205.ここから先になすべきは、多分、『おひとよしおっさん冒険者』がほんとうにやらなくてはいけないこと④
「それは――」
「まさかと思うけど、その
「……そうだ」
シドは頷く。
頷くしかなかった。筋道の通った言い訳を、咄嗟に用意できなかったせいだ。
サティアは声を立てて、弾けるような盛大さで笑った。
「それ――いくらなんでも大盤振る舞いがすぎるよ、おじさん。さすがにそれは胡散臭いっていうかさ、『それ本当に伝説の霊薬なの?』ってなるとは思わなかった?」
「思うよ。確かにきみの言うとおりだ。だからこそ、俺はこの
この返答は想定の外だったか。サティアの眉が、怪訝さにちいさく跳ねた。
「さっき、
机上のそれが本物の霊薬アニマであることを、シドはこの場で示すことができない。
無論――シドは、瓶の中身が霊薬アニマであることを知っている。致命傷だったアレンを癒した霊泉の水を世界ごと詰めて、異世界から持ち帰ったものだ。
だが、
「問題はそれだけじゃない。これが真実、本当の霊薬だったとしても――目に見える外傷ならいざ知らず、ルチアちゃんは病気だ。体の内側の問題だ。実際に使って、霊薬に伝承通りの効果があったかどうかは、きちんと経過観察の期間を取らなければ分からないことだ」
――実のところ、本当に、どうあっても事前に『検証』しなければおさまらないというのなら、まったく手がない訳ではない。
霊薬アニマを封じた瓶はもう一つある。フィオレが持っているぶんだ。
だが、これの無駄な消費は認めがたい。万に一つ、霊薬を正しく使えなかった時のための備えが――『予備』がなくなってしまうからだ。
「そして、仮に病気が治ったとしても――それが本当に『霊薬アニマの効果』であったかを、俺は確かな形で示せない。
「……その理屈は、さすがに『譲りすぎ』じゃないかな、おじさん」
サティアは苦笑交じりの声音で、あっさりとそう切って捨てた。
「どこまで効果があるか分からない薬でも、本当に正しいかわからない診察でも、お医者さまはそれ相応の代金を取るものだよ――普通はね」
最後にぽそりと付け加えた一言に。
痛いところをつかれたように、医師が僅かに口の端を歪めたようだった。
「本物だとしたら……それこそ余計に受け取れない。
そもそもだよ? そこまでする理由は何なのさ。貴重な貴重な霊薬を、わざわざそんな形で、あたしなんかに寄越してくださる理由は何?」
「――なあ、サティア」
「ごめん。
焦れた声音で唸る医師のことばを、ぴしゃりと撥ねつけて。サティアは真意を射抜かんとするように、じっとシドを見据える。
「……俺がこの宿のオーナーになったとして。然る後に、やらなければいけないことがあると思っている」
「それは何?」
「この宿を、冒険者宿として立て直すことだ」
揺るぎなく、シドは答えた。それはこの『商談』を持ちかけるにあたって、シドが予め自分の中で定めていたルールだった。
シドの目的だけに的を絞るなら、買い取った宿は名ばかりの状態でもいけないことはない。
だが、その場合――サティアへこの宿を『返却』する時の問題がある。
「ろくに維持も管理もできてない状態の冒険者宿を、自分が要らなくなったからと放り出すような不誠実は、商人としての――いや、商人でなくとも、人としての道理に
「その話と、霊薬とに、どんな関係があると?」
「分からないかい? いくら冒険者が無鉄砲な命知らずでも、同じ屋根の下に危険な感染症を抱えた子供がいる宿で、毎朝毎晩寝起きしたいと思えるかどうか」
――そんな筈はない。
仮に、感染の危険が低い病気であったとしても、気分のいいものではないだろう。他に行き場がないなら或いはということもあるだろうが、他所に当てがあれば間違いなくそちらへ逃げるだろう。
「オーナーになる以上、宿の環境を整えるのは義務だ。同時に、実際の宿の管理をきみ達へ委ねなければならない以上、ルチアちゃんの病気の治療は『従業員の衛生管理の一環』だ」
テーブルへ身を乗り出すようにしながら。シドは強く訴える。
「俺は『義務』として、彼女の治療に尽くさなければならない。霊薬アニマは、言わばそのための『手段』なんだ」
丸テーブルに、しんと帳のような沈黙が下りた。
サティアは半ば目を伏せるようにしながら、完全に黙考していた。
――やがて、小さく笑った。
「……意外。おじさんって結構、舌がまわるんだね。それともその辺の理屈、あらかじめぜんぶ頭に叩き込んどいた感じのやつ?」
情動の潤いを欠いて、乾いた声で。「けれど」、とサティアは反駁する。
「けれど、それはおじさんが宿のオーナーになったら、の話だね。あたしが一言、『売らない』って言ったら、根底から崩れる理屈だよ」
「――いい加減にしないか、サティア!」
椅子を蹴立てて叫んだのは、医師だった。
「こいつはルチアのヘルマン氏病を治せるかもしれない、またとない機会なんじゃないのか!? だというのに君は、さっきから口先で、訳の分からない理屈をこねまわしてばかりで――!」
怒りのためか、あるいは苛立ちのためか――きつく拳を握った医師は、両手に込めすぎた激しい力のせいで、その逞しい肩をわなわなと戦慄かせていた。
「私にはわからんよ……君はいったい、何がそんなに不満だというんだ!?」
激しい怒声が、びりびりと空気を震わせるようだった。
シドは緊張の面持ちで、思わず宿の奥へ目を走らせていた。奥にいるルチアに、聞かれてしまったのではないだろうか、と。
張り詰める沈黙を切るように、小さく息をついて。サティアは淡々と答えた。
「不満なんて、ないよ。
「だったら――!」
「でもさ、理由もないんだよ」
ぽつり、ぽつり、と雨垂れのように零しながら。サティアは少しずつ、笑みを深くしていった。
「ルチアのために薬を譲ってもらって、挙句に宿を預けて護ってもらう――ちょっと前まで見ず知らずだったおじさんに、そこまでしてもらう理由がないの」
「それは誤解だ、サティア。この話し合いは、あくまで商談」
「嘘つき」
クスリと口の端を緩め、サティアは笑った。
ひどく乾いて、凝った――空虚な『疲弊』の笑みだと思った。
「根本の部分で、おじさんがこの宿にこだわる理由は何もない。
――おじさんは単純に、あたし達を助けようとしてくれてるだけなんでしょう?」
でもさ、と。
サティアは吐き捨てる。
「あたしには、ないの。何もないんだよ。何も思いつかない。ひとつも。
そんな……そんなふうにしてもらえる、お綺麗な理由なんてものがさ」
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