かったと思う。たぶん……きみの気持ちは、たぶん」


 ――どっちだよ。


 心が毛羽立って、思わず問い返しそうになった。

 乾いた笑いの混じった、溜息が零れた。


「だから、これをサティアへ譲るのは諦めるよ」


 もはや包み隠さず、恐らくはそれと気づかぬままに本心をぶちまけながら。

 シドは遂に、自らの矛先を引いた。


 きっと、彼に悔やませているのだろうことに後ろめたさを覚えながら、それでも退いてくれたことにほっと胸が軽くなるのを覚える。

 そして、


「――代わりに今からルチアちゃんの部屋まで行って、直接、霊薬アニマを使うことにするよ」


 …………………………。

 ………………………………。



「………………へ?」


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